DEEP PURPLE ディープ・パープル


メンバーを替えながら進化するブリティッシュ・ハードの生きる伝説

Jon Lord ジョン・ロード/キーボード
Ritchie Blackmore リッチー・ブラックモア/ギター
Nick(Nicky) Simper ニック・シンパー/ベース・ギター
Ian Paice イアン・ペイス/ドラムス
Rod Evans ロッド・エヴァンス/ヴォーカル

70年代前期のブリティッシュ・ハード黄金期、レッド・ツェッペリンと共に常にその頂点にあり、いまだ生きながらにして伝説化しているのが、ブリティッシュ・ハードの一方の雄ディープ・パープルだ。
1967年にイギリスで結成されたラウンドアバウトというバンドが彼らの前身。このバンドには、元アウトローズのリッチー・ブラックモアや元フラワーポット・メンの2人、ジョン・ロードとニック・シンパーも含まれていたが、68年にはサウンド強化のためメンバーチェンジを行い、元メイズのロッド・エヴァンスとイアン・ペイスが加入。それと同時にバンド名も改め、ディープ・パープルと名乗るようになる。
68年にはアルバム「ハッシュ〜ディープパープル1」でデビューした彼らは、いきなりそこからのシングル「ハッシュ」が全米4位の大ヒットを記録し、キーボードを前面に出したアート・ロックとして、大きな注目を集めた。アメリカでは同年中にリリースされたセカンド・アルバムからも、カヴァー曲の「ケンタッキー・ウーマン」がスマッシュ・ヒットし、前作以上の成功を収めた。しかし、ポップなシングル曲とは裏腹に、このアルバムや次のサードではしだいにクラシック音楽色を強め、プログレ・ハードの原型とも思えるような、ストリングスを多用した組曲などが増えていった。
だが、初期の彼らは、アメリカでの好調ぶりに比べ、イギリスでの評価は低く、まだまだ無名の存在であった。折しもこの頃、イギリスではレッド・ツェッペリンが大ブレイクし、ハードでヘヴィなロックが脚光を浴びつつあった。リッチーは自分たちも、もっとハードなアプローチをするべきだと主張しはじめる。
このリッチーのアイデアに対し、ジョンやイアンも賛同し、以降サウンドをハード路線へと切り替えてゆくのだが、69年メンバーの協議によりニックとロッドを解雇することとなった。理由については、2人の技量が及ばなかったと噂されたこともあったが、実際はそんなことはない。初期の3枚のアルバムを聴けば分かるが、第1期ディープ・パープルの人気を支えていたのは、ロッドのヴォーカルと言っても過言ではない。太くて甘い、本当にいい声だ!ニックのベースも、ライブでは聞いたことがないので、はっきりとは断言できないが、アルバムで聞く限り腕にまったく問題はない。逆に浮いているのはリッチーのギターだったりする・・・。
もしかすると、ニックのベースはけっこう音も大きく目立っていたので、リッチーにとっては目障りな存在だったのではないだろうか!?
ロッドについては、他のメンバー達が地元イギリスでの成功を重要視していたのに対し、1人アメリカへ渡りたがっていたためだという。後任には、リッチーのアウトローズ時代の仲間、ミック・アンダーウッド(クオターマスストラップス〜ギラン/ds)の紹介で元エピソード・シックスの
Ian Gillanイアン・ギラン(vo)とRoger Gloverロジャー・グローバー(b)が加入した。
ロッドは脱退後72年に、あの伝説的な名盤「キャプテン・ビヨンド」をタイトル同名バンドの一員として生み出す。このアルバムは1期パープルの目指していたプログレ・ハード路線を見事なまでに開花させた奇跡の名盤であったが、活動場所がアメリカであったことと、カプリコーンというサザンロックが得意なレコード会社からリリースされたため、当時はあまり話題にならなかった。しかしながら、この1枚のアルバムで、ロッドのシンガーとコンポーザーとしての資質の高さは、充分すぎるほどよく分かる。ニック・シンパーはその後ウォーホースやファンダンゴを結成し活動するが成功には至らず、80年代から目立った活動はしていなかったが、95年クオターマスIIのメンバーとして元気な姿をみせていた。

ハードロックの代名詞、第2期ディープ・パープル

70年、新メンバーを迎えて初めてのアルバムは、1期サウンドの集大成とも言えるクラシック・オーケストラとの共演であった。当時このアルバムは「ロック」と「クラシック」の融合を成功させたと世界中で絶賛された。このあと大手のアトランティック・レコードへ移籍した彼らは、いよいよリッチーの構想通り、よりハードでヘヴィなサウンドへと変貌を遂げる。その第1弾である70年発表のアルバム「イン・ロック」では、同じバンドとは思えないほどヘヴィなサウンドで、リッチーのパワフルなギターとギランのハイトーン・ヴォイスが冴え渡る。このアルバムはみるみるうちに全英チャートを4位まで駆け上り、なんとトップ10に26週間もランクイン。先行シングルだった「ブラック・ナイト」(アルバムには未収録だったが、後にイン・ロック〜アニヴァーサリー・エディションに収録されている)も見事全英2位に輝いた。
この大成功で、ツェペリンと肩を並べる存在にまでのし上がった彼らは、以降リッチーがバンド内でのイニシアチブを取り、ハード路線をまっしぐらに突き進んでゆく。
同じ頃、イギリスではブラック・サバスも産声を上げ、そのサバスやツェッペリン、パープルらが生み出すハードとしか言いようのないロックは、いつしか「ハード・ロック」と呼ばれ、彼らの歩みと共に栄枯盛衰することになる。
2期パープルはその後も、アルバム「ファイアボール」(71年)が全英No.1、「マシン・ヘッド」(72年)が全米7位/全英1位と快調に大ヒットを飛ばし、72年ついに初来日を果たしている。この時ライブ・レコーディングされた2枚組LP「ライブ・イン・ジャパン」は、彼らの真の実力を示す素晴らしい出来映えで、エキサイティングなステージの興奮をそのまま伝えるものであった。このアルバムは、当初は日本だけでリリースされたが、あまりの反響に、後から「Made In Japan」として編集し直され世界リリースした。また、シングル盤だけで出されていた「ブラック・ナイト」のライブ版も、「Made In Japan」がCD化された時に、他のアンコール曲とともにボーナス・トラックとして追加されていた。そして、93年にはCD3枚組スペシャル・エディションとして、ついにこの時の来日公演の全貌が明らかになった。
だがこの後、2期パープルはメンバー間のトラブル(特にリッチーとギラン)により急激に失速。73年にはアルバム「紫の肖像」をリリースしたものの、同年の再来日公演を最後にギランとグローバーは脱退してしまう。

無名の新人に賭けたパープルの命運

2人の脱退後、すぐに後任のメンバー捜しを開始し、ベーシストにはヴォーカルもこなす元トラピーズのGlenn Hughesグレン・ヒューズに決定したが、すでにハードロック界の最高峰シンガーと称えられる存在となっていたイアン・ギランの後任を見つけ出すことは容易ではなかった。また、リッチーはグレンのヴォーカルをあまり気に入っておらず、4人だけでバンドを進めようという妥協も許せなかった。まったく違うタイプではあるが、名ヴォーカルとして確固たる地位を築いていた元フリーのポール・ロジャースにも声をかけたが、結局は断られ、募集広告を出すことになる。しかし、オーディションに現れたミュージシャン達の中にも相応しい人物は見つからず、ヴォーカル捜しは難航を極めた。
そんなある時、ふと何の気無しに聞いたデモ・テープから、なんともソウルフルで深みのある独特の声がメンバー達の耳を釘付けにした。その声の持ち主こそ、その後パープルを背負って立つことになる名ヴォーカリスト、
David Coverdaleデイヴィッド・カヴァーデイルその人だった。
カヴァーデイルは、それ以前ほとんど目立ったバンド経歴もなく、まったくの新人に近かったが、オーディションにも見事合格し、第3期パープルのリード・ヴォーカルとして迎え入れられた。
そして、パープル・ファンならずとも、すべてのハードロック・ファンが見守る中、74年メンバーチェンジ後初のアルバム「紫の炎」(Burn)が発表された。
2人の新メンバーによって、ブルース(デイヴィッド)やファンキー(グレン)といった、それまでのパープル・サウンドにない要素が加わったことで、音の幅と深みが増し、このアルバムは彼らの最高傑作と言っていいほどの仕上がりをみせていた。
もちろん、アルバムは大ヒットし、全米9位、全英3位、ドイツを始めとするヨーロッパ各地でも軒並み1位と、2期と同等の成功を収めた。
中でも、押しも押されぬビッグスター・バンドのリード・ヴォーカルという重責を見事に果たし、すでにこのアルバムから全曲を共作するなど、新人らしからぬ存在感を見せつけたデイヴィッドの働きは、その後のパープルの方向性をも大きく左右することとなる。
同74年、早くも次のアルバム「嵐の使者」(stormbringer)をリリースするが、このアルバムでは新メンバー2人のカラーが大きく反映され、よりファンキーでブルージーなサウンドに変化していた。それまで事実上のサウンド・リーダーであったリッチーは、しだいに自分の思うままにならなくなったパープルには興味がなくなり、かねてから目を付けていたエルフのヴォーカリストのロニー・ジェイムスディオと共に、ニューバンド結成のためパープル脱退を決意する。結局75年のヨーロッパ・ツアーを最後にリッチーは脱退し、同年中に早くもレインボーとしてのアルバム・デビューを飾っている。

アメリカの血を導入した4期

オリジナル・メンバーであり、パープルの成功に大きく貢献してきたリッチーの脱退は、イアン・ギランが脱退した時以上のダメージをバンドに与え、ジョン・ロードとイアン・ペイスは、もはや解散もやむなしと考えていた。だが、若い2人はバンド続行を主張し、レコード会社との契約問題などもあったことから、リーダーのジョンはバンドの継続を決断。新たにデイヴィッドが捜してきたアメリカ人ギタリスト、Tommy Bolinトミー・ボーリンを迎えることとした。
トミーはジョー・ウオルシュ(現イーグルス/g)の後釜としてジェイムス・ギャングで活躍し、ジャズやファンク系アーチストとも共演するなど、幅広い音楽性を持った注目の新鋭ギタリストであった。
75年には、このメンバーでのデビュー作「カム・テイスト・ザ・バンド」を発表。3期のデビュー同様、かなりの話題作となった。
しかし、おおかたの予想通り、パープルの顔ともいうべきリッチーの穴を埋めることは難しく、9曲中7曲を共作するなど、コンポーザーとしての才能は高く評価されたが、ギタリストとしては、パープルの築き上げてきたブリティッシュ・ハードのスタイルとはまったくかみ合わず、ファンをがっかりさせた。また、ライヴでも観客に受ける曲は2期や3期のものばかりで、各地でリッチー・コールまで出る始末だった。トミーはこのプレッシャーをはねのけることができず、しだいにドラッグに溺れ、同年行われたワールド・ツアーではフラフラでろくに演奏できる状態ではなかった。この時の日本公演のライヴが「ラスト・コンサート・イン・ジャパン」(後に完全版This Time Around - Live In Tokyoも発表)
として後にリリースされたが、聞くに堪えないひどい演奏だ・・・。
コンポーザーとしては、ファンキーでポップな良い曲を作っていたし、ソロ・アルバムでもジャズやフュージョン寄りのアプローチを見せるなど評価が高かっただけに、もう1枚スタジオ・アルバムを作っていれば、きっとより良い方向へ行っていたと想像できただけに非常に残念だ。
翌76年、ジョン・ロードはついにパープル存続を断念。記者会見で正式にディープ・パープルの解散を発表した。
解散直後、トミー・ボーリンはジャケットに「富墓林」と書かれたソロ・アルバム(Private Eyes)をリリースしたあと、ドラッグの多量摂取により他界している。

「男のロマンを求めて」

その後、ジョン・ロードとイアン・ペイスは、ペイス・アシュトン・ロードを結成し活動するがうまくいかず、結局はデイヴィッド・カヴァーデイル率いるホワイトスネイクへ入れさせてもらうという逆の立場になっていた。しかし、ホワイトスネイクが全米2位の大ヒットを記録した時には、もう2人の姿はない。イアンはブラック・サバスにも加入し話題になった。グレン・ヒューズは元のトラピーズを再結成させた後ソロになり、一部のHR/HMファンの間では未だに根強い人気を保っている。
数年後、レインボーやホワイトスネイクの活躍で、パープルの存在もすでに忘れ去られようとしていた1980年、とんでもない事件がアメリカで起きていた。
なんと1期のヴォーカリストだったロッド・エヴァンスが、突如寄せ集めのメンバーにディープ・パープルの名前を付けてコンサートを行い始めたのだ。それだけなら既にパープルも解散後の事、一応オリジナル・メンバーであった彼にもパープルを名乗る資格はあると思うのだが、演奏していた曲が2期の代表曲であったからいただけない・・・。これが発覚した後、他のメンバーが激怒。裁判沙汰にまで発展して、結局ロッドは1期パープル時代の印税の権利まで失うことになってしまう。ロッドは医療関係の資格を持ってたため、その後はおとなしくアメリカで病院務めをしているそうだ。名ヴォーカリストであっただけに、もうあの声が聞けないのは残念なことだ。
しかし、この事件は元2期パープルのメンバー達を再び引き合わせ、交流を深めるきっかけになった。パープルの中心人物であったリッチーも「あの2期のメンバーとならまたやってもいい・・・」と徐々に心が傾いていった。
イアン・ギランは、パープル脱退後、エピソード・シックス時代の仲間ジョン・グスタフソン(元クオターマスハード・スタッフ/b,vo)らとイアン・ギラン・バンドを結成し、なかなか良いアルバムを出していたが、セールス的には恵まれず、78年バンド名をギランと改めメンバーも次々と代えた。その後ミック・アンダーウッドが参加してから多少成功を収めるが、再び不振に陥り、83年にはなんとブラック・サバスへ加入し、ファンを失望させた。
ロジャー・グローバーは脱退後、プロデューサーとしての才能を開花させ、ナザレス、ロリー・ギャラガーストラップス、ジューダス・プリースト、マイケル・シェンカー・グループなどを次々と成功に導いた。また、プレイヤーとしてもホワイトスネイクやレインボーで活躍。イアン・ギランとは対称的に多忙な日々を送っていた。
そしてついに84年、2期パープルのメンバー達は、ディープ・パープルを再結成させるため、それぞれのバンドを脱退または解散してまで集結した。記者会見で発表された再結成理由は、「男のロマンを求めて」という内容のものだった。
同年さっそく再結成第1弾アルバム「パーフェクト・ストレンジャーズ」をリリースしたが、イアン・ギランの声の衰えに少々不安を感じながらも、まずまずの仕上がりで、ここからのシングル「ノッキング・アット・ユア・バック・ドアー」もレインボーの初期を思わせるようなクラシカルな雰囲気が漂う名曲で、スマッシュ・ヒットを記録した。また翌年来日も果たし、ファンの間で熱狂的に受け入れられた。
ところが、再び昔のようにリッチーとギランの仲が悪化し、以降ギランはバンドを出たり入ったりする。そして94年リッチーの脱退〜ジョー・サトリアーニ(g)の代行〜元カンサス
Steve Morseスティーヴ・モーズ(g)の加入(96年)によって一応メンバーは落ち着いたが、ギランの声の衰えが著しく、聞いていて痛々しいほどだ。あのシャウトする歌唱法を変えない限り、この先もヴォーカリストとしてやっていくのは、かなり苦しいのではないだろうか。余談だが、リッチーの代役にはマイケル・シェンカー(元スコーピオンズUFOMSG)も候補にあがっていたが、断られたらしい。
2001年には来日ツアーのフォロー・メンバーにロニー・ジェイムスディオ(元レインボー〜ブラック・サバス〜DIO)を加えていたが、往年のパープル・サウンドを愛してやまない自分などは、そのままロニーが正式メンバーになってはくれないものかと願ってしまう・・・。(HINE) 
2002.4




Shades Of Deep Purple
Harvest/ワーナー

The Book Of Taliesyn
Harvest/ワーナー

Deep Purple
Harvest/ワーナー

Deep Purple In Rock
Harvest/ワーナー

Fireball
Harvest/ワーナー

Machine Head
Purple/WEA

Who Do We Think Are
Purple/WEA

ディスコグラフィー

1968年 Shades Of Deep Purple(ハッシュ〜ディープ・パープルI)*シングル「ハッシュ」がいきなり全米4位と、さい先の良いデビューを飾る
1969年 The Book Of Taliesyn(詩人タリエシンの世界)
*カヴァー曲「ケンタッキー・ウーマン」がヒット。アルバムも成功を収める
1969年 Deep Purple(ディープ・パープルIII)
*プログレ・ハードの先駆け的サウンド。このままの路線でも成功していただろう
1970年 Concerto For Group And Orchestra(ロイヤル・フィル・ハーモニック・オーケストラ)
*文字通りオーケストラとの共演
1970年 Deep Purple In Rock(イン・ロック)
*実質2期の幕開けはここから。ハードロックの様式美を確立した名盤
1971年 Fireball(ファイヤーボール)
*2週間で仕上げたという即席アルバム
1972年 Machine Head(マシン・ヘッド)
*ハードロックのバイブルと化している名盤中の名盤
1972年 Live In Japan(ライブ・イン・ジャパン)
*これぞライブの決定版!泣く子も黙る5人衆の名演大バトル
1973年 Who Do We Think Are(紫の肖像)
*「ウーマン・フロム・トーキョウ」収録。2期のラスト・アルバム
1974年 Burn(紫の炎)
*デヴィッド・カヴァーデイルとグレン・ヒューズの2人ヴォーカル体制でギランの穴を埋めた歴史に残る名盤
1974年 Stormbringer(嵐の使者)
*グレン・ヒューズ色が強くなり、デヴィッドとの確執を生む。これを最後にリッチーは脱退
1975年 24 Carat Purple(ブラック・ナイト=24カラット)
*「ブラック・ナイト」を含む2期のベスト盤
1975年 Come Taste The Band(カム・テイスト・ザ・バンド)
*トミー・ボーリンを加え、まったく違うサウンドになった4期唯一のスタジオ盤
1976年 Made In Europe(メイド・イン・ヨーロッパ)
*3期のライブを収めた作品。Burnの出だしの「Rock'n'Roll」と言うかけ声がカッコイイ!
1977年 Last Concert In Japan(ラスト・コンサート・イン・ジャパン〜紫の燃焼)
*ひどいコンディションの4期ライブ。お薦めできません
1977年 Power House(パワー・ハウス)
*2期のメンバーによるライヴ。日本とヨーロッパのみのリリース
1978年 Purple Roll(パープル・ロール)*1期と2期からのベスト
1980年 New Live And Rare(ライヴ・アンド・レア)
*未発表ライヴや未発表スタジオ・テイクの寄せ集め集
1980年 Deep Purple In Concert(イン・コンサート)
*70年と72年の2期のライヴ2枚組
1980年 Deepest Purple(ディーペスト・パープル)*4枚組BOXセット
1982年 Deep Purple Live In London(永遠の炎〜ライヴ・イン・ロンドン)
*3期のライヴ
1984年 Perfect Strangers(パーフェクト・ストレンジャーズ)
*2期のメンバーで再結成後ギランが最後の輝きを放った、なかなかの力作
1986年 The House Of Blue Light(ザ・ハウス・オブ・ブルー・ライト)
*ギター・シンセやファンキー・ビートを導入した問題作
1988年 Nobody's Perfect(ノーバディーズ・パーフェクト)
*再結成後初のライヴ・アルバム
1990年 Slaves And Masters(スレイヴズ・アンド・マスターズ)
*元レインボ-のジョー・リン・タナー(vo)が加入し、不評をかった作品
1993年 The Battle Rage On(紫の聖戦)
*再びイアン・ギランが加入してのパープル結成25周年記念作品
1994年 Come Hell Or High Master(ライヴ・紫の閃光)*リッチー最後の勇姿。
1996年 Purpendicular(紫の証)
*元カンサスのスティーヴ・モーズ(g)が加入しての初作品
1997年 Deep Purple Live At The Olympia'96(紫神転生〜ライヴ・アット・ジ・オリンピア'96)*モーズ加入後初のライヴ音源
1998年 Abandon(アバンダン)
*モーズ色が出て、多少プログレっぽくなったが、よりヘヴィでもある
1999年 Purple Chronicles(パープル・クロニクル〜紫の匣)

2000年 In Concert With The London Symphony Orchestra(ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール)
*70年以来の大胆なオーケストラ共演ライヴ。ロニー・ジェイムスディオ(vo)も参加している
2001年 Live At The Rotterdam Ahoy *これもロニー参加のオーケストラもの
2002年 Royal Philharmonic Orchestra 



Stormbringer
Purple/WEA

Come Taste The Band
Purple/WEA

Perfect Strangers
Polydor/ポリドール

Slaves And Masters
RCA/BMG

The Battle Rage On
RCA/BMG

Purpendicular
RCA/BMG

Abandon
Emi/テイチク


★★★名盤PICK UP★★★

ライヴ・イン・ジャパン
Live In Japan

ディープ・パープル
Deep Purple



1972年 Purple/WEA

SIDE-1

1.ハイウェイ・スター
 
Highway Star
2.チャイルド・イン・タイム
 
Child In Time

SIDE-2

1.スモーク・オン・ザ・ウォーター
 
Smoke On The Water
2.ミュール
 
The Mule

SIDE-3

1.ストレンジ・ウーマン
 
Strange Kind Of Woman
2.レイジー
 
Lazy

SIDE-4

1.スペース・トラッキン
 
Space Truckin'

おそらくロックの数あるライブ盤の中でも5本の指には入る名盤が、このディープ・パープル2期のライヴ・インジャパンだろう。個人的には1番と言ってもよいくらいだ。今ではCD化され、その全貌が明らかになっているが、当時は編集していることなど思いもよらなかったので、これが一続きで行われたライブでの模様だと勘違いしていた。まあ、それを差し引いたとしても、5人のメンバーの壮絶なバトルはすさまじいばかりだ。ドラムソロが入っているSIDE-4を除いても、1面に2曲づつしか入っていない。4,5分の曲がここまで長くなっているのは、各プレイヤー、特にリッチー・ブラックモア(g)のソロ・パートが非常に長いからだ。しかし、まったくダレることなく、次々とメロディアスなフレーズが飛び出してくる。とても気持ちいい!
ジョン・ロード(key)やイアン・ギラン(vo)との絡みも素晴らしい。完全にオリジナル(スタジオ録音盤)を上回る出来映えだ。少々のミスなど少しも気にならないくらいエキサイティングで、スピード感にあふれている。今では笑い話だが、「スモーク・オンザ・ウォーター」の途中、リッチーが間違えて、変な音を出す場面がある。それを当時のギター小僧達は、みなマネをして音を外して弾いたものだ。おそらくはジミ・ヘンドリックス亡き後、マイケル・シェンカーが現れるまでは、リッチーこそがギター小僧達最大のギター・ヒーローであったのではなかろうか。アドリブでこれだけ長時間良いフレーズを弾き続けられる人はエリック・クラプトンぐらいなものだし、過激パフォーマンスで勝てるのは故ジミ・ヘンぐらいなものだ。この時期のリッチーは本当に神がかり的だった。
イアン・ギランも長いキャリアの中でも最高の状態だ。ライブでは再現不可能だと考えられていた「チャイルド・イン・タイム」のハイトーン部分を、さらにパワフルに歌い上げ、血管が切れるのではないかと心配になるぐらいすさまじい。
ジョン・ロードのハモンド・オルガンもこの2人へ割り込むようにエキサイティングなプレイで応酬。クラシカルなフレーズな中にもバロック音楽が持っているような爆発的パワーを感じる。
もちろんロック界最速と言われたイアン・ペイスのドラミングも、一人冷静なロジャー・グローバー(b)の確実なプレイも見逃せない。
今では彼ら自身2度と実現不可能な"奇跡のライブ"と言えよう。


紫の炎
Burn

ディープ・パープル
Deep Purple



1974年 Purple/WEA

SIDE-A

1.紫の炎
 
Burn
2.テイク・ユア・ライフ
 
Might Just Take Your Life
3.レイ・ダウン・ステイ・ダウン
 
Lay Down, Stay Down
4.セイル・アウェイ
 
Sail Away

SIDE-B

1.ユー・フール・ノー・ワン
 
You Fool No One
2.ホワッツ・ゴーイング・オン・ヒア
 
What's Goin' On Here
3.ミストゥリーテッド
 
Mistreated
4.“A”200
 
"A" 200

イアン・ギラン(vo)の脱退。これにはパープル・ファンならずとも、ハードロック・ファンなら誰もがショッキングな出来事として捉え、「もうパープルも終わりか」と思ったはずだ。パープルは人気絶頂期にあり、ギラン自身この時ハードロック界最高のヴォーカリストと囁かれていただけに、そういった皆の思いも当然だった。しかも後任にと話を持ちかけていたソウルフル・ヴォイスの最高峰、ポール・ロジャース(元フリー〜バッド・カンパニー)にも断られ、無名の新人デヴィッド・カヴァーデイルをリード・ヴォーカリストに据えたのだから、なおさら期待できるはずがない。
ところが、この新人はただものではなかった。もともとはヴォーカルもできるベーシストとして先に加入が決まっていた、グレン・ヒューズにアシストさせるつもりで新人を入れたのだが、カヴァーデイルは最初からヒューズが霞むぐらいの存在感で、見事にギランの穴を埋めた。それどころか、後にオリジナル・メンバー達をも牽引する働きで大活躍したのだ。
このアルバムでは、いきなりインストゥルメンタルを除く全曲の曲作りにも参加。大ヒット曲「紫の炎」はもちろんのこと、名バラード「ミストゥリーテッド」での落ち着き払ったヴォーカル。まったく新人らしからぬパフォーマンスで、それまでとは違う、ブルージー&ファンキー(ファンキーさはヒューズによる影響が強い)なパープル・サウンドを構築していった。
リッチーのギターもこのアルバムからは少しトーンを鋭くし、ディストーションを押さえ気味に弾いている。フレーズもクラシカルなものから、ブルースっぽいものまで実に多彩だ。これらはカヴァーデイルが加入したことによって変貌を遂げたサウンドへの配慮だろう。それが証拠に後で結成するレインボーでは、またディストーションを効かせた分厚い音に戻している。それまでライブ・バンドとしては、ツェッペリンをもしのぐパフォーマンスを見せてきたパープルであったが、スタジオ・アルバムとなると、どうもプアーな感じがして、音質も音楽性も一歩譲るところがあった。しかしこのアルバムでは面目躍如、幅広い音楽性と深みのある味わいを兼ね備えている。特にミストゥリーテッドでの表現豊かなカヴァーデイルのソウルフル・ヴォイスとリッチーが繰り出すメロディアス・フレーズの絡みがたまらなく良い。パープルの全アルバムの中でも最高傑作と呼べる名作だ。