メンバーを替えながら進化するブリティッシュ・ハードの生きる伝説
Jon
Lord ジョン・ロード/キーボード
Ritchie Blackmore リッチー・ブラックモア/ギター
Nick(Nicky) Simper ニック・シンパー/ベース・ギター
Ian Paice イアン・ペイス/ドラムス
Rod Evans ロッド・エヴァンス/ヴォーカル
70年代前期のブリティッシュ・ハード黄金期、レッド・ツェッペリンと共に常にその頂点にあり、いまだ生きながらにして伝説化しているのが、ブリティッシュ・ハードの一方の雄ディープ・パープルだ。
1967年にイギリスで結成されたラウンドアバウトというバンドが彼らの前身。このバンドには、元アウトローズのリッチー・ブラックモアや元フラワーポット・メンの2人、ジョン・ロードとニック・シンパーも含まれていたが、68年にはサウンド強化のためメンバーチェンジを行い、元メイズのロッド・エヴァンスとイアン・ペイスが加入。それと同時にバンド名も改め、ディープ・パープルと名乗るようになる。
68年にはアルバム「ハッシュ〜ディープパープル1」でデビューした彼らは、いきなりそこからのシングル「ハッシュ」が全米4位の大ヒットを記録し、キーボードを前面に出したアート・ロックとして、大きな注目を集めた。アメリカでは同年中にリリースされたセカンド・アルバムからも、カヴァー曲の「ケンタッキー・ウーマン」がスマッシュ・ヒットし、前作以上の成功を収めた。しかし、ポップなシングル曲とは裏腹に、このアルバムや次のサードではしだいにクラシック音楽色を強め、プログレ・ハードの原型とも思えるような、ストリングスを多用した組曲などが増えていった。
だが、初期の彼らは、アメリカでの好調ぶりに比べ、イギリスでの評価は低く、まだまだ無名の存在であった。折しもこの頃、イギリスではレッド・ツェッペリンが大ブレイクし、ハードでヘヴィなロックが脚光を浴びつつあった。リッチーは自分たちも、もっとハードなアプローチをするべきだと主張しはじめる。
このリッチーのアイデアに対し、ジョンやイアンも賛同し、以降サウンドをハード路線へと切り替えてゆくのだが、69年メンバーの協議によりニックとロッドを解雇することとなった。理由については、2人の技量が及ばなかったと噂されたこともあったが、実際はそんなことはない。初期の3枚のアルバムを聴けば分かるが、第1期ディープ・パープルの人気を支えていたのは、ロッドのヴォーカルと言っても過言ではない。太くて甘い、本当にいい声だ!ニックのベースも、ライブでは聞いたことがないので、はっきりとは断言できないが、アルバムで聞く限り腕にまったく問題はない。逆に浮いているのはリッチーのギターだったりする・・・。
もしかすると、ニックのベースはけっこう音も大きく目立っていたので、リッチーにとっては目障りな存在だったのではないだろうか!?
ロッドについては、他のメンバー達が地元イギリスでの成功を重要視していたのに対し、1人アメリカへ渡りたがっていたためだという。後任には、リッチーのアウトローズ時代の仲間、ミック・アンダーウッド(クオターマス〜ストラップス〜ギラン/ds)の紹介で元エピソード・シックスのIan Gillanイアン・ギラン(vo)とRoger Gloverロジャー・グローバー(b)が加入した。
ロッドは脱退後72年に、あの伝説的な名盤「キャプテン・ビヨンド」をタイトル同名バンドの一員として生み出す。このアルバムは1期パープルの目指していたプログレ・ハード路線を見事なまでに開花させた奇跡の名盤であったが、活動場所がアメリカであったことと、カプリコーンというサザンロックが得意なレコード会社からリリースされたため、当時はあまり話題にならなかった。しかしながら、この1枚のアルバムで、ロッドのシンガーとコンポーザーとしての資質の高さは、充分すぎるほどよく分かる。ニック・シンパーはその後ウォーホースやファンダンゴを結成し活動するが成功には至らず、80年代から目立った活動はしていなかったが、95年クオターマスIIのメンバーとして元気な姿をみせていた。
ハードロックの代名詞、第2期ディープ・パープル
70年、新メンバーを迎えて初めてのアルバムは、1期サウンドの集大成とも言えるクラシック・オーケストラとの共演であった。当時このアルバムは「ロック」と「クラシック」の融合を成功させたと世界中で絶賛された。このあと大手のアトランティック・レコードへ移籍した彼らは、いよいよリッチーの構想通り、よりハードでヘヴィなサウンドへと変貌を遂げる。その第1弾である70年発表のアルバム「イン・ロック」では、同じバンドとは思えないほどヘヴィなサウンドで、リッチーのパワフルなギターとギランのハイトーン・ヴォイスが冴え渡る。このアルバムはみるみるうちに全英チャートを4位まで駆け上り、なんとトップ10に26週間もランクイン。先行シングルだった「ブラック・ナイト」(アルバムには未収録だったが、後にイン・ロック〜アニヴァーサリー・エディションに収録されている)も見事全英2位に輝いた。
この大成功で、ツェペリンと肩を並べる存在にまでのし上がった彼らは、以降リッチーがバンド内でのイニシアチブを取り、ハード路線をまっしぐらに突き進んでゆく。
同じ頃、イギリスではブラック・サバスも産声を上げ、そのサバスやツェッペリン、パープルらが生み出すハードとしか言いようのないロックは、いつしか「ハード・ロック」と呼ばれ、彼らの歩みと共に栄枯盛衰することになる。
2期パープルはその後も、アルバム「ファイアボール」(71年)が全英No.1、「マシン・ヘッド」(72年)が全米7位/全英1位と快調に大ヒットを飛ばし、72年ついに初来日を果たしている。この時ライブ・レコーディングされた2枚組LP「ライブ・イン・ジャパン」は、彼らの真の実力を示す素晴らしい出来映えで、エキサイティングなステージの興奮をそのまま伝えるものであった。このアルバムは、当初は日本だけでリリースされたが、あまりの反響に、後から「Made
In Japan」として編集し直され世界リリースした。また、シングル盤だけで出されていた「ブラック・ナイト」のライブ版も、「Made
In Japan」がCD化された時に、他のアンコール曲とともにボーナス・トラックとして追加されていた。そして、93年にはCD3枚組スペシャル・エディションとして、ついにこの時の来日公演の全貌が明らかになった。
だがこの後、2期パープルはメンバー間のトラブル(特にリッチーとギラン)により急激に失速。73年にはアルバム「紫の肖像」をリリースしたものの、同年の再来日公演を最後にギランとグローバーは脱退してしまう。
無名の新人に賭けたパープルの命運
2人の脱退後、すぐに後任のメンバー捜しを開始し、ベーシストにはヴォーカルもこなす元トラピーズのGlenn Hughesグレン・ヒューズに決定したが、すでにハードロック界の最高峰シンガーと称えられる存在となっていたイアン・ギランの後任を見つけ出すことは容易ではなかった。また、リッチーはグレンのヴォーカルをあまり気に入っておらず、4人だけでバンドを進めようという妥協も許せなかった。まったく違うタイプではあるが、名ヴォーカルとして確固たる地位を築いていた元フリーのポール・ロジャースにも声をかけたが、結局は断られ、募集広告を出すことになる。しかし、オーディションに現れたミュージシャン達の中にも相応しい人物は見つからず、ヴォーカル捜しは難航を極めた。
そんなある時、ふと何の気無しに聞いたデモ・テープから、なんともソウルフルで深みのある独特の声がメンバー達の耳を釘付けにした。その声の持ち主こそ、その後パープルを背負って立つことになる名ヴォーカリスト、David Coverdaleデイヴィッド・カヴァーデイルその人だった。
カヴァーデイルは、それ以前ほとんど目立ったバンド経歴もなく、まったくの新人に近かったが、オーディションにも見事合格し、第3期パープルのリード・ヴォーカルとして迎え入れられた。
そして、パープル・ファンならずとも、すべてのハードロック・ファンが見守る中、74年メンバーチェンジ後初のアルバム「紫の炎」(Burn)が発表された。
2人の新メンバーによって、ブルース(デイヴィッド)やファンキー(グレン)といった、それまでのパープル・サウンドにない要素が加わったことで、音の幅と深みが増し、このアルバムは彼らの最高傑作と言っていいほどの仕上がりをみせていた。
もちろん、アルバムは大ヒットし、全米9位、全英3位、ドイツを始めとするヨーロッパ各地でも軒並み1位と、2期と同等の成功を収めた。
中でも、押しも押されぬビッグスター・バンドのリード・ヴォーカルという重責を見事に果たし、すでにこのアルバムから全曲を共作するなど、新人らしからぬ存在感を見せつけたデイヴィッドの働きは、その後のパープルの方向性をも大きく左右することとなる。
同74年、早くも次のアルバム「嵐の使者」(stormbringer)をリリースするが、このアルバムでは新メンバー2人のカラーが大きく反映され、よりファンキーでブルージーなサウンドに変化していた。それまで事実上のサウンド・リーダーであったリッチーは、しだいに自分の思うままにならなくなったパープルには興味がなくなり、かねてから目を付けていたエルフのヴォーカリストのロニー・ジェイムスディオと共に、ニューバンド結成のためパープル脱退を決意する。結局75年のヨーロッパ・ツアーを最後にリッチーは脱退し、同年中に早くもレインボーとしてのアルバム・デビューを飾っている。
アメリカの血を導入した4期
オリジナル・メンバーであり、パープルの成功に大きく貢献してきたリッチーの脱退は、イアン・ギランが脱退した時以上のダメージをバンドに与え、ジョン・ロードとイアン・ペイスは、もはや解散もやむなしと考えていた。だが、若い2人はバンド続行を主張し、レコード会社との契約問題などもあったことから、リーダーのジョンはバンドの継続を決断。新たにデイヴィッドが捜してきたアメリカ人ギタリスト、Tommy Bolinトミー・ボーリンを迎えることとした。
トミーはジョー・ウオルシュ(現イーグルス/g)の後釜としてジェイムス・ギャングで活躍し、ジャズやファンク系アーチストとも共演するなど、幅広い音楽性を持った注目の新鋭ギタリストであった。
75年には、このメンバーでのデビュー作「カム・テイスト・ザ・バンド」を発表。3期のデビュー同様、かなりの話題作となった。
しかし、おおかたの予想通り、パープルの顔ともいうべきリッチーの穴を埋めることは難しく、9曲中7曲を共作するなど、コンポーザーとしての才能は高く評価されたが、ギタリストとしては、パープルの築き上げてきたブリティッシュ・ハードのスタイルとはまったくかみ合わず、ファンをがっかりさせた。また、ライヴでも観客に受ける曲は2期や3期のものばかりで、各地でリッチー・コールまで出る始末だった。トミーはこのプレッシャーをはねのけることができず、しだいにドラッグに溺れ、同年行われたワールド・ツアーではフラフラでろくに演奏できる状態ではなかった。この時の日本公演のライヴが「ラスト・コンサート・イン・ジャパン」(後に完全版This
Time Around - Live In Tokyoも発表) として後にリリースされたが、聞くに堪えないひどい演奏だ・・・。
コンポーザーとしては、ファンキーでポップな良い曲を作っていたし、ソロ・アルバムでもジャズやフュージョン寄りのアプローチを見せるなど評価が高かっただけに、もう1枚スタジオ・アルバムを作っていれば、きっとより良い方向へ行っていたと想像できただけに非常に残念だ。
翌76年、ジョン・ロードはついにパープル存続を断念。記者会見で正式にディープ・パープルの解散を発表した。
解散直後、トミー・ボーリンはジャケットに「富墓林」と書かれたソロ・アルバム(Private Eyes)をリリースしたあと、ドラッグの多量摂取により他界している。
「男のロマンを求めて」
その後、ジョン・ロードとイアン・ペイスは、ペイス・アシュトン・ロードを結成し活動するがうまくいかず、結局はデイヴィッド・カヴァーデイル率いるホワイトスネイクへ入れさせてもらうという逆の立場になっていた。しかし、ホワイトスネイクが全米2位の大ヒットを記録した時には、もう2人の姿はない。イアンはブラック・サバスにも加入し話題になった。グレン・ヒューズは元のトラピーズを再結成させた後ソロになり、一部のHR/HMファンの間では未だに根強い人気を保っている。
数年後、レインボーやホワイトスネイクの活躍で、パープルの存在もすでに忘れ去られようとしていた1980年、とんでもない事件がアメリカで起きていた。
なんと1期のヴォーカリストだったロッド・エヴァンスが、突如寄せ集めのメンバーにディープ・パープルの名前を付けてコンサートを行い始めたのだ。それだけなら既にパープルも解散後の事、一応オリジナル・メンバーであった彼にもパープルを名乗る資格はあると思うのだが、演奏していた曲が2期の代表曲であったからいただけない・・・。これが発覚した後、他のメンバーが激怒。裁判沙汰にまで発展して、結局ロッドは1期パープル時代の印税の権利まで失うことになってしまう。ロッドは医療関係の資格を持ってたため、その後はおとなしくアメリカで病院務めをしているそうだ。名ヴォーカリストであっただけに、もうあの声が聞けないのは残念なことだ。
しかし、この事件は元2期パープルのメンバー達を再び引き合わせ、交流を深めるきっかけになった。パープルの中心人物であったリッチーも「あの2期のメンバーとならまたやってもいい・・・」と徐々に心が傾いていった。
イアン・ギランは、パープル脱退後、エピソード・シックス時代の仲間ジョン・グスタフソン(元クオターマス〜ハード・スタッフ/b,vo)らとイアン・ギラン・バンドを結成し、なかなか良いアルバムを出していたが、セールス的には恵まれず、78年バンド名をギランと改めメンバーも次々と代えた。その後ミック・アンダーウッドが参加してから多少成功を収めるが、再び不振に陥り、83年にはなんとブラック・サバスへ加入し、ファンを失望させた。
ロジャー・グローバーは脱退後、プロデューサーとしての才能を開花させ、ナザレス、ロリー・ギャラガー、ストラップス、ジューダス・プリースト、マイケル・シェンカー・グループなどを次々と成功に導いた。また、プレイヤーとしてもホワイトスネイクやレインボーで活躍。イアン・ギランとは対称的に多忙な日々を送っていた。
そしてついに84年、2期パープルのメンバー達は、ディープ・パープルを再結成させるため、それぞれのバンドを脱退または解散してまで集結した。記者会見で発表された再結成理由は、「男のロマンを求めて」という内容のものだった。
同年さっそく再結成第1弾アルバム「パーフェクト・ストレンジャーズ」をリリースしたが、イアン・ギランの声の衰えに少々不安を感じながらも、まずまずの仕上がりで、ここからのシングル「ノッキング・アット・ユア・バック・ドアー」もレインボーの初期を思わせるようなクラシカルな雰囲気が漂う名曲で、スマッシュ・ヒットを記録した。また翌年来日も果たし、ファンの間で熱狂的に受け入れられた。
ところが、再び昔のようにリッチーとギランの仲が悪化し、以降ギランはバンドを出たり入ったりする。そして94年リッチーの脱退〜ジョー・サトリアーニ(g)の代行〜元カンサスのSteve Morseスティーヴ・モーズ(g)の加入(96年)によって一応メンバーは落ち着いたが、ギランの声の衰えが著しく、聞いていて痛々しいほどだ。あのシャウトする歌唱法を変えない限り、この先もヴォーカリストとしてやっていくのは、かなり苦しいのではないだろうか。余談だが、リッチーの代役にはマイケル・シェンカー(元スコーピオンズ〜UFO〜MSG)も候補にあがっていたが、断られたらしい。
2001年には来日ツアーのフォロー・メンバーにロニー・ジェイムスディオ(元レインボー〜ブラック・サバス〜DIO)を加えていたが、往年のパープル・サウンドを愛してやまない自分などは、そのままロニーが正式メンバーになってはくれないものかと願ってしまう・・・。(HINE) 2002.4
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