ブリティッシュ・ハードの王者
Robert Plant ロバート・プラント/ヴォーカル
Jimmy Page ジミー・ペイジ/ギター
John Henry Bonham ジョン・ボーナム/ドラムス
John Paul Jones ジョン・ポール・ジョーンズ/ベースギター、キーボード
ヤードバーズ解散後、ニューヤードバーズとして自らのバンドを率いて活動していたジミー・ペイジは、1968年にバンド名を「LED
ZEPPELIN」に改名し、アトランティック・レコードと契約し、本格的に活動を始めた。
彼らは69年に「レッド・ツェッペリン」でアルバム・デビューすると、たちまち、そのスケールの大きなサウンドが話題となり、大ヒットを記録した。また、次の「レッド・ツェッペリンII」では、シングル「胸いっぱいの愛を」の大ヒットもあり、早くも全英チャート7週間1位の偉業を達成している。同時期、チャートインしていたビートルズの「アビイロード」を抜いたアルバムとして、キング・クリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」が有名だが、この「レッド・ツェッペリンII」もまた「アビイロード」を抜いたアルバムであることは、あまり知られていない・・・。また、この1969年という年は、後にイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」で「〜ナインティ・シックスティナイン〜♪」と唄われたり、映画「1969」などもある通り、ロック界にとってもたいへんな激動の年だったのだ。
その後のZEP.(ツェッペリンの略)はもう、飛ぶ鳥の勢いで、出すアルバム毎、全英か全英で1位という凄まじいセールスを記録し、名実ともに70年代を代表するロック界のキングとして君臨した。ちなみに、アルバムで1位になっていないのは、寄せ集めのコーダーを除いて、デビューアルバムとIVだけで、そのIVも、その後彼らのアルバム中トップのセールスを記録中なのだ。
日本においてのZEP.は、ハードロック御三家と呼ばれ、人気は絶大でありつつも音楽的に正当評価されたのはかなり遅かった(ブラック・サバスは人気も今ひとつだったが・・・)。70年代初頭、日本ではディープ・パープルの方が人気があったぐらいで、ギタリスト志望なら、誰もがリッチー・ブラックモアのマネをしてポーズをとったりしていた。これは、音楽的にパープルのもつクラシック音楽を取り入れたメロディアスなサウンドとスピード感が、当時の日本人に合っていたということが考えられる。ZEP.はどちらかというと、もっと泥臭い、ブルース、カントリー、ファンク、レゲエ、スワンプ・ミュージックなどをサウンド・ベースとしており、まだ、それらの音楽の洗礼を受けていなかった、その頃の日本人には早すぎたのではないだろうか。(日本でブラック系が大流行するのは70年代半ばから)
ツェッペリン・サウンド分析
ZEP.が日本でも正当評価され、他を寄せ付けないほどの絶大な支持を受けるようになったのは、パープルからリッチーが脱退した75年あたりからだ。
アルバムで言うと、フィジカル・グラフィティがリリースされた頃で、ちょうど巷の音楽シーンでもソウル・ディスコ・ブームが勃発。それとともに、あらゆるブラック系ミュージックがポップ・チャート上位を賑わすようになり、日本国内でもそれらを聞く機会が格段に増えていった。
また、1つのカリスマ的ヒーローであったディープパープルが実質的には崩壊したことで、今まであまりZEP.を聞いていなかった人までが、ZEP.の方を注目し始めた頃でもある。
こういった状況の中で彼らが放った「フィジカル・グラフィティ」は、ZEP.の最高傑作と思われるくらい素晴らしい出来で、一気に全てのハードロック・ファンの心をつかんだと言える。
その後も「プレゼンス」、「永遠の詩」と名盤を立て続けにリリースした彼らは、日本においてもハードロック界のキングとしての地位を揺るぎないものにした。
自分も、その頃からZEP.を本格的に聞き出した1人だが、さかのぼって彼らの昔のアルバムを聴いてみても、少しも古さは感じない。それどころか、なぜ今までこんな素晴らしいサウンドに気が付かなかったのかと、改めてツェッペリン・サウンドの凄さを思い知らされたわけだ。
リズム重視のサウンドが全盛である現代、彼らの評価はさらに高まる。
80年代後期に隆盛を極めるヘヴィ・メタル・バンド達が、ほとんどこのZEP.サウンドを基礎としている事は言うまでもないが、ZEP.が確立したサウンド形態のうち、1つだけ彼らにもマネできないものがある。それはジョン・ボーナムの重厚かつスリリングなドラミングだ。
ZEP.のサウンド・スタイルは、ハイトーンのヴォーカル、重厚感とスピード感が一体化したギターリフ、ブルース・ロックを基調としたギターソロ(これはイングヴェイの出現と共に崩れてゆく)など、ヘヴィメタの様式美として多く取り入れられていったものだが、ドラムだけは、いくら音を重くしてパワフルに叩こうとも、ボンゾ(ジョン・ボーナム)のようにはならないのだ。
それは、もちろんボンゾが並はずれた天才ドラマーだったからに他ならないのだが、ダイナミック&パワフル&ヘヴィ・・・ちょっと言葉では表現しきれないほど、音質そのものだけではなく、間のとりかたや不規則なバスドラのリズムパターン、的確なオカズの入れ方など、それら全てによって、重厚感を出しているためだ。さらにボンゾはこの重厚感をアップさせるために、日夜ジョーンズと共に研究をしていたという。
ジミー・ペイジのギターは、3大ロック・ギタリストと呼ばれるわりに、何かと他の2人と比較され、そのほとんどは酷評を受けているが、それは他の2人が80%の力で弾き、残り20%で音を綺麗に出す方へ力を入れるギター・スタイルなのに対し、ジミーは常に100%全力投球で息着くヒマもなく、リフを刻んだり、アルペジオを弾いたり、音質を変えたりとバタバタしていて、多少のミスや他の弦の音が少し入ろうとおかまいなしなため、音が多少汚いこともにも起因している。しかし、自分で弾いてみるとわかるのだが、けっして簡単なフレーズばかり弾いているわけでもなく、何より、こういう弾き方はかなり忙しい作業で、1曲でへとへとになる。これをライヴでは2時間以上延々とやるわけだからジミーの耐久力は驚異的だ。しかも、あの例の腕をのばしたままのスタイルで弾くのだから・・・。
また、もともと若い頃はセッションマンとしても活躍してきただけに、多用な音楽に対応でき、おそらくやる気になれば、いくらでも綺麗な音でソロを延々とプレイすることだってできるのだろう。バンドの中ではバンドの一員として、“目立ち過ぎず、おとなし過ぎず”全体のバランスを考えながらプレイするというのが彼の哲学なのではないだろうか。
解散後のZEP.
1980年、ジョン・ボーナムが急性アルコール中毒により、惜しくもこの世を去り、ツェッペリンは最期を迎える。
USツアーのためジミーの家へメンバー達が集結した時、ボンゾはウォッカを一気に飲みほし急性アルコール中毒となり、吐瀉物を喉に詰まらせて死亡したとのことだ。
この後ロバートとジミーはソロになり、ジョン・ポール・ジョーンズはプロデューサー業やセッション・ミュージシャンとして再スタートを切った。
82年にはZEP.時代の未発表曲と未発表テイクの寄せ集めアルバム「コーダー」を発表。その後しばらくの間ロバート・プラントこそ、ソロでそこそこのスマッシュ・ヒットを放ったりしていたが、ジミーは84年にポール・ロジャース(元フリー〜バッド・カンパニー/vo)とのスーパー・グループ「ザ・ファーム」を結成するも成功にはいたらず、その後ほとんど目立った活躍もなく、ロック界の第一線からは退いた感じになっていた。
しかし、85年アフリカ飢餓難民救済のためのチャリティー・イベント「ライブ・エイド」において、ドラムにフィル・コリンズ(元ジェネシス/ds,vo)とトニー・トンプソン(パワーステーション/ds)の2人を従え、レッド・ツェッペリンとして、一時的に再結成してファンを熱狂させた。また、88年にもアトランティック・レコード創立40周年記念イベントで、ボンゾの息子ジェイソン・ボーナムをドラマーに仕立て再演がなされている。
そして90年代に入り、ついにジミー・ペイジが動き出した。93年元D・パープルのヴォーカリスト、デヴィッド・カヴァーデイルとのプロジェクト“カヴァーデイル・ペイジ”で、同名タイトルのアルバムをリリースし、パープルとZEP.の夢の共演を実現させると、94年には、ロバート・プラントとのプロジェクト“ペイジ&プラント”で、アルバム「ノー・クウォーター」をリリース。そのままプラントと共にツアーを敢行し、96年には来日も果たしている。
2003年、突然ZEP.時代のライヴをたっぷり収めたDVDと、それとは別録音の3枚組ライヴCDをリリースした。こんなに大物にも関わらず、公式にはこれまで「永遠の詩」しかライヴ盤がなかっただけに、発売前からかなり注目されていたが、その期待を裏切らないすばらしい内容であった。(HINE)2004.6更新
協力:Mt.Gucciさん
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