ニューウェイヴとハードロックの融合
偉大なカメラマン、ミック・ロックによって撮影されたストラップスのデビュー・アルバムは、強烈なインパクトを放ち、音楽より先に彼らの存在をイギリス国内外へ知らしめることに大きく貢献した。真っ赤な背景に超ハイヒールの靴を履いた足が2本。このシンプルな構成の中に、とてもサディスティックでエロティックなイメージが見事に納まっている。
日本でもこのジャケットに魅せられて、つい買ってしまった人が多いのではなかろうか?
そして、これを買って帰った人は、家に戻りワクワクする気持ちを抑えてそっとレコードに針を降ろすと、パンクとも、ハードロックとも、ニュー・ウェイヴともつかぬ、今まで聴いたことのないような、何とも形容しがたい音楽を体験する。
この癖のある音楽は、好きな人には熱狂的に受け入れられ、嫌いな人には聴くに値しないものかもしれない。このデビュー・アルバムについて、後にリーダであるロス・スタッグ(vo)自身も「ストラップスというグループの印象を強く打ち出すための効果として、僕らが持つカラーを多少オーヴァーなスタイルで露出させた」と語っているが、まさにこのサウンドこそが良くも悪くもストラップスというバンドの特徴を一番よく表していた。
前評判とは裏腹に彼らのアルバムはセールス的にあまりパッとせず、イギリス国内よりもむしろ日本で好意的に受け入れられていった。
期待の新人と騒がれ、ルックスも良かった彼らが、なぜ売れなかったかという理由には、少なからず歌詞の内容が影響していると思われる。 その歌詞とは、評論家の批判やSMの賛美などアブノーマルなものが多く、とても手放しで誉められる内容ではなかった。そういった歌詞の内容が英語圏の国では、あまりにも強烈すぎて敬遠されたということもあるのだろう。逆にダイレクトに歌詞の内容が伝わることが少ない日本においては、サウンドやルックスのみで判断されるため、その影響はまったく関係なかったのだ。
彼らが公式デビューしたのは1976年(正式には74年にデビューしていた)、ブリティッシュ・ロックは往年の勢い失い、ブリティッシュ・ハード最後の砦クイーンさえも行く先を見失ってしまった頃であった。イギリス国内ではちょうどセックス・ピストルズがデビューし、それまでのロックの形態を根本から否定する、パンク・ロック・ブームが勃発しようとしていた頃でもあった。
ストラップスのサウンドはもっと先進性のあるもので、それまでのブリティッシュ・ハードの伝統を拒否することなく、一歩進めた形でニュー・ウェイヴ的なアプローチに取り込んでいた。もちろん関係者からはすぐに目を付けられ、期待の新人として注目を集めていた。
彼らのデビュー・アルバム「貴婦人たちの午后」のジャケットには、先にもふれたクイーンやコックニー・レベルのジャケットでも知られる大物カメラマン、ミック・ロックによって撮影されていたことからも、彼らが当初いかに期待されていたかが伺い知れる。しかも、プロデューサーには、ルイ・オースティンと共同ながら、あのロジャー・グローヴァー(ディープ・パープル/b)の名前もある。
オリジナル・メンバーは
Ross Stagg ロス・スタッグ/リード・ヴォーカル、リード・ギター
Joe Read ジョー・リード/ベース・ギター
Noel Scottノエル・スコット/キーボード
Mick Underwood ミック・アンダーウッド/ドラムス
彼らは元クォターマスのミック・アンダーウッド以外ほとんど無名の新人で、どうやって知り合ったかなどは不明だが、ディープ・パープル加入以前のイアン・ギラン(vo)とロジャー・グローヴァーが在籍していたEpisode
Sixに、元アウトローズ(リッチー・ブラックモアが在籍したことでも知られる)のアンダーウッドが途中参加していたことから、大手のEMIと契約したり、グローヴァーの支援を受けられたようだ。
だが、彼らはその期待に応えることができないまま、翌77年セカンド・アルバム「シークレット・ダメージ」を発表した。
唯一アメリカでもリリースされたこのアルバムでは、少しカドが取れて一般的に聞きやすくなった分、先進性は一歩後退したと言わざるを得ない。業界では「ポスト・ディープ・パープル」などと騒がれたが、個人的には良い意味でまったくパープルとは異質なサウンドであると確信していた。だいたいこの時代にポスト○○とか○○の後継者とか言われたバンドが、その○○を越えた例はない。オリジナリティのあるものだけが生き残れるこの時代に、そう言われた時点で明日はないのだ(80年代のヘヴィ・メタル時代は別だが)。例に漏れず以降ストラップスの人気も下降の一途をたどることになってしまった。
しかし、日本では逆に聞きやすくなったサウンドにますます人気が盛り上がり、国内ではまだまだ大きな人気を誇っていたパープルに似ていると言われたことも良い方に作用した。
この年プロモーションのため単独で来日したロス・スタッグ自身、この日本での異常な人気にとても驚いていたようだ。
次に彼らは、女性バック・ヴォーカルをフューチャーし、アコースティック・サウンドやレゲエまで取り入れて、少しゴスペルやR&Bの香りも漂う意欲作「愛のプリズナー」を78年発表した。このアルバムはサウンドの幅を広げようとする意図は伝わってくるのだが、それが逆に「迷い」が生じているような印象も与え、またも日本以外では不発に終わっている。
この後キーボードのノエル・スコットが脱退し、新たにギタリストのRay McRinerレイ・マクリナーが迎えられ、ツイン・リード・ギター体制になった。
このメンバーチェンジは、少なからずサウンドにも変化をもたらし、彼らは完全なハードロック・バンドと化した。それまで、ほとんどスタッグ1人にまかせていた曲作りにも全員が参加し、プロデュースもバンド自身で行って、じっくりと時間をかけレコーディングに没頭した。そして満を持して79年にアルバム「炎の衝撃」をリリースした。
だが、この時期のイギリスでは、ニュー・ウェイヴ旋風が吹き荒れ、時代遅れとも思えるハードロックの王道サウンドは、見向きもされなかった。
結局、ストラップスは世界に認められることなく、これを最後に消え去っていったのだ。
結果的に4枚のアルバムを残しただけで解散してしまった彼らではあったが、日本のファンたちは、彼らこそ、ブリティッシュ・ハードの正当な後継者であった事を知っている。もし、デビュー当時のままのサウンドを貫き通していたなら、きっと大成していただろうことも・・・。
それ故、他の国では発売されなかったラスト・アルバムまで日本で発売させたし、リアルタイム体験者達は、今でも彼らの強烈な印象を脳裏に刻み込まれたままなのだ。
ストラップス解散後、メンバーはちりぢりになってしまったようだが、アンダーウッドはその後も、GILLANやクォターマスIIで元気な姿を見せていた。
現在ロス・スタッグは、オーストラリアのContenporary Music Centreで音楽教師として若い才能を育てている。
追記:2004年、UK盤でファースト・アルバムのみCD化され発売となった。これを機会にストラップスが再評価され、4枚すべてがCD化されることを願う。そしてその後の日本盤紙ジャケにも期待したい。(HINE) 2004.10更新
Special Thanks to 大国さん(音源&資料 全面協力)
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