偉大なる中堅ハードロック・バンド
1969年、UFOはロック界にとって最も重要な年に、イギリスのLondon Clubでデビューした。
この頃ロック界では、ツェッペリン、パープル、EL&P、イエスなど、イギリスの大物たちが続々と台頭しはじめ、ブリティッシュ・ロックは黄金期を迎えつつあった。その一方では、自分たちもいつかは大物になろうと、チャンスをうかがいながらひしめき合っていた中堅ロッカー達も、そんなブームを下支えする重要な役割を果たしていた。UFOもそういった中堅のハードロック・バンドの1つとして、産声をあげたのであった。
オリジナル・メンバーは、
Phill Mogg フィル・モッグ/リード・ヴォーカル Pete Way ピート・ウェイ/ベース・ギター
Andy Parker アンディ・パーカー/ドラムス
Mick Bolton ミック・ボルトン/ギター
UFO結成の経緯は、地元のクラブではフォーカス・ポーカスとして既に知られていたフィル・モッグ、ピート・ウェイ、ミック・ボルトンらのバンドに、アンディ・パーカーが加わることでUFOと改名したらしい。平均年齢19歳でレコード・デビューを果たした彼らは、カヴァー曲のシングル「カモン・エヴリバディ」がスマッシュ・ヒットし、さっそく注目を集めるようになる。しかし、そのポップなシングル曲とは裏腹に、初期の彼らのサウンドは重苦しく暗いサイケデリックなもので、とても一般受けするようなものではなかった。その後ライブ盤を含め3枚のアルバムをリリースするも、本国イギリスでは、まったく鳴かず飛ばずの状態であったのもうなずける。
だが、何故かドイツと日本でのみ、アルバムは好調な売れ行きをみせた。スペース・メタルと呼ばれた彼らの初期サウンドは、聞きようによっては、ハードロックにプログレのエッセンスを取り入れたいかにもブリティッシュ然としたもので、重くて暗いサウンドもマイナー調好きの日本人やドイツ人には受けたのだろうか・・・。
これに気をよくしたメンバー達は日本ツアーを決行。この来日公演は当初スリー・ドッグ・ナイトとのジョイント・コンサートの予定であったらしいが、スリー・ドッグ・ナイト側が事前キャンセルしたため、UFOの単独公演となった。しかし、この来日中に思わぬ失態を演じてしまったのだ・・・。
ちょうど時を同じく来日していたレッド・ツェッペリンにメンバー達がサインをもらいに行き、それが報道人にバレてニュースになってしまう。彼らにしてみれば、ツェッペリンといえば、本国では押しも押されぬ大スター、めったに会えるチャンスもなく、憧れの大スターを目の前に1ファンと化していたのだろうが、UFOファンにしてみればどちらも大スター。この一件で自ら格下であることを認め、ファンたちを失望させた。その後ヒット曲がなかったこともあるが、これを境に人気は下降、日本のファンをも失ってしまった。
72年には、ギタリストのミック・ボルトンがツアー中に失踪し、バンドはさらに危機を迎えるが、Larry Wallisラリー・ウォーリス(後ピンク・フェリアーズ)やBernie Marsdenバーニー・マースデン(後ホワイトスネイク)、たまたまドイツ公演で前座をつとめていたスコーピオンズの若き天才ギタリスト(当時16歳)Michael Schenkerマイケル・シェンカーらにボルトンの代役を依頼してしのいでいた。
その後もUFOはたびたびギタリストに代役を立てながらツアーを行っていたが、そのうちに一番気に入ったマイケルを正式にバンドに誘い入れることにした。当時ドイツのロック・バンドが世界へ出ていくことなど考えられなかったので(実際にはスコーピオンズもこの直後、世界へ羽ばたくのだが)、ドイツでも人気があるUFOへの加入は、マイケルとしても世界へ飛躍する絶好のチャンスだった。マイケルは後任にUlrich Rothウルリッヒ・ロート(後のウリ・ジョン・ロート)を推挙してUFO入りを決め、他のスコーピオンズのメンバー達も快くマイケルを送り出した。
こうしてUFOは74年、クリサレス・レーベルへ移籍し心機一転、いよいよマイケル参加後初の記念すべきアルバム「現象」をリリース。
セールス的には今ひとつだったこのアルバムも、既にマイケルの天才的なギター・ワークと、コンポーザーとしての素晴らしい資質が全編にあふれ、今までのUFOサウンドとは比較にならないほどスマートに生まれ変わっていた。永遠のロック賛歌「ドクター・ドクター」や「ロック・ボトム」が生まれたのもこのアルバムからだ。また、このアルバムのジャケットはピンク・フロイドでお馴染みのデザインチーム「ヒプノシス」が手掛けたもの。ヒプノシスは、その後マイケル時代のアルバムすべてをデザインし、彼ら自身の代表作としても有名なものばかりだ。
舞い上がる未確認飛行物体
75年にはアルバム「フォース・イット」をリリース。このアルバムでは、ギターの多重録音やキーボードの効果的な使用など、ほぼその後のUFOサウンドの基礎を創り上げたといってよいだろう。チャート上でも健闘し、アメリカでは71位のスマッシュ・ヒットを記録した。これに気をよくしたリーダーのフィルは、さらにバンドを強力にするため、元スキッド・ロウ(ゲーリー・ムーアが在籍したことで知られるアイルランドのバンド)のギタリストPaul Chapmanポール・チャップマンをUFOに加入させようとした。スタジオテイクでのオーヴァーダビングの多さをライブで忠実に再現するためにも、この提案は妥当なものであったが、マイケルはこれを強く拒んだ。結局、ライブでのみチャップマンを起用するということで落ち着いたが、この時からチャップマンの出たり入ったりの受難の人生が始まった。尚、この頃のツインリード・ギターでの音源は、後に発表されるBBCライヴでも聴くことができる。
76年になると、元ヘヴィ・メタル・キッズのDanny Peyronelダニー・ペイロネル(kb,vo)を正式メンバーに迎え、アルバム「ノー・ヘヴィー・ペッティング」をリリース。ダニーはコンポーザーとしても才能を発揮し、サウンドに幅を持たせ、UFOを世界的な成功へと導く足がかりを作った。スマッシュヒットしたシングル「電撃のロックンローラー」や「ハイウェイ・レディ」は共にダニーの曲(電撃のロックンローラーは共作)であり、親しみやすいポップなメロディーは、チャート・アクション以上にUFOを多くのリスナーの耳に印象づけた。日本では、おそらくこのアルバムからUFOをリアルタイムで聞き始めたファンが多かったはずだ。ラジオでもヘヴィーローテーションで流れていたし、レコード店でもUFOのポスターをあちらこちらで見かけたものだ。
しかし、後に「ダニーの作る明るくポップな曲調が嫌いだった」と語るマイケルは、ライブでのギターのオーヴァーダビングの再現も考え、ギターとキーボードを両方操れるプレイヤーの加入を強固に主調。そこで、ダニーとPaul Raymondポール・レイモンド(元サヴォイ・ブラウン)を入れ替え、77年にアルバム「新たなる殺意」を発表する。
このアルバムでは、過去にレッド・ツェッペリンやバッド・カンパニーを手掛けたことでも有名なロン・ネヴィソンをプロデューサーに迎え、ストリングスを大胆に取り入れたスケール感のあるサウンドに転身し、ついに念願の全米大ヒット曲「ライツ・アウト」(20位)も放った。アルバム自体も23位まで上昇し、UFOの全アルバム中最高位を記録している。
しかし、ここでいまだに直らないマイケルの失踪癖問題が初めて浮上する・・・。急遽マイケルに代わってライブにかり出されたのは、以前ツアーを共にしたチャップマン(当時ローン・スターに在籍)だった。
全米大ヒットでバンドは軌道に乗り、さらに世界征服をもくろむ彼らは、ここで間髪を入れずに次のアルバムをリリースする必要があった。だが、マイケルはいない・・・。そこで当初はライブ盤をリリースして切り抜けるつもりであったが、マイケルが再び舞い戻ってきたため、すぐさまニュー・アルバムの製作にとりかかり、「宇宙征服」を短期間のうちに完成させる。それが功を奏し、78年ここからのシングル「オンリー・ユー・キャン・ロック・ミー」が、またまた全米大ヒットを記録。アッという間にUFOはその名を世界にとどろかせるまでになった。翌年、先に出す筈であったライブ盤もリリースし、彼らはデビュー以来9年目にしてやっとブリティッシュ・ハードを代表するバンドにまでのし上がったのである。
再び苦難の道へ
だが、この直後またもやマイケルは失踪。その後2年間戻ってこないマイケルに(この間、一時スコーピオンズの一員として来日するはずだったが、直前にスコーピオンズからも失踪)、ついにフィルもあきらめ、80年には、かのポール・チャップマン(左写真の右側)を正式にメンバーとし、プロデューサーにジョージ・マーティン(ビートルズを手掛けたことで有名)を迎えたアルバム「ヘヴィメタル・エクスペリエンス」をリリースする。時を同じくしてマイケルも自分のバンドMSGを結成してデビューした。この年、ポール・レイモンドはMSGに参加するためUFOを脱退し、代わりにレイモンド同様キーボードとギターを操れるNeil Carterニール・カーター(左写真左)がUFOへ加入している。
このメンバーでは、2枚のアルバム「ワイルド/ウィリング/イノセント」(81年)と「メカニックス」(82年)を発表したが、共に大きな成功にはいたらずどんどん失速。NWOBHMも追い風にはならず、いつしかUFOは忘れ去られた存在になりさがっていた さらに81年には、オリジナル・メンバーとして長年フィルの良きパートナーであったピート・ウェイまでもが脱退してしまう。彼はオジー・オズボーンのツアーに参加後、82年にFASTWAY、83年にWAYSTEDを結成するが、どちらも成功には至らなかった。
UFOの方は、その後ベーシスト不在のままニューアルバムをレコーディングし、「メイキング・コンタクト」として完成させた。憶測だが、長年苦労を共にしてきた仲間ピートの脱退は、いつも強気なリーダー、フィルにとってもかなり精神的なダメージになったようで、それが新しいベーシストの座を埋めることを拒ませたのではなかろうか。ライヴでは元タラスのベーシストBilly Sheehanビリー・シーン(後MR.BIG)を起用するが、その後フィルは極度のアルコール中毒に陥いり、バンド活動は停止せざるを得ない状態となった。そしてついに83年、フィルはUFOの解散を決意する。フェアウェル(さよなら)ツアーとして、ベースに後正式メンバーとなるPaul Grayポール・グレーを起用し、最後に祖国イギリスをツアーして回った。尚、ドラムのアンディはこれを機にミュージシャンを引退した。
しかし、1985年突然話題作「ミスディミーナー」をひっさげてフィルは帰ってきた。それもUFOとしてだ。メンバーは、
Phil MOGG フィル・モッグ/リード・ヴォーカル
Jim Simpson ジム・シンプソン/ドラムス
Atomic Tommy M アトミック・トミーM/リード・ギター(右写真)
Paul Raymond ポール・レイモンド/ギター、キーボード
Paul Gray ポール・グレイ/ベース・ギター
という、新生UFOとも呼べる布陣での活動再開で、特に日系2世ギタリストのアトミック・トミーMや、ジャケットの写真が話題となり注目を集めた。後日談だが、フィルはギタリストの選抜にあたっては、当時もっとも注目されていた2人の内、どちらにしようか迷ったそうだ。1人は若き日のイングヴェイ・マルムスティーンで、もう1人がトミーだった。しかし、イングヴェイの方は、ちょうどアルカトラスへの加入が内定したところだったので諦めたらしい。もしイングヴェイがこのときUFOに加入していたら、すごいことになっていたかもしれない。
このメンバーでの唯一の正式アルバム「ミスディミーナー」(85年)は、話題のわりにまったくセールスがふるわず、成功を手中にすることもないまま、またもやUFOは解散してしまうのであった。尚、解散後88年にこのメンバーでの未発表テイクを集めたアルバム「殺気」もリリースされた。
その後、すっかり活動をやめてしまっていたフィルとピートに、またやる気を起こさせる転機が訪れる。87年フィル・モッグの甥であるナイジェル・モッグ(b)が、クワイア・ボーイズというバンドでメジャー・デビューするにあたり、フィルとピートがアドバイスを与え、いろいろと面倒をみるようになったのだ。そうしているうちに自分たちもしだいにまたバンドをやってみたいという欲求が生まれ、91年、またまたUFOは再デビューを果たすことになる。
すでにUFOという名前自体も忘れ去られ、この再結成はたいした話題にもならなかったが、純粋に「ミュージシャンとして活動していたい」という2人の気持ちはファン達にも通じ、心から歓迎された。
この新生UFOでは、92年にアルバム「暴発寸前!」をリリース。このアルバム、残念ながら名曲と呼べるモノはないが、彼らの真剣さは、2人が共に全曲の作曲に関わっていることからも感じ取れる。
尚、再結成メンバーは次の通り、
Phil Mogg フィル・モッグ/リード・ヴォーカル
Pete Way ピート・ウェイ/ベース・ギター
Laurence Archer ローレンス・ア−チャー/ギター、ヴォーカル(元ワイルド・ホーシズ〜グランド・スラム/写真左端)
Clive Edwards クライヴ・エドワーズ/ドラムス(元ソーリー〜ワイルド・ホーシズ/写真右端)
このメンバーでは来日公演も行われ、その評判も上々であった。また、その時の模様はライヴ・アルバム「ライツ・アウト・イン・トウキョウ」として翌92年にリリースされている。
新たなる受難
ところが、この頃巷では再結成ブームが巻き起こり、降って湧いたように往年のビッグネーム達が続々と再結成をしはじめた。その波に乗ってかどうかは分からないが、94年UFOもマイケル、アンディ、ポール・レイモンドを含む、実に16年ぶりの全盛期のメンバーでツアーを開始し、翌年ニュー・アルバム「ウォーク・オン・ウォーター」までリリースした。
だが、他の多くの再結成バンドたちと同様、「やっぱりね・・・」と言う感じで、すぐにバンドは崩壊。原因はよくありがちな金銭トラブルだったようだ。
この後、フィルとピートは後任のギタリストに元ヨーロッパのジョン・ノーラムを誘い、UFOとしての活動を続行させようとしたが、自分とフィルが居なければUFOというバンド名は使えないとマイケルが主張したため、やむなく断念した。その後ノーラムはソロ・アルバムの制作にかかってしまったため、このノーラムとのジョイント構想自体も白紙となり、フィルとピートはモグ/ウェイというプロジェクト・バンドで新たな活動を再開した。
ところが98年になると、また元の黄金期UFOのメンバーで活動を再開しツアーを敢行、来日も果たしている。しかし、この来日公演中、またしてもマイケルが事件をひき起こす・・・。マイケルは何を思ったのか演奏途中、急にギターを床に叩き付け、その場から立ち去りそのまま失踪してしまったのだ。
しかし、2000年にはマイケルは性懲りもなくまたUFOの一員となり、ニューアルバムまでリリースしている。さすがにレイモンドとアンディは愛想を尽かしここには参加せず、ドラムには元ジャーニーで、モグ/ウェイにも参加していたAynsley Dunberエインズレー・ダンバー(右上)が正式メンバーとして加わっていた。アルバム・タイトルは「COVENANT/聖約」、今度こそ神に誓って失踪しないという意味なのだろうか? とりあえず2年後の2002年に発表された「シャークス」では、そのままのメンバーがクレジットされてはいた。だが、実質この時既にバンドは機能していなかったらしい。
2003年になると、今度は正式にマイケル・シェンカーの脱退が宣言され、UFOのバンド名の問題も解決したようだ。マイケルの後任には、再度ジョン・ノーラムの名前があがり、本人も乗り気であったが、ちょうど古巣ヨーロッパの再結成話が持ち上がり、そちらの方へ心が動いてしまったようだ。結局80年代半ばから活躍するギター・ヒーロー、Vinnie Mooreヴィニー・ムーア(写真左端)が迎えられ、もう1つ驚く事に、ドラムにはあのジョン・ボーナムの息子Jason Bonhamジェイソン・ボーナム(右から2番目)がメンバーとして加入したのだ。おまけにポール・レイモンドも復帰し、あっと驚くスーパー・バンドが誕生した。このメンバーで2004年にリリースしたアルバム「ユー・アー・ヒア」の音がまたすごい!大仰なアレンジはないものの、70年代のUFOに近い柔軟なサウンドで、曲自体もバラエティに富んでメロディーもなかなかいい。そして何より演奏のすばらしさに新鮮な感動を覚える。おそらくUFOの長い歴史の中でも、最も演奏は上手いであろう。それはもちろん新加入の若い2人の力によるところが大きいが、フィルやピート、レイモンドも2人に刺激されたのか、負けじとベテランならではの味を出し頑張っている。
「神」(マイケル)の呪縛から解き放たれ、ついに自力で歩き出したUFO。ここまで本当に長い道のりだった。長年のファンとして今はただ「おかえりなさい」と声をかけてあげたい気持ちだ。(HINE)2004.6更新
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