2人のスーパーギタリストを生んだ名バンド
アルカトラスを初めて聞いての感想は、「さすが噂に違わぬ実力だな〜」
そう、もちろんイングヴェイ(g)のことだ。彼の登場により、80年代後半に第2次ギタリスト黄金時代が訪れたと言っても差し支えないだろう。イングヴェイは多くのHM/HR系ギタリストの新しい目標となり、今ではイングヴェイ並に弾くことが上手いギタリストの新基準とさえなってしまったのだから・・・。
そのイングヴェイを一躍有名にしたのが、このグラハム・ボネット(vo)率いるアルカトラスなのだ。すでに故郷スエーデンやアメリカへ渡ってから参加したスティーラーでのプレイで、目撃したファンからは熱狂的な支持を受けていたイングヴェイだが、レインボー〜MSGと超大物グループを渡り歩いたグラハム・ボネットと組んだことで、注目度はケタ違いに跳ね上がった。アルバムとしては、1枚のスタジオ盤と1枚のライヴ盤を残しただけなのだが、それでも十二分にその実力は伝わった。
個人的には、初めてイングヴェイのプレイを聞いたのは、ソロになってからの「ライジング・フォース」というアルバムなのだが、第一印象は「リッチー・ブラックモア(元ディープ・パープル〜レインボー/g)があと20歳若かったら、きっとこんな風になっていたんだろうな〜」というようなものだった。クラシック(バロック)音楽への深い傾倒が、そう思わせたのだろう。いや、もっとよく聴くと、ソロ・パート以外のリズムに回った時のパワーコードの使い方やトレモロアームの使い方なども、随所にリッチーの影響も感じられる。
グラハムも、元々熱唱系のヴォーカリストで、少々毒気のある声質を除けばレインボーにおいてもまったく違和感がなかった。
この2人が生み出すサウンドは、まさに進化したレインボー、アメリカナイズしてポップになったレインボー以上にレインボーらしかったのだ。
元はポップスのヴォーカリストだったというグラハム・ボネットは、リッチー・ブラックモアに見いだされて以来、レインボー〜MSGといった大物グループを渡り歩いてきたが、スター・プレイヤー主導型のバンドに疲れ、1982年ロンドンからLAに渡り、自己の理想とするバンドを結成しようとオーディションを開始した。
選考に残ったのは、元ニュー・イングランドの2人、ジミー・ウォルドー(key)とゲイリー・シェア(b)、それに元センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンドの2人、ザル・クレミンソン(g)とバリーモア・バーロア(ds)だった。しかし、クレミンソンがイギリス中心の活動を主張したため、アメリカ進出を目論んでいたグラハムはもう1度ギタリストとドラマーを選考し直すことにした。
ここでグラハムは、レインボー時代の僚友コージー・パウエル(JBG〜レインボー〜MSG〜ブラック・サバス/ds)に参加を要請するが、コージーはこれを断り、代わりにロジャー・テイラー(元クイーン/ds)とクライヴ・バー(元アイアン・メイデン/ds)を紹介してきたらしい。だが、ロジャーからも快い返事はもらえず、しかたなくクライヴやエインズレー・ダンバー(元JBG〜マザーズ、ジェファーソン・スターシップ〜ジャーニー/ds)を招いて再びオーディションを行った。
結果は、この2人もグラハムの望むタイプではなく、結局セッション・ドラマーのヤン・ウヴェナを起用することに決めた。
そして今度はギタリストの選考に入るのだが、グラハムはスティーラーというL.Aのバンドにいたスゴ腕ギタリストの噂を聞きつけ、事前に連絡を取りオーディションに参加させていた。この人物こそ、10代でライジング・フォースというバンドを結成し、自宅スタジオでデモ・テープ作成をしていたという天才ギタリスト、イングヴェイ・マルムスティーンであったのだ。イングヴェイはその後アメリカ、L.A.へ渡りスティーラーへ加入、1枚のアルバムを残していた。
オーディションではインヴェイのプレイを聞き即決。ついにグラハム念願のバンド、アルカトラスが結成された。
Graham Bonnet グラハム・ボネット/ヴォーカル
Yngwie Malmsteen イングヴェイ・マルムスティーン/ギター
Gary Shea ゲーリー・シェア/ベース・ギター
Jan Uvena ヤン・ウヴェナ/ドラムス
Jimmy Waldo ジミー・ウォルドー/キーボード
1983年にリリースしたデビュー・アルバムでは、すでにイングヴェイが全曲の曲作りに参加(1曲は単独)、ギタリストとしてはもちろんのこと、持てるすべての才能をいかんなく発揮していた。元々リッチー・ブラックモアとバロック音楽の父J.S.バッハのファンだと自ら語るイングヴェイとグラハムが生み出すサウンド(実はウリ・ジョン・ロートの影響も大きい)は、リッチーが築き上げたハードロックの様式美とメタル世代にも適応するヘヴィネス、尚かつ親しみやすい適度なポップさも持ち合わせた、官能的なヘヴィ・サウンドであった。特に5曲目の「クリー・ナクリー」はかっこいい!
このアルバムは全米でもスマッシュヒットし、それ以上にイングヴェイの超絶プレイを世界中に知らしめる役割を果たした。84年1月には来日も果たし、その模様は「ライヴ・センテンス」としてリリースもされている。
しかし、これで一躍名を挙げたインヴェイは、1枚のスタジオ・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを残しただけで脱退してしまう。その後はソロとなり、スーパー・ギタリスト・ブームの火付け役として、めざましい活躍をしてゆくのはご承知の通り。
もう1人のスーパー・ギタリスト
またもスター・プレイヤーに振り回されてしまった感のあるグラハムであったが、次に選んだギタリストがまたすごい。もっとも、イングヴェイの後釜となれば並の腕では務まらないのも事実であったが、高等音楽理論を学び奇才フランク・ザッパ門下生としてザッパの写譜係りをしていたSteve Vaiスティーヴ・ヴァイ(g)をオーディションで獲得した。
ザッパといえば変態ギタリストとしても有名な人物であったが、ヴァイはそれを譜面に起こす作業をしていた超変態ギタリストであったのだ。
オーディションにはヴァイの他、クリス・インペリテリ(後にインペリテリを結成)も参加し、ヴァイ自身、自分の前にクリスが出たとき、「あ〜、こいつが受かるな」と思ったらしいが、グラハムの選んだのはヴァイの方。一見控えめそうで自分の意志通りに動きそうに見えたのではないだろうか?
ヴァイが加入したアルカトラスは、84年10月には早くも2回目の来日を果たしている。この来日公演で、ヴァイはまだライヴ慣れしていない様子を露見してしまったらしいが、何人にも無理と思われていたイングヴェイのギター・ソロ部分を軽々とコピーして弾いてみせたという。
ヴァイの腕前からすると、コピーして弾くことなど容易いことなのだろうが、問題はいかに自己の個性を確立するかにあった。だが、その心配には及ばず、85年にリリースされたアルバム「ディスタービング・ザ・ピース」では、すでにヴァイの変態プレーが炸裂。さすがに様々な経験を積んできたつわ者、環境に適応する能力もすばらしい。
ヴァイもいきなり全曲の曲作りに参加(1曲は単独)、しかもヴァイ参加後のアルカトラスは、サウンドの幅を格段に広げ、不規則なリズム・パターンやジャズ、ブルース、クラシックなどあらゆる音楽を吸収した高度な音楽性をも身につけていた。しかも、こちらもまたレインボーっぽいサウンドなのだ。
イングヴェイ時代が初期のレインボー的なサウンドであったとするなら、ヴァイ時代は後期レインボー的とも言える。
ところが、このヴァイのスーパー・プレイに目を付けた、元ヴァン・ヘイレンのデイヴィッド・リー・ロス(vo)が、アルカトラス加入後まもないヴァイを自身のバンドへ引き抜いてしまい、またもやアルカトラスはギタリスト不在の危機に直面する。
ヴァイの方は苦労人らしく、その後もホワイトスネイクへ加入するなど、着実にロック界での足場を固め、映画出演も果たし、今やイングヴェイと並ぶスーパー・ギタリストとしての地位を獲得している。
さすがに懲りたのか、グラハムは次のギタリストに、ドラムのヤン・ウヴェナから紹介された、比較的知名度の薄いダニー・ジョンソン(元デリンジャー〜ロッド・スチュワート・バンド〜アリス・クーパー・バンド)を迎え、アルカトラスを存続させた。
86年ダニーを入れたメンバーで、アルバム「デンジャラス・ゲームス」を発表。しかし、先の2人のインパクトが強すぎ、いつしかアルカトラスはグラハムの理想に反し、スーパー・プレイヤー主導のバンドというイメージが定着していた。そのためこのアルバムは内容は悪くなかったらしい(未聴)にも関わらず、ファンを失望させる結果となり、セールス的にも失敗に終わってしまった。
その後87年にゲイリーとジミーが脱退。代わりにジェイ・デイヴィス(元ロッド・スチュワート・バンド/b)を加えるが、今度はギターのダニーが新加入のジェイとプライベート・ライフを結成するため脱退したため、グラハムもついにバンド存続を断念した。
アルカトラス解散後、グラハムは皮肉にもオーディションで不合格にしたクリス・インペリテリの結成したバンド、インペリテリへ身を寄せることになる。自分の理想のバンドを目指し、こだわり続けてきたグラハムの心中は如何ばかりだったのだろう・・・。(HINE)2002.9
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