ハードロックの理想型に最も近い存在。衝撃の蠍団!
ハードロック・ファンなら誰もが理想として思い浮かべる、重くスピード感のあるリズム、パワーのあるハイトーン・ヴォイス、卓越したギター・テク、ポップすぎない曲の良さ・・・
70年代半ば、ブリティッシュ・ハードがその勢いを失いつつある頃、彼らはそれらを全て兼ね備えて登場し、当のイギリス人達よりブリティッシュっぽい音で、往年のハードロック・ファン達を熱狂させた。
特に日本においては、ウルリッヒ(g)の奏でるマイナー調フレーズが、より多くの人々を虜にしていったのだ。
よくドイツ人の感性は日本人に似ていると言われるが、彼らがライブでよくカヴァーしている日本の代表的叙情歌「荒城の月」を聞くと、「あ〜、この重苦しいようなマイナー旋律を彼らも理解できるんだな〜」と、なんだかうれしくなる。「蠍団爆発〜スコーピオンズ・ライヴ」に入っているこの曲などは、後半から絡みつくように入るウルリッヒのギターが、何の違和感もなく、自然な形で曲にとけ込んでいるのがわかるのだ。それは彼らがもともと日本人的な感性を持っているからなのだろう。
2人の天才リード・ギタリストと世界一のサイド・ギタリスト
自分の場合、ブリティッシュ・ハードの中堅バンドだったUFOは古くからのファンで、マイケル・シェンカー加入当初からよく聞いていた。マイケルはウルリッヒと同じドイツ人ということもあって、やはり日本人のツボを刺激するような、何とも言えないマイナー調フレーズを得意としていただけに、すぐに大好きになった。しかし、そのマイケルがスコーピオンズ出身だったと知ったのは、もうすっかりスコーピオンズ自体が有名になってからのことだ。
日本ではアルバム「復讐の蠍団」でデビューしたスコーピオンズであったが、実は彼らのルーツは1965年までさかのぼる。
この年16歳のルドルフ・シェンカーがウォルフガング(ds)らとともに、ドイツのハノーバーで結成したバンドが最初のスコーピオンズの原型で、当時すでにスコーピオンズの名を名乗り、ルドルフはヴォーカル&ギターを担当していた。
一方、ルドルフの弟マイケルは69年頃からバンド活動を始め、いくつかのバンドを渡り歩くうちにクラウス・マイネと出逢うことになる。
そして、71年マイケルが当時加入していたバンド、コペルニクスの解散を受けてクラウスと共にルドルフ達と合流。こうしてスコーピオンズにデビュー当時のメンバーが揃った。
Rudolf Schenker ルドルフ・シェンカー/ギター、ヴォーカル
Michael Schenker マイケル・シェンカー/リード・ギター
Klaus Meine クラウス・マイネ/ヴォーカル(*1st.アルバムのクレジットにはMeinerというスペルになっている)
Lothar Heimberg ローザー・ハインベルグ/ベース・ギター
Wolfgang Dziony ウォルフガング・ズィオニー/ドラムス
すぐに国内のレーベルとの契約を取りつけた彼らは、翌72年「恐怖の蠍団」でアルバム・デビュー。このアルバムは、プロデュースが後にウルトラヴォックスやディーボを手がけたコニー・プランクということもあって、その後の彼らのサウンドとはかなりかけ離れたもので、少々プログレっぽい。どちらかというとユーライア・ヒープなどにも通じるようなものだ。マイケルもまだ自分のギター・スタイルが出来上がっていない感じで、かなり荒削りな弾き方が目立つ。しかし、まだ当時17歳(レコーディング時点では16歳)という事を考えると、すでにギターの腕前が世界レベルに達していたことは驚異的とも言える。
彼らは、このアルバムを発表後ドイツ国内をツアーして回るが、まだ無名であったことから、当然欧米の有名バンド達の前座をつとめていたのであった。そんな有名バンド達の中にUFOもいた。
そして、ある時UFOのツアーをいっしょに回っていた際、同バンドのミック・ボルトン(g)が突然失踪。急遽代役にマイケルが起用されるという事件が起こった。UFOのメンバー達はこの時のマイケルの演奏をとても気に入り、その後何人かの代役を立てたものの、結局1番気に入ったマイケルにバンド加入の要請をしてきた。
当時ロック後進国であるドイツから、まさか世界的なバンドが生まれるとは思えなかったので、すでにヨーロッパや日本で大きな人気を持っていたUFOへマイケルが加入することには、ルドルフや他のメンバー達も賛成し、快く彼を送り出すことになった。
これが、結果的にはマイケルだけでなくスコーピオンズ自体にとっても、非常に良い選択になろうとは、この時点では思いもしなかっただろう。
しかし、その後UFOで大活躍するマイケルよってスコーピオンズもクローズアップされ、共に世界のビッグスターになってゆくのだ。アルバム1枚のみのメンバーとはいえ、マイケルがスコーピオンズに残した功績は計り知れない。
もう1つマイケルはバンドに素晴らしい置き土産をしていった。それは、知り合いの凄腕ギタリスト、ウルリッヒ・ロートを自分の後任にと推薦していったことだ。もっとも、電話で直接マイケルから加入要請を受けたとき、ウルリッヒは一旦断ってはいるのだが、その後マイケルからその話を聞いていたルドルフからも強い要請を受け、クラウスをバンドに引き戻すことを条件に、スコーピオンズ加入を承知したということだ。(よくライナーなどにはオーディションで加入したと書いてあるが、これはウルリッヒ本人が後に語っていたことなので確かだろう。もしかしたら、一応形式上のオーディションもやったのかもしれないが・・・)
話は前後するが、マイケルが引き抜かれた後、スコーピオンズの方は次々とメンバーが脱退し、オリジナル・メンバーはルドルフ1人になっていたらしい。
ウルリッヒの加入は、スコーピオンズにとって、ジミ・ヘンドリックスばりの凄テク・ギタリストがいるという話題を提供しただけでなく、とても大きな意味を持っていた。
クラウスを引き戻したのも、ウルリッヒが早くからその名ヴォーカリストとしての資質を見抜いていたからに他ならないし、その後のスコーピオンズを世界的なスターへと導く足がかりを作ったのも、ほとんど彼の力によるところが大きいからだ。
74年になると、ルドルフとクラウスがオーディションにより他のメンバーも集め、新生スコーピオンズとも言うべき布陣でセカンド・アルバム「電撃の蠍団」をリリースした。第2期スコーピオンズとも言える、このときのメンバーは、
Rudolf Schenker ルドルフ・シェンカー/ギター、ヴォーカル
Ulrich Roth ウルリッヒ・ロート/リード・ギター、ヴォーカル
Klaus Meine クラウス・マイネ/リード・ヴォーカル
Francis Buchholz フランシス・ブッホルツ/ベース・ギター
Jurgen Rosenthal ヨルゲン・ローゼンタル/ドラムス
このセカンド・アルバムでは、ウルリッヒのギターを前面に押し出した、スピード感のあるハードロック・サウンドへ変貌を遂げたが、毛色の違うマイケル作の曲も数曲入っており、まだ独特のスコーピオンズ・サウンドは確立されていない。
とは言え、マイケルの曲もかなりの名曲で、すでにマイケルがコンポーザーとしても素晴らしい才能を発揮していたことが分かる。個人的にはかなり好きなアルバムだ。
この後ドラムがRudy Lenners ルディ・レナーズに代わり、75年にサード・アルバム「復讐の蠍団」をリリース。
ここで一気にウルリッヒの超絶ヘヴィ・ギターが炸裂!特に日本ではこのアルバムでデビューしたため、1曲目の「ダーク・レディ」を聞いただけでもうビックリ!!背筋がゾクゾクするほどカッコよかった。他にも名曲が目白押しで、サウンド面でも独特の重厚感を出すことに成功している。また、このアルバムからは「ロボット・マン」のシングル・ヒットも生まれ、彼らの知名度をヨーロッパ全土へ広める結果となった。
つづいて76年リリースしたアルバム「狂熱の蠍団」も大好評で「幻の肖像」(Pictured Life)がスマッシュ・ヒットした。だが、このあたりから、しだいにウルリッヒのジミ・ヘンドリックス崇拝志向が強まり、バンドとしてのまとまりが弱まってきた。ウルリッヒは自作の曲は自分で唄うようになり、明らかにルドルフやクラウスの作る曲とは違う曲調で、自分だけの世界を作り始めていた。
77年またもやドラムが交代しHarman
Rarebell ハーマンズ・ラベルが加入すると、ウルリッヒのスタジオ録音最後のアルバム「暴虐の蠍団」を発表。前作につづいてジャケットが問題(テロ事件を連想させるとか・・・)となったこのアルバムからは、「スティーム・ロック・フィーバー」がヒットした。
翌78年には、このメンバーで初来日を果たし、その模様も同年2枚組のライブ・アルバム「蠍団爆発」としてリリースした。
このライブ・アルバムも素晴らしく、ウルリッヒのギター・プレイはスタジオ盤よりさらに熱く、クラウスの声も全てレコードと同じ高音域までを再現。いやがうえでも翌年にも予定された来日公演への期待が高まった。
そして、自分も関係者づたいに、その79年の中野サンプラザでの公演チケットを手に入れ(なんと前から5列目ぐらいの位置)、期待に胸を膨らませていたのだが、その前にウルリッヒは脱退していた・・・ショック・・・
しかし、79年早々にリリースされたアルバム「ラヴ・ドライヴ」には、なんとマイケル・シェンカーが復帰しているではないか!! しかも来日公演にもマイケルが同行するというので驚喜した!!
だが、コンサート当日中野サンプラザのステージにマイケルの姿はなかった・・・。直前にキャンセルされたのだ。UFOでの幾度かの失踪事件も耳にしていたので、そう驚くことでもないのだが、UFOとスコーピオンズ両方のファンであった自分にとってはかなり失望させられた。
実際目にしたのは、ライナーなどに書いてある「ヤブスの働きで大成功を収めた」などという印象はまったくなく、はっきり言って魂の抜け殻のようなスコーピオンズを見せられたといった印象だ。
唯一の収穫は、まだ慣れていないヤブスに代わり、ところどころルドルフが急遽リードを取る場面もあり、「ルドルフって、本当はこんなに上手かったんだ〜」と感心させられたことだ。
常にマイケルとウルリッヒという天才ギタリストの陰に隠れてサイド・ギターになるしかなかったルドルフだが、もともとはギターもヴォーカルも1人でやってのける器用な人なのだ。まあ、マイケルと同じ血が流れているのだから上手くないわけはない・・・。しかし、このルドルフお兄さんはとても良い人柄で、常にマイケルを温かく見守り、「いつでも帰っておいで」といった感じで幾度となく精神的に異常をきたしたマイケルを快くスコーピオンズに迎え入れている。他のメンバーの意見もよく聞き、その人柄の良さのおかげでクラウス、ウルリッヒ、ヤブスなど有能な人材を獲得することが出来たとも言えよう。バンド内でも常に出過ぎることなく、正確に単調なリズム・ギターを刻み、リード・ギターやヴォーカルを引き立たせることに徹している。だが、必要とあらば、いつでもリード・ギターの代わりとなり、ヴォーカルの代わりもできる、なんとも頼もしいお兄さんなのだ。
バンド・サウンドとしての成功
ウルリッヒ脱退後、後任のギタリストを捜すため、イギリスでメロディ・メイカー紙に募集広告を載せ、オーディションを行った。
そこには、元プロコルハルムやヘヴィ・メタル・キッズのメンバーらも集まったというが、結局決まらず地元ドイツのハノーバーへ戻り捜すことになった。そこで彼らはUFOを脱退したマイケルと合流し、再びオーディションをしたところ、元FARGOのMatthias Jabs マティアス・ヤブスをマイケルも絶賛し即決した。
そして、上にも少しかいたが、79年アルバム「ラヴ・ドライヴ」をリリースするのだが、この中で3曲にマイケルが参加したため、ヤブスの影を薄くしてしまう結果となった。マイケルはUFO時代に比べると、それでも控えめに弾いていて、おそらく目立たないように気を遣っているのだろうが、いかんせんこの時点ではロック界で最も旬なギター・ヒーローである。話題だけが先行してしまって、このアルバム全体の良さとヤブスの魅力が正当評価されなかった。
マイケルの抜けた次のアルバム「電獣〜アニマル・マグネティズム」では、スコーピオンズ自体がもはや注目されなくなっていた。
また、悪いことに81年ヴォーカルのクラウスが喉を患って1年間の休養を余儀なくされる。
しかし、この休養がその後のスコーピオンズにとっては良い充電期間となり、次の素晴らしい作品を生むこととなる。マイケル〜ウルリッヒという偉大なギタリストの亡霊が取り払われ、ルドルフを中心としたバンド一体型サウンドになったことは、80年代におけるヘヴィメタ・ブームの流れにも合致していた。
82年、満を持して放ったアルバム「蠍魔宮〜ブラックアウト」は全米10位と、それまで最大のヒットとなり、アメリカでの成功をも手中にするのだった。勢いづく彼らは84年にもアルバム「禁断の刺青」を全米6位に送り込み、ここには、以降彼らの代表曲ともなる「Rock
You Like A Hurricane」も収められていた。
この年、スーパーロック'84イン・ジャパンにホワイトスネイク、MSG、ボンジョヴィらと共に出演するため来日もしている。
その後ツアーに明け暮れ、大きなイベントがあると、必ずと言っていいほど参加し話題を振りまいてきた。90年にはアルバム「クレイジー・ワールド」を発表し、そこからの名バラード・シングル「ウィンド・オブ・チェインジ」は全米4位の大ヒット記録し、改めて健在ぶりを世界に知らしめた。
94年には、MSGを解散させたマイケルも同行して来日し、アコースティック・セットも披露するなど貫禄と余裕を見せつけたが、99年のアルバム「アイ・トゥ・アイ」あたりから様子が一変した。このアルバムでは、デジタル・サウンドに挑戦し、一聴しただけではスコーピオンズと分からないほどのサウンド変化を見せているらしい(未聴)。2000年には、ベルリン・フィルハーモニー・オーケストラとの共演ライブ、2001年にはアコースティック・ライブのアルバムも発表し、しばらくは迷走中といったところだったのだろうか・・・。
しかし、どれもそのクオリティーは高く、彼らがどんな方向へ進もうとも、本当のファンなら、そのサウンド変化を楽しんでみていられるはずだ。
マイケル・シェンカーは現在再結成UFOとMSGを行ったり来たりの活動をしているが、UFOの来日公演の演奏途中でギターをステージに叩きつけて帰ってしまったり、ウルリッヒやジョー・サトリアーニと共にヨーロッパG3ツアーと題して回った公演でも途中で失踪と、相変わらずの振る舞いを繰り返している。
ウルリッヒはスコーピオンズ脱退後、ウリ・ジョン・ロートと名を改め、エレクトリック・サンというトリオ編成のバンドを結成し、さらなるジミヘン崇拝への道をたどっていった。その後はスカイ・ギターと命名された独自開発のギターを使い、オーケストラをバックにクラシック曲へ挑戦をするなど孤高の道を突き進み、“ギター仙人”というあだ名まで付けられている。
できることなら、将来日本でマイケル、ウルリッヒ、ヤブスのトリプル・リード・ギターによるスコーピオンズ公演をやってくれまいか、と夢見るのは勝手な想像だが、最近のマイケルとウルリッヒの急接近をみると、案外実現不可能なことではないかもしれない。考えただけでも楽しいではないか・・・。(HINE) 2003.4更新
推薦サイト:「SCORPIONS FAN'S PAGE」
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