紫のけむりの中に消えていった恐ろしいほどの才能
「あ〜死んでくれてよかった・・・」とは、ジミがこの世を去って10年後の竹中チャー氏の言葉。
もし、今あの天才ジミが生きていたら、あまりにレベルが違いすぎて、ギタリストとしての自分の存在はなかっただろうという意味だ。
ジミが他界したのを知ったとき、エリック・クラプトンも自宅の庭で泣きながら、同じギタリストとしてロック界を引っ張っていた親友を失ったことにショックを受け、しばらく途方に暮れていたという・・・。
4年間という短い活動期間でありながら、ロック界に多大な影響を残したジミはまさに大天才と呼ぶに相応しいアーチストであった。
また、確かなテクニックと多彩な音楽ルーツをベースにした高い音楽性のみならず、ライブ・パフォーマンスにおいても、それまでの常識を遙かに越え、ビートルズなどが創り上げたロックをポップス(またはソフトロック)にしてしまうほどの大変革をロック界にもたらした。
バイオグラフィー
ジミヘンドリックス、通称ジミヘンは1945年11月27日、米ワシントン州シアトルでインディアンの血を引く両親の間に生まれた。しかし、庭師であった父親はほとんど家へ帰らず、母親はジミが10歳の時にアルコール中毒で亡くなってしまったため、100歳まで生きたというインディアンの祖母にほとんど育てられた。
12歳でエレクトリック・ギターを弾き始めたジミが当時聞いていた音楽は、B.B.キングやエルモア・ジェイムスといったブルースだったそうだ。その後15歳でアマチュアバンドに参加するが、63年に18歳で軍隊に入る。しかし、翌64年には足を負傷して早々に除隊している。この時知り合ったのが後にバンド・オブ・ジプシーを結成するビリー・コックス。
除隊後、ナッシュビルを基点にプロのギタリストとして活動を始めたジミは、アイズレー・ブラザーズやリトル・リチャードのバックを転々とするが、本人達より目立ちすぎて、すぐクビになったり、アメリカでの彼に対する評価は冷たいものであった。
66年になると、ジミは自分のバンド“ジミ・ジェイムス&ザ・ブルー・フレイムズ”を結成し(メンバーには、後にドゥービー・ブラザーズに入るジェフ・バクスターもいた)、クラブなどで演奏し出した。すると、左利きなのに右利き用のギターを逆さまにして弾く独特のスタイルや、歯で弾いたり、背中で弾いたりというトリッキーなプレイがたちまち評判となり、ジミを目当てに、アニマルズやローリングストーンズのメンバーなどたくさんの有名人が訪れるようになった。中でも、アニマルズのチャス・チャンドラーはジミに惚れ込み、イギリスに来るようにと熱心に誘った。(なんでもエリック・クラプトンとジェフ・ベックに会わせてやると言ったらしい)
こうして同年イギリスに渡ったジミに、チャンドラーは、たまたまギタリスト募集のオーディションに現れたNoel Reddingノエル・レディングをベースに転向させてジミといっしょにバンドを組むように薦め、ドラムのMich Mitchellミッチ・ミッチェルも加えて“JIMI HENDRIX EXPERIENCE”と名付けてさっそくデビューさせた。
そして、翌67年にはシングル「ヘイ・ジョー」でレコード・デビューも果たしてる。つづいて、ドラッグのことを歌ったセカンドシングル「紫のけむり」とファースト・アルバム「アーユー・エクスペリアンスト」もリリースし、たちまちのうちにイギリス中が注目するロック・スターとなったジミは、アメリカへ凱旋帰国し、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。ここでジミは「正義の国アメリカは、自己の価値観が破壊されるのを何より恐れ、害をまき散らす奴を排除しようとする。なら先に挑戦してやろうじゃないか・・・」と言い放ち、ギターに火をつけて燃やす過激なステージを披露した。これでアメリカでも一躍有名になったジミは、映画イージーライダーのサントラに「イフ・シックス・ワズ・ナイン」が使われたり、サード・アルバムがビルボード誌のアルバムチャート1位になったりと、押しも押されぬ大スターになっていった。
しかし、一方では、しだいにドラッグの服用量が増えていき、ステージに立つときは、いつももうろうとしていて、目も虚ろな状態になっていた。
69年にはあの有名なウッドストック・フェスティバルに出演し、とりをつとめている。雨でドロドロになったゴミの山をバックにアメリカ国歌を演奏するここでの姿はすでに伝説と化している。
この後、ニューヨークのフィルモア・イーストで開催された69〜70年の年越しライブに、ニューグループ“BAND OF GYPSY”(Buddy Milesバディ・マイルス/ドラムス、Billy
Coxビリー・コックス/ベース)で出演したが、すぐにまたミッチェル(ds)を引き戻し、ビリー・コックスと共にニュー・エクスペリアンスを再編成している。
この編成で、ジミにとって最後の大きなイベント“ワイト島ミュージック・フェスティバル”に出演しているが、すでに意識もはっきりしていないような状態で、往年の凄いプレイとはかけ離れていた。その後いくつかのコンサートをこなして、70年9月18日ついに、ジミはロンドンのホテルで昏睡状態のまま発見され、救急車の中で息絶えたのであった。直接の死因は睡眠薬の多量接種ということだが、ドラッグによって身も心もボロボロに破壊されていたことは明白だ。
今もなお、多くのロッカー達に崇拝される伝説のギタリスト
たった3枚のオリジナル・アルバム(未完成を入れると4枚)しかリリースしていないのに、死後これほど多くのコンピレーション・アルバムが発売され、他のアーチスト達にも影響を与えつづけるミュージシャンはジミ以外いない。ロビン・トロワー、フランク・マリノ(マホガニー・ラッシュ)、ウルリッヒ・ロート(元スコーピオンズ)など、ジミを崇拝する名ギタリストもたくさん生んだ。そして、今改めて最近発売された当時のままの音源を忠実にリマスターしたジミの作品群を聞いてみても、音楽性としては少しも古いところがなく、いまだに新鮮な感動があるのは驚異的だ。(HINE) 2004.1更新
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