(1) はじめに
BON JOVIが創り出し、表現するロック・サウンドとは・・・バンドの中心人物であるジョン・ボン・ジョヴィ(Vo,g)が生まれ育った『アメリカ』がそこにはある。
1962年3月2日、ニュージャージーはパース・アンボイにて、父ジョン(シニア)、母キャロルとの間に生まれたジョン(本名 ジョン・フランシス・ボンジォヴィ)には、父親がヘアーデザイナー、母親がフラワーショップの店員〜経営者として共働きの生活を送る、いわゆる“アメリカの中流家庭での生活”がバックグラウンドにあり、彼がボンジョヴィで描く世界は、決して無責任な夢物語ではなく、僕ら若者たちが思い描く夢や希望、時には失望感のような、誰もが経験した(する)であろう人生観が、ジョン自身の等身大的な表現の大きさで語られているものが多い。
'80年代には「リヴィン・オン・プレイヤー」、'90年代の「キープ・ザ・フェイス」、最近では「イッツ・マイ・ライフ」がそうである。
BON JOVIは、言うまでもなくデビュー時から世界的に認知され続けている、数少ないインターナショナル・エンターテーメントなロック・バンドである!
偉大な先輩『クイーン』もそうだったように、彼らもまた本国よりここ日本で先に火が付き始めた日本先行型バンドだ。ライヴ・ツアーでは、親日家ジョンの意向でいつも重要な時期(ワールド・ツアー初日であったり)に来日し、日本のファンを大事にする。また、2nd.アルバム「7800゜ファーレンハイト」では、日本のファンに感謝の意を込めた“TOKIOロード”が収録されている。さらにこれは日本だけではないが、ライブでは毎回、選ばれたほんの数名のファンが、バーに見立て作られたステージ上の<ディーン・マティーニ>から、ライブ・パフォーマンスを目前で堪能できるなんて演出もある。
彼らは、自分たちだけで突っ走っているようには見えない。頂点を極めた世界一なロック・バンドであるにも関わらず、目線は僕らロックを愛するファンの目線と同じなのである(ロックファンの目線と言うより、もっと広くいえば庶民的な目線なのか)。
デビュー以後、チャリティーイベントのような慈善的なことにも必ず名を連ねているし、最近の大統領選挙でも庶民派の方に付いて応援していた。あの 9・11の後も、すぐに追悼の意を込めたイベントに参加し、急遽ボンジョヴィとしてアルバムも発表した。そのアルバムの内容も、決して悲しみを背負うネガティブなものではなく、力強いサウンドと共にポジティヴな詞を歌っているのだ。悲しみは悲しみで深く受け止め、その受け止めた分を生きていくパワーに変えていく・・・簡単のようで難しいことを、ロックという1つの音楽の枠組みを超えたところでやってのけている。
ロックには血が流れ、肉があり、涙も流れる、力強い魂もある・・・それを感じさせてくれるバンド、それが『ボン・ジョヴィ』なのだ!
「LIVIN' ON A PRAYER」で腕を突き上げ叫んだアナタも、「KEEP THE FAITH」で信念を貫ぬこうとした者も、「CRUSH」を聴いて新しくファンになったキミも、是非もう一度彼らの音楽をじっくり聴いてみて欲しい。その価値は充分にあるはずだ!
(2)『バンド誕生〜確かなソングライティング能力で、本国(アメリカ)より日本から始まった、アメリカン・ドリーム!』
バンドの中心人物であるジョンがロック・ミュージシャンに目覚めたのは、14歳のクリスマスのとき両親にプレゼントされた安物(65ドルと言われている)のアコースティック・ギターを手にしてからである。
当初は近所に住む人からレッスンを受けたりしながら、初めてのバンド「ザ・レイズ」を結成して、キッスや、ローリング・ストーンズの曲をカヴァーしていたようである。
それ以降、ジョンの音楽に対する情熱は増すばかりで、それまで通っていた進学校をも退学し、地元のハイスクールに通うようになる。この時に始めた本格的なバンドが、「アトランティック・シティ・エクスプレスウェイ」(以下A.C.E.)であり、この中のメンバーに、後に行動をともにする、デヴィッド・ブライアン(当時はデヴィッド・ラッシュバウム)が在籍していた。このA.C.E.の平均年齢17歳にもかかわらず、クラブ・クラスのバンドとしては、かなりの人気があったようだ。
1980年ジョンは、A.C.E.を脱退し地元のクラブ・バンド「ザ・レスト」に加入。靴屋のバイトをしながらのバンド活動を続け、デモ・テープを作ってレコード会社からの反応を待つが、よい返事が返って来ることはなく、そのまま「ザ・レスト」も脱退する。その後、ハイスクールを卒業したにもかかわらず定職に付かない状態を心配したジョンの父親が、ジョンのいとこでもあるニューヨークの有名スタジオ「パワー・ステーション」の経営者トニー・ボンジォヴィに連絡して、ジョンを雇ってもらうことになった。ここでジョンは、渋々ながら雑用係として、レコード制作に関わる仕事をしているが、後々ここでの経験がアーティストとして活かされることになる。ジョンは、スタジオでの作業や有名ミュージシャンの作業を目の当たりにして学びながら、自身の夢を大きく膨らませていったのだ。また、この時代に在籍していたバンドが、A.C.E.時代のメンバーが中心となって結成された「ザ・ワイルド・ワンズ」である。
このバンド時代に、ジョンはデビューアルバムに収録されることになる“Runaway”(夜明けのランナウェイ)を作っているが、バンド自体は評価するに値しないと酷評されていた。
その後、ジョンのいとこのトニーの進めで腕利きのミュージシャンが集められ、'82年6月にジョン・ボンジォヴィとしてのデモ・テープをレコーディングする。そして、新たにジョンは「ジ・オール・スター・レヴュー」と言われるセッション・バンドにも参加する(この時のメンバーに現ベーシストのヒュー・マクドナルドも参加している)。
この「ジ・オールスター〜」と併行して、依然「ザ・ワイルド・ワンズ」での活動も行っていたが、どちらもこれといった反応は得られなかったようである。
失意のジョンに幸運の女神が微笑んだのは、デモ・テープを売り込み中にデヴィッド(key)と滞在していた、(LAメタル・ムーヴメントが起こりつつある)ロサンゼルスを訪問していた頃で、ニューヨークのラジオ局が主催したコンテストをきっかけに「Runaway」がオンエアーされはじめたのだ。そのうちニューヨークを中心に、その他の同系列ラジオ局にも広がり、全米各地へと「Runaway」が流れはじめた。これをきっかけにレコード会社も注目し、1983年7月1日、ついにポリグラム・レコードとメジャー契約を交わす(当初の契約はジョン個人と結ばれたものであった)ことになる。
当時のバンド「ザ・ワイルド・ワンズ」には、ジョンとデヴィッドのほかにティコ・トーレス(現dr)、オリジナルメンバーのアレック・ジョン・サッチ(b)が加入していたが、ギタリストは定まっていなかった。
そんなある日、ライヴを観に来ていたある男が、ジョンに強気な言葉をかけたと言う。
「いまのギタリストより俺のプレーの方がうまい! 俺がこのバンドのギタリストになればベスト10バンドになれる!」
この強気な発言をした彼こそが、現ギタリストでボン・ジョヴィ加入後ジョンの右腕として活躍することになる、リッチー・サンボラである。
彼は、後に「このバンドには何か足りないモノがあると思った。何だろうと考えてる内に俺だと言うことに気付いたんだ」と、語っている。
デモ・テープを聴いたジョンは、リッチーのプレーを聴くなりすぐにバンドへの加入を要請、ここにボン・ジョヴィの最初のラインナップが完成する。
しかし、当初のバンド名には、今までの「ザ・ワイルド・ワンズ」や「ジョン・ボンジォヴィ&ザ・ワイルド・ワンズ」と名乗るなど、いまひとつ決めかねていたそうだ。そして結局のところ、ジョンのイタリア系の名字である「ボンジォヴィ」をアメリカ風にアレンジした「ボン・ジョヴィ」に落ち着いたのである。イタリア語では“グッド・ライフ”の意味もあるそうだ。
ジョン・ボン・ジョヴィ(vo)
リッチー・サンボラ(g)
デヴィッド・ブライアン(key)
アレック・ジョン・サッチ(b)
ティコ・トーレス(ds)
デビューアルバム『BON JOVI』(夜明けのランナウェイ)は、1984年2月にリリース(米国)される。
デビュー当初はまだ無名のバンドであったため、観客からは冷たいブーイングを浴びたり、ワゴンの荷台に寝泊りをして各ライヴ会場をまわるという散々のものであったという。しかし、日本でデビューする'84年5月頃には、「スコーピオンズ」のサポートとして、アリーナ級の全米ツアーを周ることになる。
また同年、派手な外見とは裏腹に、耳に残るキャッチーでストレートなメロディを持つ彼らが、徐々に日本で話題になりはじめ(夜明けのランナウェイのカバーがドラマ主題歌に起用された)、「スーパー・ロック'84イン・ジャパン」のスペシャルゲストとして、初来日を果たす。同フェスにデビュー間もないバンドが起用されるのは“まれ”なことだ(このスーパー・ロック〜には、スコーピオンズ、ホワイトスネイク、MSG、アンヴィルなど、名高いバンドたちが参加していた)。
この時のステージをきっかけに、彼らボン・ジョヴィの名が売れ出し、日本ではデビューアルバムがゴールド・アルバム(50万枚)のヒット作になるほど人気が高まった。
このデビュー作は、アルバム・カヴァーにあるように、まだ“ジョンのバンド”的な側面があり、バンドの音としては、よく言えば若さ溢れる、悪く言えば荒削りでまとわりには欠ける、未完成な作風の感は拭えない。
帰国後、リハーサルを経て「キッス」のサポート・アクトとして、ヨーロピアン・ツアーを同行、その後セカンド・アルバムの制作に取りかかる。
'85年の早々から、デビューアルバムのプロデューサーでもあった、ランス・クインが所有するスタジオにて、レコーディングは行われたが、この間メンバーには、離婚やガールフレンドとの別離を経験した者もいた。
特にジョンは、ハイスクール時代からのガールフレンドであった、ドロセアとの別れ(後に結婚するが)があり、この時の想いがアルバムの曲に反映されていると言われている。
アルバム・タイトル候補には、「Danger Zone」などもあったそうだが、結局は『7800゜Fahrenheit』(7800゜ファーレンハイト)として、1985年4月にリリースされる。
これと時期を同じくして、初の単独日本公演を東京・中野サンプラザを皮切りに計8公演を行うが、すべてがソールド・アウトの状態で、新人バンドとしては破格な成功を収めた。この頃からアルバム発表後のツアーは日本からというジンクスが生まれたそうだ。
日本公演後はイギリスに渡り、ヘッドライナーとしてヨーロッパ各地をサーキットしたが、そのイギリス・ツアーではチケット代が3.5ポンド(当時で約900円)に抑えられていたそうだ。これにはあまり裕福でないイギリスのロックファンが1人でも多くのショウを観に来られるようにとの配慮があったそうである。
アメリカに戻り地道なツアーは続けるものの、日本やイギリスのようには認知されず、地元ではまだまだ無名に近い状況だった。その状況下、セカンドアルバムのセールスもゴールドを記録し、その授賞式では「授賞式は家族や友人がいるニュージャージーで行いたい」というジョンの希望で、地元ニュージャージーのメドラウンド・アリーナにて地元の人々がスタンディング・オベーションの中行われたのだ。
1〜2作と確実に足場を固め、バンドとしての力量もかなりついてきたが、さらに時代を大きく揺さぶり、呼び寄せるのは次作に入ってからである−
(3)『'80年代の世界的大ブレーク、ロック史に残る2大名盤で自らの時代を掴んだ!! 』
アルバム、ワイルド・イン・ザ・ストレーツ〜ニュージャージー時代
1986年の年明け早々からジョンとリッチー(サンボラ)は、リッチーの家の地下室(物置兼洗濯場らしいが)で、安物のテープレコーダー(電池を入れるところのフタが壊れている)とギターを持ち込み、休暇を返上しての曲作りを開始する。
この時の2人には曲作りのアイデアがどんどん生まれ、約2ヶ月で40曲ほどは出来ていたそうだが、より完璧な作品にするために外部のソングライターを呼ぶことになる。(これは、キッスのポール・スタンレーのアイデアらしい)
そのソングライターこそが、その後のジョン&リッチーにとって、曲作りの技術的なノウハウを学ぶための大きなチカラとなる、デズモンド・チャイルドである。
リハーサル・スタジオに入りデモ・テープを作るが、アルバムに収録する曲を絞り込むのに、スタジオの周りや地元のピザ屋に集まっていたティーンエイジャー(地元の若者)をスタジオに招き入れ、候補曲を選考したというエピソードがある。
プロデューサーに抜擢されたのは故ブルース・フェアバーンだが、これには、“ライヴのサウンドをそのまま、アルバムに活かす”との方向性の元に決まったらしい。知っての通り、後のブルースは超売れっ子プロデューサーになるわけだが・・・。
そして、'86年の4月にカナダ、バンクーバーの「リトル・マウンテン・スタジオ」においてレコーディングが開始され、約2ヶ月というハイスピードでアルバムを仕上げた。
タイトルは当初「ウォンテッド・デッド・オア・アライヴ」に決まるはずだったが、イメージが暗いとの理由から、ストリップ・バーでヤケで思いついた『Slippery When Wet』(邦題はワイルド・イン・ザ・ストリーツ)に変更され、1986年8月ついにリリースされる。(例の女性のタンクトップ姿のジャケットはアメリカで問題になることから、当時ジョンの愛車の濡れたボディにただタイトル文字をなぞったものの方に変更されている)
このリリースと前後して日本からのツアーが名古屋からはじまり、途中メンバーの念願でもあった日本武道館の地を踏むことになる。この武道館公演は、アルバム・リリース直後というタイミングの悪さも影響してか、空席が目立つところもあったらしいが、内容はその後の大躍進を想像させられる充実したステージだったようだ。
10月頃にはアメリカに戻りツアーをするが、その途中にメンバーの誰しもが予想していなかったことが現実になる。
アルバムからのシングル(禁じられた愛)が、MTVや全米ラジオで集中して流れるようになり、それをきっかけに、遂にはアルバムが全米ナンバーワンにまで上り詰めるという快進撃が始まっていくのだ。
その後イギリスに渡ってのヨーロッパ・ツアー中にもアルバム・セールスが落ちることはなく、それまでの「ツェッペリン」の記録を破る“8週連続ナンバーワン”という、とんでもない記録を残すことになる。
さらには、シングルカットされた「禁じられた愛」、「リヴィン・オン・ザ・プレイヤー」も立て続けに全米ナンバーワンを記録!これは、当時のハード・ロック系のアルバムとしては異例、というより異常。まさに彼らは“飛ぶ鳥を、落とす勢い”で、ロック史に残るモンスターアルバムと共に、世界を代表するモンスターバンドとして、頂点へ登りつめた瞬間でもあった。(当時だけでも全米800万枚、全世界で約1800万枚を超え '87年度年間アルバムチャート1位を記録している)
'87年9月からは日本への凱旋公演を行い、すべてのステージでソールドアウト、どこの公演もチケットはプラチナ状態で、どのアーティストよりも最も席が取れないアーティストとして、日本での人気も絶対的なものになったのだ。
現在では恥ずかしいくらい、派手(ヘビメタ風)な衣装にロン髪を振り乱してのパフォーマンスで、TV・CM(某日本企業のカセットテープなど)に登場したのもこの頃であったが、当時としてはもちろん稀なことで、日本ではロック・バンドがお茶の間のTVコマーシャルに出てくるのは多分、彼らが最初なのでは?
いわゆるHR/HM界に新しい若い世代のファンを生むことになるが、特に今まで以上に女性ファンが急増したという点ではボン・ジョヴィの功績は高い。
まだ、前作(ワイルド・イン・ザ・ストリーツ)の余韻が冷め止まない、'88年の初め次作アルバムの曲作り、リハーサルが始まる。
前作があまりの好成績(本人達すら予想してない)だったための、強いプレッシャー(ファンやレコード会社からの)が彼らを襲っていたはずだが、この時の彼らは怖いもの知らずなのか、前作とほぼ同様の制作過程、同プロデューサーのもと、レコーディングを順調にこなしていった。アルバムにはツアーを重ねた彼らの経験が活かされ、「友情や旅」がテーマになった。そしてタイトルには、彼らの故郷でもある『NEW JERSEY』(ニュー・ジャージー)がそのまま選ばれたのだった。
そしていよいよ1988年9月に全世界で同時リリース。すると、約1ヶ月後にはシングル「バッド・メディシン」がアルバムと共に全米1位を、さらに「ボーン・トゥ・ビー・マイ・ベイビー」が3位、名バラードの「アイル・ビー・ゼア・フォー・ユー」までもが1位を獲得し、結局『ニュー・ジャージー』は4週連続の1位、年間チャート4位と、前作と引けを取らないほどの成功を収めた。それどころかジョン&リッチー(プラス、デズモンド・チャイルド)のソングライティング能力と、バンド・パワーがみごとに合致したこの名曲揃いのアルバムで、誰もにも止めれないほどの人気を決定付けたのだ。
その頃、この時代では異例のソビエト(今のロシア)でのロック・フェスティバル(モスクワ・ピース・フェスティバル)が行われ、ボンジョヴィはスキッド・ロウ、モトリー・クルー、スコーピオンズ、シンデレラ、オジー・オズボーンらを従えて“ヘッドライナー”を務め、ソビエト(ロシア)でも認められる存在となる。(モスクワのレーニン・スタジアムで'89年8月に2日間で約14万人を集めたという)
アルバムにともなった『ニュー・ジャージー』ツアーでは、当時リッチーに「あとは月にでも行って、プレーするしかない!」と、言わすほどの超過密ツアーで、全232公演(455日間で)全世界37カ国をまわり、地球を約3周するほどの過酷なツアーを行うが、この事が後に大きな影を落として行く。
(4)『バンド解散危機を乗り越え、自らの信念のもと90年代を生き抜いた!』
アルバム、キープ・ザ・フェィス〜クロス・ロード〜ジーズ・デイズ時代
延々と世界各地をサーキットした『ニュー・ジャージー』ツアーが終了する頃には、気力や体力は極限状態で、メンバー間の人間関係までもが悪化する。
ツアーによって全世界に己の存在を誇示し、アルバムセールスや観客動員の記録を次々に塗り替えた功績とは裏腹に、メンバーたちは大きな代償を背負う事になる。
それまでには無かったものがエゴと言う形で表面化し、ついにはバンド活動を一時休止するという最悪な決断を下してしまう。
しばらく活動しない間に、ジョンはソロ活動に力を注ぐようになり、映画「ヤング・ガン2」用に曲を提供する。『ブレイズ・オブ・グローリー』(全米3位のヒットをするにもかかわらず、ジョン曰くこれはソロ・アルバムではない)
アルバムと同名のシングル曲は「リヴィン・オン・ザ・プレイヤー」の記録を破る500万枚以上の好セールスを上げ、バンドの危機をよそにジョンの評価はますます高まっていったのだ。
ジョンに遅れ、リッチーもソロ・アルバムに着手するが、この時にバックについたのがボン・ジョヴィのデヴィッドとティコであった。皮肉にもこの2人がリッチーに協力したため、あたかもボン・ジョヴィが分裂したかのように見え、一部ではジョンとリッチー間の確執を報じる記事まで目にするようになる。
それからしばらく、ボン・ジョヴィとしての正式なコメントがなかったため、解散のウワサは常に流れつづけていた。そんな中、遂にジョンから正式なコメントが入るが「'90年末に来日公演を行う。・・・しかしこれがボン・ジョヴィにとって最後かもしれない!?」と、意味深な発言をしたため、今までの名バンドがそうであったように、このボン・ジョヴィも頂点を極めると後は落ちるだけなのかと、ファンは嘆くことしかできなかった・・・。
'91年末、日本での単独公演以来、約1年振りに、メンバー5人が集まり地元でのクリスマス・イベントにボン・ジョヴィとして久々の復活ライブを行った。
そこで彼らは、「アルバムのレコーディングに入り、ニュー・アルバムをリリースする!」と、これまでの解散説を払拭し、ファンにとっても嬉しいニュースを伝えたのだ。
ジョンは「2年間、メンバーそれぞれが別々のことをやってきたけど、バンドがバラバラになったわけじゃない。何が何だか混乱していただけなんだ。結局大切なのは、俺達の心は1つだということだ。」
さらにリッチーも「長いツアーの後、少し休む必要があったんだ。自分を見失っていたから・・・でも、わかったんだ。一番大切なのはボン・ジョヴィが存在し、アルバムを作り続けることなんだってことが。」
ビートルズのレノン&マッカートニーに肩を並べるとも言われるくらいに成長した最高なソングライティング・チーム、ジョン&リッチーの復活である。
1992年10月に待望のニューアルバム、『Keep The Faith」(キープ・ザ・フェイス)がリリースされる。
“信念を貫く”との意味があるタイトルに加え、カヴァーにもメンバー5人の手のひらが重なっていることから、バンド自体がこれから先も高い協調性と強い団結力で結ばれていることをアピールしているのが窺える。
良い意味で、前作、前々作の音楽性を踏襲しない、'90年代型の曲調(ボン・ジョヴィらしい解釈)で、新たな試みも感じられる快心作となっている。
しかし、時代は'90年代に突入して新しいムーブメントの波が生まれはじめ、'80年代にHR/HMシーンで活躍していたバンドたちも急速に力を失うようになって行く。ボン・ジョヴィも例外ではなく、アルバムにともなうツアー('93年頃)は、今までのように各地でソールド・アウトとは行かなくなった。
『キープ・ザ・フェイス』は、全米最高5位と、前作、前々作に比べセールス的にも落ちているわけだが、彼らはこれを気にすることなくボン・ジョヴィとして演奏することを真の喜びとしてツアーを行っていたようである。「5人のメンバーが再び集まり、アルバムを作り、ツアーを行う」ことだけに重点を置き、アルバムのセールス的なことは二の次と考えていたのだろう。
'94年に入り、ニュー・アルバムの準備に取り掛かるが、スケジュールの都合から次作はベスト・アルバムという事に決まった。
デビューちょうど10年が経ち、今までの活動を振り返るとともに、これから未来への10年に向けてということからか?タイトルは『CROSS ROAD』(クロス・ロード)になった。1994年10月リリース)。タイトルは当初「Bridges」だったらしいが・・・。
このベスト・アルバムには新曲が2曲収録され、屈指の名バラード「オールウェイズ」、その後のライブ定番曲「サムディ・アイル・ビー・サタディ・ナイト」が、また日本独自盤には日本のファンのために「TOKYOロード」も収録されている。
バンド初のベスト盤、さらにその新曲「オールウェイズ」が話題を呼び、日本だけでも80万枚を越え、世界的にみても1200万枚を超えるメガ・ヒットアルバムになった。
また同年5月に行なわれた奈良の東大寺での国内外のミュージシャンを揃えたイベントでは、ジョンとリッチーが参加し、ショーを大いに盛り上げた。さらには、デヴィッド・ブライアン(key)がソロ・アルバム「オン・ア・フル・ムーン」を日本でリリースするなど、順調みえた彼らであったが、春頃から噂されていたアレック・ジョン・サッチ(b)の脱退が正式に決まる。「バンドを続けるだけの気力、体力がなく、限界を感じた」というのが大まかな理由だったそうであるが・・・。
正式な後任のベース・プレイヤーは加えず、この時からバンドは4人で続けていくと決意する(助っ人に、デビュー前からジョンと親交のあるヒュー・マクドナルドがベースを任せられる)。毎年恒例のクリスマス・イベント(ニュージャージー、カウント・ベイシー・シアター)では、ヒュー・マクドナルド(b)を加えた5人でのライブを行っている。 またこの年12月17日には、リッチーが人気女優ヘザー・ロックリアとパリで結婚式を挙げたという。
'95年に入り、ジョンの自宅にあるスタジオで、ニューアルバムの制作に取り掛かる。
プロデューサーは、「クロス・ロード」の2曲の新曲に携わったピーター・コリンズ氏が担当し、「キープ・ザ・フェイス」で取り入れた目新しいサウンドより、”純粋なロックン・ロールに焦点を絞ったサウンド”
を表現するというコンセプトの元に制作された。
そして、1995年6月12日、タイトル『THESE DAYS』(ジーズ・デイズ)として日本先行リリースされた。
日本では発売1週目にしてチャート1位を記録し、この頃のグランジ・オルタナティヴ・ロック・ブームの中で老舗HR/HMバンドの域に達しているボン・ジョヴィのあいも変わらないロックファンからの反響に、ボン・ジョヴィ・ブランドの底力をまざまざと見た感があったのだ。
世界的にももちろん注目され、英「ウェンブリー・スタジアム」では3日間すべてがソールド・アウト(延べ21万人の観客動員)、その後も全米、南米、オーストラリアとツアーを続け、その頃では珍しい南アフリカでのライブも成功し、ワールド・ワイドな活躍ぶりをさらにアピールすることになった。
さらにこの頃のエピソードに、日本公演でのチケット代の一部を“阪神大震災”で被害に遭われた人々への義援金として、被災者の方々へ寄付したという。
大きな世界が相手の一ロック・バンドが、僕等(庶民)の目線の近くで、慈善的活動によって、我々を見舞う気持ちを表してくれたことは敬意を感じるところである。
また、この年のMTVアウォーズ授賞式(アメリカとヨーロッパの両方で行われた)に出席し、「最優秀ロック・バンド」として賞を受賞するが、この時の受賞スピーチでジョンは「俺たちとって、唯一敵となることは、何かを無視してしまうことだ。」と、当時行われていたフランスの核実験に対する抗議のメッセージを訴えた。(授賞式はパリで行われたらしいが)
(5)『HR/HMの枠を超え、誇り高き存在感で世界に認知された“インターナショナルバンド!”』
各ソロ活動の活性化〜アルバム、クラッシュ〜バウンス時代
'96年、ジョンはモデルや俳優業の傍らソロ・アルバムの準備に取り掛かり(リリースは1997年6月、『デスティネイション・エニィホエア』)、ティコ(ds)もモデルのエヴァ・ヘルツィゴワと結婚(現在は離婚)し、絵画、彫刻家方面にも才能をみせる。
5月にはボン・ジョヴィとして来日し、福岡ドーム、西宮スタジアム、横浜スタジアムで計5回の公演をほぼ3時間近いプレー(エンターテイメント性よりとにかく曲を演奏していた感がある)で熱演していたが、この時各メディアにボン・ジョヴィとしてのバンド活動は休止し、最低でも2年間はソロ活動を行うと宣言した。(ただし解散はしないとも付け加えていたが)
その宣言通り、'97〜'98年各メンバーはソロ活動を本格的に行い、ジョンは俳優業(映画出演)、ソロ・アルバム制作が活発化し、デヴィッド(key)もソロ(お蔵入りだが)、リッチー(g)も2作目のソロ・アルバムのレコーディングを開始し、1997年12月に『アンディスカヴァード・ソウル』としてリリースした(欧米では'98年3月リリース)。このアルバムはリッチーの「ギタリスト」と「コンポーザー」としての才能が改めてうかがえる好盤である。
リッチーは他にも初めての子供が生まれたり、映画サントラや日本のドラマ用に曲提供(反町隆史との競演)したり、さらには初のソロ公演(渋谷公会堂など)を行うなど公私ともに充実した日々を送っていた。
このように、各ソロ活動でも話題は尽きることはなかったが、'99年に入りいよいよボン・ジョヴィとしての新曲をリリースとのニュースが飛び込んでくる。
まずバンドは、サントラ用に新曲「リアル・ライフ」をお披露目したが、彼らを育てた名プロデューサー、ブルース・フェアバーンが急死したり、ジョン出演の映画(U-571)の撮影があったため、'99年6月頃になってからアルバムの制作がはじまった。(創作意欲が強く、9月の時点ですでに30曲以上が仕上がっていたと言われている)
レコーディングはジョンのニュー・ジャージーの新居にあるスタジオで行われ、タイトルを「Sex Sells」、「One Wild Night」と変更しながらも、最終的には『Crush』(クラッシュ)に落ち着き、日本ではアメリカより1ヶ月早い2000年5月にリリースされた。
このアルバム「クラッシュ」のテーマには、'80年代自らのサウンドの呪縛から逃避しようと格闘した「キープ・ザ・フェイス」と「ジーズ・デイズ」での必ずしも良くはない印象を、いさぎよく受け入れようとしたところがある。
これまでの過去にあった栄光や挫折感を、この「クラッシュ」で清算し、さらには、未来への希望を促すような、古くもあり新しくもある、そんな詞とサウンドがうまいバランスで表現されている。シングル・カットもされたオープニングの「イッツ・マイ・ライフ」からそれは明らかに出ていると思う。
2000年版「リヴィン・オン・ア・プレイヤー」と言われるように、'80年代の名曲を自ら再現しているかのごとく、「トーキング・モジェレーター」を再び使用、詞の中にも、何にでも諦めなかった象徴の“トミーとジーナ”までもが登場する。
古くからのファンにはあの興奮がよみがえり、若い世代のファンには新鮮に聴こえるはずだ。
ロック界の世界的な成功と、それと引き換えの挫折を味わい、バンド解散さえも考えた男たちがその波乱万丈な人生を振り返り、自らコブシを握り、「これが、俺の人生だ!」と言い切ってしまう。これほど説得力のあるパフォーマンスが出来るのもジョンならではないのか。
また「ジャスト・オールダー」では、彼らたち“バンド”を、使い古したベッドに置き換え、「老いたわけじゃない、ちょっと年をとっただけ」と、新しい時代の挑戦者として、若い世代のファンに今の俺たちを見てくれと主張しているのだ。
アルバム・プロデュース面でも、ソングライティング、サウンドともに原点回帰を視野に入れつつも、若く才能のあるプロデューサーのルーク・エビン氏を発掘し、外部ライターにも若い世代の音楽に精通している人物を起用するなど、新しいサウンドにも積極的に取り組んだのだ。
新境地にも近いアプローチで、若い世代層のロック・ファンをも獲得することになった結果、この「クラッシュ」はイギリス、オランダ、イタリア、スイスなどでチャート1位を、その他のほとんどの国々でもトップ5に入るほどの好セールスを記録する。
ファンのハートをがっちり掴みつつ、21世紀にもなっても衰えない大物バンドとしての存在感をも誇示することとなったのだ。
2001年5月には、初のライブ・アルバム『ONE WILD NIGHT:LIVE 1985-2001をリリース。(日本発売は12月に)
今まで数多くの名演を披露してきたライブ・バンドとしての魅力が詰め込まれ、曲も意識的にロック調のものが多く収録されている。
このライブ盤以外にも、日本独自の企画盤として、ボン・ジョヴィの代表的なハード・ナンバーだけをアルバムにしたベスト盤がリリースされたのだが、なんと横浜公演では、そのアルバムの曲順とまったく同じライブを敢行。さすがに当人たちはクタクタ、ジョン曰く「二度とこんなライブはやらない!」と、公言している。
同年、驚くべき映像が全世界を震撼させる。そうアメリカで起きた「9・11 同時多発テロ」である。
ジョンは、ソングライティングのため自宅に滞在していたリッチーとともにこの事件を目撃したという。
追悼の意を込めたチャリティーイベントに積極的に参加しつつ、ジョン&リッチーはニューアルバムのための構想を練り、高い創作意欲のもと約40曲仕上げたという。
ジョンのテレビドラマ出演とともに、ニューアルバムの制作がスタートする。(10月には早くもタイトルが「バウンス」と発表される)
このアルバムには、“楽曲の良さを徹底的にこだわる”べく、おなじみデズモンド・チャイルド以外の外部ライターも招き入れている。
「苦しみや悲しみ、そして怒りをオプティミズムに変え、ネガティヴからポジティヴを引き出す」(ようするに、明日は何が起こるか分からない。大地にしっかりと足をつけて毎日をしっかり生きよう。)との意味合いを込めたニューアルバム『BOUNCE』(バウンス)が世界に先駆けて日本でリリースされた(2002年9月11日)。このアルバムも世界で300万枚のヒット。
日本盤がリリースされたその日には、選ばれたファンだけの特別なクラブ・ギグが行われたりもした、しかし、もっとロック界で注目が高かったのは、2003年の5大ドーム・ツアーではないか。
ロック・ミュージシャンでは珍しく、日本全国5大ドームの制覇から始まるワールド・ツアーである。
ドームでも、もちろんチケットは瞬く間にソールド・アウトになったというから、その人気ぶりが窺えるだろう。
2003年には、今までの曲にアレンジを変えて名曲たちに新たな息吹(アコースティックな音)を加えたアルバムをリリース。
2004年には、それまでお蔵入りになっていた“隠れ名曲”を集めた大ボリュームのBOXセットをリリース・・・。
ともに懐古的趣味なものでなく、言わば”温故知新(古きを学び、新しきものを知る〜)的で、新鮮に感じるところが多いはずだ。
そして2005年には、ニューアルバムが早くも発表するのではとのニュースがある。デビュー時から常にロック界の第一線いやそれ以上の大きな存在感でファンを魅了し続ているボン・ジョヴィ。彼らが創り出すサウンドは誰にでも“口ずさめて分かりやすい”名曲ばかりだが、その名曲たちには熱い魂が宿っている!
その魂こそがボン・ジョヴィの生き様なのだ!
そしてその生き様の証とも思える“アルバム”は今や1億万枚を越えるセールスを記録し、地球規模での成功を収めている!
これからも続いて行くであろう、彼らの“終わらなき旅”に同行するのは今からでも遅くはない・・・。
アルバム紹介とメンバー紹介
≪2004年12月 せいいち≫
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