80年代最強のハードロック・トリオ
Rik Emmett リック・エミット/ギター、ヴォーカル(Left)
Gil Moor ギル・ムーア/ドラムス、ヴォーカル(Center)
Mike Levine マイク・レヴァイン/ベース、キーボード(Right)
カナダのロック・アーティストというと、古くはゲス・フー、バックマン・ターナー・オーヴァードライヴ(BTO)から、モキシー、ラッシュ、ラヴァー・ボーイなど日本では今ひとつパッとしないバンドが多い。例外的に大ヒット曲をたくさん持つブライアン・アダムスなどは日本でもお馴染みだが、それらのカナディアンたちが日本で売れない理由は、来日もほとんどせず情報も極端に少ないためであろう。トライアンフのようにビルボードのチャート上位にも顔を出さないとなると、なおさら人気も出ない。
彼らの場合、本国では8枚ものアルバムがプラチナ・ディスクに輝き、ライヴはアリーナ級を超満員にするほどの人気を誇っていたが、ヒットチャートをすごい勢いで駆け上るような、いわゆる大ヒット曲には恵まれず、地道なツアーとラジオでのヘヴィローテーションで、じわじわと人気をあげていくタイプだった。彼らのアルバムで一番売れた「Allied Forces」はビルボード最高位23位ながら、実に60週近く(59週)TOP200以内にチャートインしていた。これがどれほどのものかというと、レッド・ツェッペリンの「フィジカル・グラフィティ」が41週、「プレゼンス」が30週だというから、相当なものだ(もっともツェッペリンには234週という桁違いのモンスター・アルバム「IV」があるが)。
12歳でギターを弾き始め、学校のオーケストラでは第2ヴァイオリンも努めていたというリック・エミットは、その後カントリー&ウエスタンやジャズなどの素養も身につけ大学へと進むが、グラム・ロック・バンドの「ジャスティン・ペイジ」へ加入するため中途退学。しかし、1枚のアルバムを残しバンドは崩壊。次にAct IIIというバンドを結成する。そのバンドではすでに、トライアンフのファースト・アルバムに収録された「Blinding Light Show/Moon Child」も演奏していたという。
一方、元テリー&パイレーツのギル・ムーアと元シャーマン&ピーボディ(後の初代MOXYのヴォーカリストとなるバズ・シャーマン在籍したバンド) のマイク・レヴァインは、Abernathy Shagnaster's Wash and Wear Bandで共演。その後、Act IIIにいたリックを見つけ出し1975年にトライアンフを結成する。
3人はまずトロントの田舎を地道にライヴをして回り、1年かけて地元レーベルのAtticレコードとの契約にまでこぎつける。そして76年ファーストアルバム「トライアンフ」をカナダでリリースするが、当初はほどんど話題にもならず、あるラジオ番組のDJが気に入ってよくかけていた程度であった。
翌77年には、アメリカ進出を狙って全米ツアーを行い、セカンド・アルバム「ロックン・ロール・マシン」もリリース。すると、徐々に派手なステージやエミットのギターが話題となり人気が上昇。ジョー・ウォルシュのカヴァー曲「ロッキー・マウンテン・ウェイ」もスマッシュヒットして、アルバムはカナダ発売のみにも関わらず、アメリカでは輸入盤で2万枚ものセールスを上げるに至った。結果、ついに大手レコード会社のRCAも動き出し彼らと契約。78年にファースト・アルバムとセカンド・アルバムの曲を混ぜた「Rock N' Roll Machine」を全米リリースした。
トライアンフはこの後、年内に初のワールドツアーへと旅立ち、翌79年実質ワールド・デビューとなるニュー・アルバム「重爆戦略(Just A Game)」を発表する。ツアーの評判もよく、このアルバムからのシングル「ホールド・オン」が全米のラジオでヘヴィローテーションにのったため、全米でも一気に知名度が高まった。「ホールド・オン」は、アコースティック・サウンドとハードで乾いたアメリカン・ロックの要素をうまくミックスした名曲だが、同アルバムに収録されているもう1つの名曲「レイ・オン・ザ・ライン」のような、少し哀愁を帯びたハード・バラードもその後の彼らの大きな特徴となった。
つづいて80年にリリースされた4th.アルバム「プログレッションズ・パワー」では、全体的によりヘヴィでハードなサウンドに変化したものの、それまでの試行錯誤の結果を集大成させ、ほぼトライアンフ独自のサウンドを完成させたと言ってもいいだろう。このアルバムはチャート・アクションもよく、ビルボードで、最高位32位を記録している。
これでさらに自信をつけた彼らは、前作の路線をさらに押し進め、一回りも二回りもスケールを大きくした、彼らの最高傑作とも呼べるアルバム「メタル同盟(Allied Forces)」を81年に発表。このアルバムには、シングルとなった「マジック・パワー」の他、「ファイト・ザ・グッド・ファイト」「セイ・グッバイ」、「アライド・フォーセズ」、「フール・フォー・ユア・ラヴ」など、ライヴでは欠かす事のできない代表曲がめじろ押しだ。このアルバムは冒頭でも記した通り、彼らのアルバム中の最高位も記録し、さらにロングラン・ヒットとなって、カナダではプラチナム、米でもゴールド・ディスクに輝いている。
また、この頃から同時期に大活躍していたラッシュと、「トリオ編成」、「カナダ出身」であることから比較されるようになっていたが、音楽性は正反対。新しい境地を切り開き、どんどんサウンドを進化させるラッシュに対して、トライアンフはどちらかというと保守的。それは悪い意味ではなく、オーソドックスなハードロックを愛するファンたちの心をガッチリとつかみ、ニューウェイヴやヘヴィメタル全盛のこの時期にあって、ハードロック最後の砦としての重責を果たしていたのがトライアンフだった。
そういったハードロック・ファンたちの熱い想いに答えるかのように、83年に発表した「ネヴァー・サレンダー」も、「Allied Forces」と甲乙付けがたいほどのすばらしい内容で、トライアンフの人気はピークに達した。余談だが、このアルバムのオープニングを飾る「トゥー・マッチ・シンキング」はロニー・ジェイムスディオ時代のブラック・サバスの曲「ネオン・ナイツ」(1980)にそっくり・・・。このアルバムもビルボードでは26位まで上昇し、カナダでプラチナ・ディスク、米でゴールド・ディスクを獲得している。さらにこの年、カナダ版グラミーともいえるジュノー賞で、4部門にノミネートされ、トロント・ミュージック・アウォードにおいて殿堂入りも果たしている。
だが、この後プロモーション体制やサポートの強化を計るためレーベルをRCAからMCAに移籍。これが裏目に出る結果となる。84年にリリースされたMCAからの第一弾アルバム「サンダーセブン」(米35位)では、確かにジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、キッスなどを手がけてきた大物プロデューサーのエディ・クレイマーを起用し、スリリングでライヴ感覚あふれる素晴らしい仕上がりをみせていたし(個人的には最後の「クール・ダウン」でのエミットのギターはゾクゾクするほど美しく大好きなナンバーだ)、ライヴでも「化粧を落としたキッス」と噂されるほど派手で豪快なステージを披露していたようだが、しだいにMCA側からの要望も強くなり、自分たちの思うようにならないジレンマから、メンバー間やスタッフたちとの間に亀裂が入りギクシャクするようになる。
85年には初のライヴ・アルバム「ステージズ」をリリースしたが、そのプロモーションのため来日したのはエミット1人だった。翌86年にリリースした「スポート・オブ・キングス」では、当初MCA側の意向でロン・ネヴィソン(UFO、シンリジィ、ベイビース、ハート、シカゴなどを成功へ導いた大物)にプロデュースを任せていたが、メンバーたちと意見が衝突し、途中からミック・クリンク(ロン・ネヴィソンなどの下でエンジニアをやっていたが、後にガンズ・アンド・ローゼズやモトリー・クルーのプロデュースを手がけ大成功を収める)に交代するなどのトラブルが起きていた。問題のサウンドの方も、MCAの指示通りにかなりポップでソフィスティケイトされたものになっているが、これが古くからのファンには不評で、人気はしだいに下降の一途をたどる(このアルバム自体は米33位まで上昇)。ちなみに、このアルバムについてもう1つ付け加えておくと、シングルになった「ジャスト・ワン・ナイト」という曲は、エリック・マーティン(後にMR BIG/vo)とニール・ショーン(ジャーニー/g)との共作曲。このあたりの選曲もMCA側からの指示があってのことだろう。
しかし、トライアンフの3人は、その後もまったく士気を落とすことなく、87年には初期の頃を想わせるハードでストレートなアルバム「サヴェイランス」をリリース。必聴は当時再結成カンサスに在籍し、神業的プレーで話題になっていたスティーヴ・モーズ(g)が参加した「ヘッディッド・フォー・ノーホエア」。スピード感あふれるこの曲で、もちろんモーズはすさまじいプレーを惜しげも無く披露しているが、エミットもそれと互角に張り合うスーパープレーをみせつける。すごいギター・バトルだ!おまけにこのスリリングな疾走感とは対比的な、美しい静寂感をもった「オール・ザ・キングズ・ホーセズ」が余韻のように続く(ここでのアコースティック・ギターでもモーズが参加している)。この流れは最高!アルバム自体もコンセプチュアルになっているようで、一連の流れはあるのだが、特にアルバム前半は完璧なでき映えだ。
おそらくこういった意欲作をもう1枚続けて出していれば再び人気は上昇していたことだろう。しかしながら、翌88年トライアンフの「看板」ともいえるリック・エミットが脱退してしまう。MCAへ移籍した彼らは、何かと口を出したがるMCA側を嫌ったため、しだいにサポートの手も抜かれるようになり、後期はもうマネージメントもなくムーアがすべての折衝を仕切っていたような状態らしい。そのムーアとエミットも音楽的な対立から衝突し、エミットが抜けるしかない状況にあったわけだ。
当然のごとくトライアンフは活動ができなくなり、解散の宣言はないものの1年間完全に活動を停止した。その後ムーアとレヴァインは新しいギタリストを捜すためオーディションを行い、John Sykesジョン・サイクス(ex.ホワイトスネイク/g)を選んだが、サイクスは当時ブルー・マーダーでの活動もしており、兼任となり多忙だったため断念した。次に彼らが選んだのはライヴでたまたま見かけた若手の凄腕ギタリストPhil Xフィル・ゼニース。ムーアとレヴァインはすっかり気に入り、ただちにバンドへ引き入れようとしたが、ちょうどフィルは別の仕事も抱えており、それが終わってから参加するという事で了承した。だが、休養中たくさんの曲をかきあげていたムーアとレヴァインは、フィルを待たずにニュー・アルバムのレコーディングを開始し、途中からフィルを加えてギターのパートを一部差し替えるといった変則的な方法をとった。
ともかく92年にアルバム「エッジ・オブ・エクセス」は完成し、Victoryレコードよりリリースされた。サウンドはそれまでのトライアンフのものとは似ても似つかない、まったくの別もの。フィルのギターは豪快でかなりヘヴィメタル寄りだが、けっこうカッコイイ。だが、どうも曲にもギターにもリック・エミット在籍時のようなエモーショナルな部分が欠けている。これを聞くと、逆にあのエミットの張り裂けそうな高音ヴォイスやアルバム毎に必ず収めていたアコースティック・ナンバーが懐かしい。聞けば聞くほどトライアンフは=(イコール)リック・エミットだったのだと痛感させられる。
このアルバムからは、シングル「チャイルド・オブ・ザ・シティ」がスマッシュヒットしたが、その後トライアンフというバンド名をめぐって、新生トライアンフ側とエミットで裁判ざたになっているという情報だけが入ってきた。詳しくは分からないが、エミットが抜けてから1年間活動を停止していたことが、「解散」にあたり、再結成にあたってはメンバー全員の了承が必要だとするエミット側と、バンドは解散していないと主張するムーア&レヴァイン側に分かれて争っていたと想像できる。
いずれにしろ、このアルバムを最後にトライアンフとしての活動はやめてしまったようだ。 リック・エミットは脱退後、90年にソロ・デビュー・アルバム「Absolutely 」をリリースし、こちらはカナダでゴールドディスクに輝くなど、幸先の良い再スタートを切った。その後もマイペースな活動続けながらソロ・アルバムを定期的にリリースし、現在はトロントのハンバー大学で音楽講師としても活躍している。もともと情報の入りにくいカナダ出身者たち。他のメンバーのその後の状況はまったくといっていいほど分かっていないが、フィルXの名はアヴリル・ラヴィーンの最新セカンド・アルバムで見つける事ができる。(HINE) 2004.5
音源提供協力:HIROさん 資料協力:えさかさん
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