ロック版 展覧会の絵との出会いとロック離れ
このサイトの自己紹介ページの中で、“私は、中学時代ディープ・パープルの『ライブ・イン・ジャパン』を聴いてロックの世界に入り込んだ。”と記しているが、それが最初に聴いたロック・アルバム、もしくはナンバーと言う事ではなく、私にロックの魅力を教え、深くのめり込ませるきっかけになったのが、その作品だったと言う事である。要は、私のロック初体験のお相手となったロック・アルバムは他にあるということだ。
初体験とは、そのお相手によって実にスムーズに事が行われ、とたんにその魅惑の世界の虜となってしまうケースと、逆にその行為が上手くいかず、そのものに対して嫌悪感を覚えてしまうケースがあるようで、私の場合は正に後者であった。(んっ?ロック初体験の話だぞ。)つまり、私が初めて聴いたロック・アルバムは、私をロック好きにさせてはくれず、当然そのアルバム自体も当初は好きにはなれなかったのである。その初体験のロック・サウンド(アルバム)こそ、今回私がレヴューを手がける事になったエマーソン、レイク&パーマー(EL&P)のサード・アルバムであり、それは、有名なクラッシックの同名組曲をアレンジした『展覧会の絵』なるライヴ・アルバムであった。
私が通っていたのと同じ中学のブラスバンド部に在籍し、アルト・サックスを担当する姉の影響で、当時私は、ジャズとクラッシックのサウンドに包まれて暮らしていた。ませガキだった私にとって、クール系モダン・ジャズはタブーな魅力に溢れており、まだやってはいけない飲酒や喫煙や〇〇〇を疑似体験しているような、心地良い罪悪感を呼び起こし、ある種の快感をクライマックスにまで引き上げてくれた。禁断の何かに触れる事による、まったりとしたスリルと興奮がそこには有った。
一方クラッシック・ミュージックは、私にとって実に健全かつ崇高な存在であり、ご近所に「僕は、こんなに高尚な音楽をいつも聴いてるんですよ。」と知らしめるかのごとく、昼間から大き目の音で堂々と聴く事が出来る、心底敬愛する音楽であった。そして、その中でも最も好きな楽曲のひとつが、ムソルグスキー作曲、ラヴェル編曲による組曲『展覧会の絵』だったのである。当時は、クラッシックの演奏会にもよく出掛けたもので、“大好きな『展覧会の絵』を小澤征二がタクトを振る”などという情報が入ると、必死でそのチケットを入手しようとした。またレコードも指揮者、オーケストラ違いで、同じタイトル(展覧会の絵)のLPを6枚も持っていて、それぞれのコンダクター、楽団の個性の違いを分析したりして楽しんだ。もちろん、ムソルグスキーのオリジナルであるピアノのみのバージョンもお気に入りであったし、日本が世界に誇るシンセサイザー・ミュージックのパイオニアである、冨田勲の同名作品もコレクションの1枚であった。要はちょっとした『展覧会の絵』コレクターだったわけである。
そんなある日、姉が彼女のクラス・メイト(たぶん男子)から1枚のLPレコードを借りてきた。そのクラス・メイトは大のロック・ファンであり、クラッシックとジャズを愛する我姉とはいつも音楽の話題で激論を交わしていたらしい。その当時、一般的なクラッシックやジャズのリスナー達は、20年そこそこの歴史しかないロックという野蛮な若造音楽を、嫌悪感を持って高い所から見下していた。そして、私の姉もロックを認めていない愚かな?輩のひとりだったのである。
その日の部活動を終えた姉は、「ロックにもこんな高尚な作品があるんだ。」とクラス・メイトから強引に貸し付けられた問題のアルバムを片手に帰って来た。姉自身は、それを真剣に聴く気は無かったようで、私の部屋に入って来て、「ほら、お前の好きな展覧会の絵のロック・バージョンだよ。」と言って、私の学習机の上にブツをポンと投げ捨てるように置いて部屋を出て行った。
もともと姉は(私もそうだったが)、レコードをそんなに粗末に扱う人間ではなく、壊れやすい高価なクリスタル・グラスのごとく大事に扱っていたのに・・・・、まして、人様から借りてきた物を投げ捨てるとは何たる事か?と思いはしたが、そのむき出しのアルバム・ジャケットを手にとって見て、私もすぐに姉の態度を理解した。
なんと、そのジャケットは得体の知れない染みだらけで、四隅もボロボロにすり減っており、印刷もこすれて所々はげている。そして、二つ折りのジャケットは今にも折り目からちぎれそうになっていたのだ。我が家のレコードは本体はもちろん、ジャケットも丁寧に扱われていて、全て新品同様。はっきり言ってこの様にずさんにレコードを保管している人間がいる事自体が信じられなかった。
また、ロックを聴くやつは皆、その音楽性同様無神経でがさつなのだと誤解もした。そして、もしその持ち主が、「この前レコードを貸してやったお返しに、何かオメーの持っているレコードを1枚貸せや。」と言ってきたらどうしようと思い、自分のコレクションの中で一番嫌いな作品は何か?と模索した。しかも、それを彼が貸し付けた物と同じくらいボロボロの状態にしてお貸ししなければ、ロック・ファンである彼に対しては失礼に当たるのでは?などと真剣に考えもした。賢明な読者諸君ならもうお察しの事と思うが、当時の私は、ロックの世界を覗き見る事さえ拒み続けた、愚かな輩のひとりだったのだ。
もちろん私は、『展覧会の絵』コレクターとして、その作品のサウンドに対する期待感というか、怖いもの見たさ的な緊張感を少し位は持っていたのだが、当然のようにライナー・ノーツは紛失しており、予備知識としてのこの作品の詳細を知る事は出来なかった。さて、肝心のレコード盤は(それを保護する半透明の)中袋にも入っておらず、むき出しで直接ジャケットに収められていた。私は、予想以上にたくさんのキズと指紋がついた黒い円盤を、アルバム・ジャケットから取り出し、プレイヤーのターン・テーブルの上に置いて、そこに恐る恐る針を下ろし、その作品を最後まで聴いた。その結果、私は“急性ロック嫌悪症”という病に侵されてしまい、その後約一年間は、ロックを聴けない体になってしまった。
レコード盤に付いていた無数のキズのせいでバチバチと雑音が入りっぱなしで、収められていたサウンドをクリアに聴き取れなかったのもその病の原因の一つではあるが、それ以上に、そこに収められていた演奏そのものが“クラッシック音楽に対する冒涜”と感じられてしまったのがその要因だった。もしクラッシックを、純文学に例えるならば、その時聴いたEL&Pなるロック・グループが表現する音楽は、正に漫画であり、アニメーションであり、偉大なるクラッシック・ミュージックを誇大にデフォルメした悪ふざけであった。私は、「何が、好いLP(ELP)だ!これは、悪いLPだ!」と、心の中で叫んだ。
純文学も漫画も同様に、世の中において大いなる必要性と確固たる地位がある事は判っていた。それどころか、私自身その当時漫画家を志していたので、漫画やアニメは三度の飯の次の次くらいに好きだった。だがその時は、私の頭の中を、“漫画的イコール下賎である”という否定的な思考が支配してしまっており、音楽に対しては柔軟に事柄を置き換えることが出来なかった。
しかし、振り返ってみると、その時の私は心の奥底で最初から彼らの魅力を認識していたのかもしれない。そのあまりにも荒削りで無骨で、ふざけた音に聴こえてしまうサウンドが、ロックという音楽の表現方法なのかもしれない?と、うすうすは感じつつ、あの汚いアルバム・ジャケットとキズだらけのレコード盤による嫌悪感から、真実が見えなくなっていたのだろう。
なんだかんだ、屁理屈をこねてはいるが、とどのつまり、EL&Pの『展覧会の絵』は、当時の私には早すぎたという事なのであろう。クラッシックを敬愛しすぎていたばかりに・・・・。
かくして、私の初体験の思い出は、実に苦い物となってしまった。(だから、ロックの・・・・。)
最小ロック・ユニット
私がロックを初体験したあの忌まわしい夜から、再びEL&Pと出逢うまでに、実に5年あまりの歳月を費やす事になる。あれから約一年後、ディープ・パープルの『ライブ・イン・ジャパン』に出会い、ロックの素晴らしさに目覚め、その世界にのめり込んだものの、私は、そのパープルに代表されるハード・ロックなるカテゴリーのみを専門に追い求めており、私がはじめて聴いたロック・アルバムが、実はEL&Pのものであると言う記憶すら、私の中では封印されてしまっていた。
ところが、私が高校3年生になった年の初夏に、ほぼリアル・タイムでU.K.というグループが出現し、それまで聴いた事のなかったハイレベルで、崇高なロック・サウンドに打ちのめされた私は、彼等が所属するプログレッシブ・ロック(プログレ)なる領域に深く足を踏み入れてしまうことになる。 そして、代表的なプログレ・グループを聴きまくり始めて間もなく。当然のように、あの名前にぶち当たる。そう、エマーソン、レイク&パーマー、通称EL&Pである。しかも、私がすでにその魅力に取り付かれてしまっていた、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエスと言う偉大なるグループと共に、彼らはプログレ四天王として、リスナー達から崇め奉られる存在だったのだ。私にとってのトラウマである『展覧会の絵』は後回しにしたとして、彼らのサウンドにもう一度チャレンジしなければならなくなってしまったわけだ。“EL&Pを聴かずして、プログレを語る無かれ。”という事である。今にして思うと当然の通説である。
だが、EL&Pという名前に再会してしまった私の中に、封印されていたあの忌まわしい夜の記憶が鮮明に蘇って来た。正直言って、「彼らの他の作品を聴いたところで、私がそれを好きになるはずがない。」と思っていた。何故なら中学1年生の純真無垢(嘘)だった私を、しばらくの間ロック嫌いにさせてしまったあの『展覧会の絵』は、一般的には彼らの最高傑作のひとつとされていたのだ。しかし、寛容な私はEL&Pに最後のチャンスを与える事にした(笑)。
彼らの作品中、もう一枚の最高傑作とされている、『恐怖の頭脳改革』なる、仰々しいタイトルを冠したアルバムを、当時の私のバンド仲間のU君に貸してもらい、我家のオーディオ・ルームで聴く事にしたのだ。U君のレコードの管理は、私にとって決して理想的とは言えなかったものの、かつて姉のクラス・メイトだった、あのロック野郎よりは、ずっとましだった。しかも、私はすでにあの頃と違い、ハード・ロックとプログレッシブ・ロックの熱狂的ファンに変身していて、あの時持っていたロックに対する捻じ曲がった先入観無しで、そのアルバムのサウンドに触れる事ができる状況だったのだ。
後にあの大ヒット映画『エイリアン』のキャラクター・デザインを手がける事になるH.R.ギーガーがイラストを担当した『恐怖の頭脳改革』のアルバム・ジャケットは、表ジャケットが二重構造になっていて、中央の切れ目の所から左右両開きにすると、メドゥーサの顔が現れる凝った仕掛けになっていた。髪の毛が無数の蛇でできていて、その瞳に見つめられた者は石にされてしまうと言う、あのギリシャ神話に登場する妖怪だ。そして、幸いそこに描かれていたメドゥーサは目を閉じていたので、私は石にされてしまうことなく、そのアルバムのサウンドを聴く段階まで辿り着く事が出来た。
私は、その時点でEL&Pに関する情報をほとんど持っていなかった。だが、サウンドを聴く前にライナー・ノーツ(今度はちゃんとジャケットの中に入っていた)を読み始めて、私の中に期待感が徐々に育ち始めた。イー・エル・ピーの正式名称が、エマーソン、レイク&パーマであると言う事ぐらいは知っていたのだが、このレイクというのが、すでに私にとっては神様の域に位置していたキング・クリムゾンに在籍していたグレッグ・レイクであり、またそのキング・クリムゾンに、高度で素晴らしい歌詞を提供していたピート・シンフィールドが、このアルバムでも作詞を担当していると言う事が判ったからだ。未知の音楽と言うのは、絶望感や嫌悪感に支配された状態で聴くよりも、期待感や希望を持って聞いた方が良いのだろう。U君から借りてきたそのレコード盤に針を下ろして間もなく、あれほど嫌いだったはずの彼らのサウンドが、実に鮮烈な魅力を含み、快感に近い感動の固まりとして、私の耳に飛び込んでくる事になる。そして、一気にアルバム一枚を聴き終えた私は、無意識のうちに「最高だ。完璧だ。」と呟いていた。
『恐怖の頭脳改革』に収められているサウンド、それは紛れもなく私が5年前に聴いたのと同じメンバーが奏でる音で、私の彼らの音楽を表現する言葉もほぼ変わらない。そう、彼らのサウンドは正に“音のアニメーション”のままだったのだ。しかし、ディープ・パープルによってロックの素晴らしさやカッコよさを知り、その後プログレの魅力にも取り付かれていた私の感性は大いに進化していた。そう、ロックを支持する立場になっていたのだ。このアルバムに収められている楽曲は、全て素晴らしい出来栄えであり、それらの曲を演奏する3人のミュージシャンの技術とセンスが、これまたずば抜けている。とにかく、聴いていて元気が漲って来るような、エネルギーに満ちた音楽なのだ。クラッシック・ミュージックやジャズなどの技法や音階、そしてリズム等を巧みに取り入れ、それらを組み合わせロックと融合させる事により、彼等のオリジナリティー豊かなスタイルが生み出されている。しかも演奏するには決して容易くないハイレベルな楽曲を、見事なまでの表現力と説得力を伴いプレイしているのだ。そして、そして・・・それらは、まさしくロックであった。
プログレ四天王として同格に評価されている、キング・クリムゾンやピンク・フロイドの作品群が持つ、重厚でメッセージ性の強いサウンドは、そこには存在しない。また、イエスの作品に感じられる楽曲の完成度や精密さは、比べると劣っているかもしれない。だが、EL&Pのサウンドからは、それらのどのグループにも勝る物凄いレベルの躍動感と爆発力を感じる。しかも、ロック・グループとしては最小ユニットであるトリオで、そのサウンドを創り出している事に対して、私は大きな衝撃と感動を覚えた。
後に彼らのライブ音源を聴いて確認できた事だが、この3人のメンバーだけで、ライブでもスタジオ盤レベルの演奏をほぼ完璧に再現している。彼らは生粋のライブ・バンドであり、ライブで演奏する事を目的に作られた作品が、アルバム製作なる名目でスタジオ録音されているのではないか?とさえ思えてくる。たった3人の類まれなる偉大なミュージシャンが、それぞれの持つ能力を最大限に発揮したうえで放たれるハイセンスなサウンドが重なり合い、奇跡的とも思える絶妙なアンサンブルとして成り立っているのだ。
逆に彼等のテンションや緊張感が少しでもレベル・ダウンした時には、ぎりぎりのバランスの上に創り上げられている彼らのサウンドがもろくも崩れ去るのではないか?というスリルもはらんでいるわけで、そのスリリングな部分が、彼等が持つ絶大なる迫力(ロック感)の一部なのであろう。そう、5年前の私の未成熟な感性で嫌悪感を覚えた、この無骨で荒削りで、破壊感すら具えたサウンドこそ、クラッシック・ミュージックには無い、ロックのみが持つ特徴であり、最大の魅力だったのだ。
そして、絶対のロック・ファンに成長していた私には、それが理解できた。私は、『恐怖の頭脳改革』を聴いた翌日レコード店に走り込み、自分のしがないこづかいが底を突くギリギリの予算で、あの『展覧会の絵』を筆頭に、EL&Pのアルバムを数枚購入した。「あーっ、初体験の相手に会いたい! 今の僕ならば絶対上手くいくはずだ。あの時も、きっと彼女は完璧だったんだ。未熟だったのは僕のほうだ。」と言う思いを持って・・・・、だから、ロックの話だってば(笑)。
< E L & P の E >
キーボードを担当するキース・エマーソンは、1944年11月2日、ランカシャー州、トドデーモンに生まれる。8歳の頃よりクラッシック・ピアノのレッスンを受け始めるが、多感なキース少年は、クラッシックを本格的に極めていく一方で、ジャズやポップス等の音楽にも興味を持ち、それらにも多大な影響を受ける事になる。様々な音楽ジャンルが、違和感無く自然に融合しているEL&Pサウンドの基盤は、この頃から既に育まれていたと言っていいだろう。周知の事実だと思うが、EL&Pサウンドの中核を担い、グループのイニシアティブをとっていたのは、もちろんキース・エマーソンである。
15歳になったキースは、地元のビッグ・バンドでスウィング・ジャズを演奏するようになり、やがて彼の類まれなる才能は認められ始める。そして、ゲイリー・ファー&T-ボーンズに引き抜かれ、そこでザ・ナイスでプレイを共にする事となるリー・ジャクソンと出会うのである。その後キースは、P.P.アーノルドという女性シンガーのバック・バンドに、リー・ジャクソンと共に参加するのであるが、その時のメンバーでザ・ナイスを結成するのだ。
ザ・ナイスには、もともとギタリストがいたのだが、途中トラブルによって脱退してしまう。彼等は後任のギタリストを探したが、上手くいかず、ついにギター無しのままの、いわゆるキーボード・トリオで活動していく決心をする事になる。この頃よりキースがザ・ナイスにおいて試み続けた、実験的かつ進歩的な音楽方程式が、後にEL&Pで開花する事になるのである。
実はザ・ナイスの2代目ギタリストとして、あのスティーブ・ハウの加入が決まりかけていたらしい。もし、それが実現していたら、プログレッブ・ロック界の構図は、大きく変わってしまっていたであろうし、キースの頭の中にキーボード・トリオと言う発想が生まれなかったかもしれない。そうなると、シンセサイザーもここまで発展していなかったであろうし・・・・、あーっ、想像するとぞっとする。何故なら、当時のキース自身が、「ギタリストの存在はロック・バンドには不可欠であり、ロック・ミュージックにおけるフロント楽器としての主役は、エレキ・ギターである。」と考えていたからである。ザ・ナイスの後任ギタリストが見つからなかったと言う結果は、プログレ界において、まさに災い転じて福となった事例である。
そして、その後キースはギターというロック・ミュージックの花形楽器に対し、物凄い対抗意識を持つようになる。だからこそ、他のロック・グループにおいての、ジャーマン・スープレックス・ホールド級の必殺技になっているエレキ・ギターの爆音が作り出すハイ・テンションに負けじと、ライブ・ステージで、あそこまで過激なパフォーマンスを繰り広げたのであろう。玉虫の羽で装飾したのではないかと思うような、キラキラ光る派手な衣装に身を包んだ彼は、オルガンの鍵盤の上に飛び乗ったり、オルガンを跳び越えたり、その裏側から弾いたり、蹴り倒したり、あげくの果ては鍵盤にナイフを突き刺したりもした。当時、「誰もキース・エマーソンの様には狂えない。」と言われていたが、その実、この上なくクールに計算された演出であったと私は分析している。そして、彼のそのパフォーマンスがあったうえでの、バンドメンバー全員の完璧に近い演奏をコンサート・ビデオ等で確認した時、やはり、EL&Pは最高のライブ・バンドであり、ロックの持つエンターテイメント性を最も理解し、それを極めようとした偉大なるグループであったと確信してしまう。
当時の自身の過激なステージを振り返り、キースが、「やりすぎだったね。でも楽しかったよ。」と、語った事があるらしい。私の独断だが、キースがステージ・パフォーマンスのお手本としたのは、ジミ・ヘンドリックスではないか?と思うのだが、どうだろう?
さて、キースの最大の功績は、シンセサイザーの魅力を世界中に知らしめ、その発展の立役者となった事である。彼こそが、それを扱う側の生き証人であり、最高の伝道師だった。70年代初頭より急速に進化し始めるシンセサイザーという楽器を、常に最先端のポジションで操り、その時点で可能な限りの魅力を引き出し、また製作者側にその後の課題を投げかけた。主にプレイヤーとして、そしてある時は、開発アドバイザーとして・・・・。
1970年に収録された、彼等のライブ映像において確認できるのだが、おそらく現在の若いミュージシャンの感覚からすると、まだ明らかに発展途上で、研究室での実験段階レベルの機能性しか持っていなかったムーグ・シンセサイザー(とにかく、でかい)を、使用する音色ごとに、せわしなくプラグを差し替え、つまみを微調整しながらそつなく演奏する姿は、カッコイイというより、「ご苦労様!」という感じであった。しかも、あの高度な楽曲の各セクションにおいてそれをやってのけるのだ。彼がシンセサイザーという無限の可能性を秘めた、音楽界の新たなる最強マシーンの宣伝広告塔になっていたのは事実であるし、彼がいなかったら、楽器メーカーもあそこまでシンセサイザーの開発を試みなかったかもしれない。
そういう訳で、シンセサイザーは、EL&Pの代名詞として捉えられている。だが、極初期のEL&Pにおいてキーボード・サウンドの比重を最も多く占めるのは、シンセサイザーではなく、オルガンと生ピアノであり、その研ぎ澄まされたプレイをふんだんに聴く事が出来るのは、私としては、うれしい限りである。キースは天才的なひらめきと計算で、バランス良くそれらの楽器の音を、楽曲の中で理想的に配置している。キースが奏でるオルガンは、パーカッシブで、時としてブルージーであり、攻撃的なロック魂にあふれている。また、バルトーク等の近代クラッシックとジャズからの影響を受け、そのどちらのニュアンスも程よく融合させた彼のピアノ・プレイは、幻想的で、聴く者の快感のツボを的確に刺激する。そして、要所要所で姿を現すシンセサイザーの画期的な音色が、当時のロック・シーンに新しい夜明けを告げていた。
キース・エマーソンが、たった十本の指で表現するフロント楽器としてのキーボード・ワークは、カール・パーマーのドラミングとグレッグ・レイクのベースラインと噛み合わさることにより、ギターレスのトリオというハンデを微塵も感じさせないオーケストレイションを生み出す事ができる。スタジオ盤ではもちろんの事、ライブにおいてもである。ちなみに、彼等のファースト・アルバムでは、ほとんどシンセの音を聴くことは出来ない。だがその分、キースのピアノの演奏能力と類まれなるセンスを思う存分堪能できるのだ。日本が世界に誇るジャズ・ピアニストである山下洋輔氏が、キースのピアノ・プレイを聴いて、「チック・コリアより上手いんじゃない?」と言ったとか・・・・。定かな情報では無いので、あしからず。
< E L & P の L >
ヴォーカル、ベース・ギター担当のグレッグ・レイクは、1948年11月10日、ハンプシャー州、ボーンマスに生まれた。ベースを、アコースティック・ギター、まれにエレキ・ギターに持ち替える事もある。あのスーパー・グループ、キング・クリムゾンで活動を共にする事になるロバート・フリップとは、少年時代に通っていたギター教室で出会っているそうだ。若くして音楽活動を始めたグレッグは、シェイム、シャイ・リズム、ゴッズといったグループを渡り歩き、その後キング・クリムゾン結成の際のオリジナル・メンバーとして、ベースとヴォーカルを担当する。ご存知のように、クリムゾンのファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』は、あのビートルズの『アビイ・ロード』を抑え、全英ヒット・チャートの第1位に君臨する事になる。しかし、グレッグはクリムゾンのセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』のレコーディング中に、キース・エマーソンらとEL&Pを結成しているので、彼がクリムゾンに在籍した期間は、1年と数ヶ月という事になる。彼が奏でるベース・フレーズは実に堅実であり、“キースが弾くキーボードの左手のリフとユニゾン”というパターンが多い。また、ピック奏法による硬い音色は、バンド・サウンドを実にタイトにまとめ上げている。リード・ボーカルを担当する関係もあり、それほど難解なフレーズを弾く事はなく、キースのキーボード・プレイとカールのドラミングの間で繰り広げられる、過激なまでの音の応酬の中にあって、複雑で難易度の高い楽曲が、混沌としてしまわぬ様に努めている姿勢をも感じ取れる。また、他の2人のメンバーがジャズ的アプローチを随所にちりばめるのに対し、彼の奏でるベース・ラインは、まさに“ロック”!EL&Pの醸し出すロック臭さは、グレッグの仕事によるところが大きかったのだ。尚、グレッグは、“ベースの音色をピアノの低音”に似せて設定していたそうで、キースの左手のパターンのユニゾンを奏でる事により、バンド・サウンドが分厚くなると言う点で、それは利にかなっていよう。
さて、彼のボーカルに関してであるが、彼の地声は決してロック的ではなく、どちらかと言うとカントリー・ウエスタンやフォーク・ソング向きのやや低めで渋さを供えた声質である。だからだろうか?彼の作る楽曲は、フォーク調の作品が多い。ファンタジックで、SF的ニュアンスの強いエマーソン主導によるEL&Pのアルバムの中で、突然姿を現すグレッグの牧歌的ナンバーに、言いようの無い違和感を覚えてしまうのは私だけだろうか?ファースト・アルバムのラスト・ナンバーであるラッキー・マンの後半部には、「これでもか!?」というぐらい派手に、キースのシンセ・サウンドが挿入されている。それは、そうしないとあの曲が本当にただのフォーク・ソングになってしまうからだろう。あのアルバム中たった2箇所の貴重なシンセサイザー導入部分が、そのラッキー・マンの後半なのである。ちなみに、シングル・カットされたラッキー・マンは、皮肉な事に?大ヒットした。
誤解なきよう補足しておくが、グレッグは、ロックンロール調の曲を少しシャウト気味に、実にかっこ良く歌いこなす事も出来るので、あしからず。
< E L & P の P >
ドラマーのカール・パーマーは、1951年3月20日、バーミンガム生まれである。と言う事は、EL&P結成時は、若干19歳だったのだから驚きだ。バーミンガム・スクール・オブ・ミュージックで打楽器を専攻し、クラッシック、ジャズ、現代音楽等、幅広いジャンルにおいて造詣を深めた彼は、若くして数々のグループを渡り歩く。やがて、全英ナンバー・ワン・ヒットを記録した「ファイアー」という曲を持ち駒とする、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンに参加し、彼等のアメリカ・ツアーにも同行している。その後、同グループのヴィンセント・クレイン(Key)と共に、アトミック・ルースターを結成し、しだいに彼のプレイに注目が集まるようになると、EL&P結成の際のドラマー・オーディションへお声が掛かる事になる。
彼のドラミングの特徴は、クラッシック・パーカッションとジャズ・ドラムの理論と技術に裏づけされた、驚異的なまでのスピードと音数の多さだ。そして、メロディー楽器的解釈のフレーズを多用し、リード・ドラムと呼んでもよいぐらいに、サウンドの前面に躍り出る。ギターレスのキーボード・トリオという、下手をすれば迫力に欠ける危険性を秘めたロック・ユニットにおいて、彼のパワフルかつダイナミック、それでいて粒の細かいドラミングは、そのハンデとなりがちな音の隙間を完璧に補っているのだ。また、蛸のそれと同じ本数生えているのではないか?と錯覚させてしまう手足のコンビネーション・プレイは、意外性と変化に富んでいて、聴く者を飽きさせず、バンド・アンサンブルを実にドラマティックな物に仕上げている。
そう、カールは堅実にビートを刻むロック・ドラマーと言うより、まさしくシンフォニー・オーケストラの打楽器奏者的感性でプレイしていて、楽曲のそれぞれのフレーズに合わせて、歌を唄うようにたたき出される彼のドラム・サウンドが、EL&Pの高度な曲を、よりハイレベルな域まで押し上げているのだ。
だが、時折顔をみせる彼のエイト・ビートは、スウィングしすぎで、どうもロック的ではない。彼のプレイの難と言えば、その部分であろう。彼が後に参加する事になるエイジアでは、ポップス色の濃い曲が主流だったため、彼のアクセントをずらした揺れすぎるビートにリスナーの多くは首を傾げ、「カールは下手になった」と嘆いたようだ。だが私は知っていた、“元々カール・パーマーは、エイト・ビートが苦手である。”と・・・・。
私の独断的解釈によると、EL&P時代のカール・パーマーは、ほとんどの曲(特に大曲)において、キース・エマーソンというプレイイング・コンダクターの意図するコンセプトに即した最高のプレイをする、優秀な打楽器奏者だったのだ。ちなみに、彼のエイト・ビートに関しても「あの揺れ方がカールのオリジナリィティーであり、魅力なのよ!(なぜか女口調)」と言う解釈もあるので、あしからず。
(ぴー)2005.6
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