プログレとハードロックの間を行き交う異色バンド
カール・パーマー(EL&P/ds)の経歴には必ず載っている、元アトミック・ルースターの記述。日本ではそちらの方でバンド名が有名なのだが、実際は1枚のアルバムのみの参加で、バンドのサウンド自体にはほとんど影響を及ぼしていない。
むしろ、その後加入してきたジョン・カン(g)によってアトミック・ルースターは名バンドとしての地位を確立するのである。
1969年、The Crazy World Of Arther Brownに在籍していたVincent Crane ヴィンセント・クレインはアメリカ・ツアー中にアーサー・ブラウン(vo)がドラッグにより精神に異常をきたし、病院へ収容されてしまったため、イギリスへ戻り新たにバンド結成を決意した。
アーサー・ブラウンはサイケデリック時代に奇怪なパフォーマンスで有名になった人物だが、バンドでは音楽的にも先進的な部分を持っていて、その鍵を握っていたのが、クラシックやジャズを経てきたキーボード奏者ヴィンセントだった。
そして、アルバムには未参加であったが、アメリカ・ツアー時のメンバーであったCarl Palmer カール・パーマー(ds)とヴォーカルの他、ギターやベース、フルートなどを自在に操る才人Nick Graham ニック・グラハム(b)と共にアトミック・ルースターを結成した。
翌70年にはファースト・アルバム「アトミック・ルースター登場」でデビューし、アルバムは全英49位、シングル「13日金曜日」もスマッシュ・ヒットとまずまずのスタートをきった。
基本的にはキーボード、ベース・ギター、ドラムというロックにしては変則的な楽器編成でも話題になった初期の彼らだが、キース・エマーソン(kb)のようなスター・プレイヤーがいるわけでもなく、やはり時代背景的にも、ギター無しではセールス的にきついものがあった。そこで、元アンドロメダの敏腕ギタリスト、John Du Cann ジョン・(デュ)・カン(g,vo)を迎えることにした。
ところが、パーマーはキース・エマーソン(元ナイス)とグレッグ・レイク(元キング・クリムゾン/b)が結成しようとしていたニュー・バンドのオーディションを受け合格すると、さっさと出ていってしまったのだ。(このバンドがEL&Pとなる)
代わりにPaul Hammond ポール・ハモンド(ds)を迎え、黄金期のメンバーが揃ったが、さらに直後グラハムも脱退してしまい、やむなくベーシスト不在のまま3人で同年セカンド・アルバムを作ることになった。
Vincent Crane ヴィンセント・クレイン/キーボード、ヴォーカル
John Du Cann ジョン・(デュ)・カン/ギター、ヴォーカル
Paul Hammond ポール・ハモンド/ドラムス
ファースト・アルバムではハードなプログレ・サウンドを聞かせた彼らであったが(あのメンバー編成では、そうならざるを得なかったのだが)、このセカンドでは一変、ヘヴィなギターを全面に出したサウンドへと転身した。
これが大当たりし、71年にはシングル「Tomorrow Night」が全英11位、「悪魔の答」(Devil's Answer)が全英2位(4位との記述もあり)の大ヒットを記録。一躍ヨーロッパでは名を知られるバンドとなる。
つづくサード・アルバムでは、ヴォーカリストに、Pete
French ピート・フレンチを迎え、よりバンドとしての骨組みを強化させると、アルバムも全英18位の成功を収め、いよいよ軌道に乗ってきた。
しかし、ヴィンセントの音楽感は、どうもこの売れた音とは違っていたようだ。以前からホーン・セクションなどを使うのが好きだった彼は、ソウルやファンキーな方向へとバンドのサウンドを押し進めたがった。そこで、ストレートなハードロック志向のカンと対立し、結局カンとハモンド、フレンチの3人は脱退してしまう。
カンとハモンドは脱退後、元クォターマスのジョン・グスタフスン(b)とハード・スタッフというトリオを結成し、思う存分ストレートなハードロックを演奏しているが、こちらはセールス的にパッとしなかった。(ただしかなりの名盤)
フレンチはティム・ボガート(b)とカーマイン・アピス(ds)の在籍していたカクタスへ途中加入していった。
もし、彼らがアトミック・ルースターに在籍したまま、もう1枚アルバムを出していれば、きっとユーライア・ヒープに匹敵するぐらい(音楽的にも近いものになっていたはず)の大物にはなっていただろうが非常に残念だ。
1人残されたヴィンセントの方は、新たなメンバーChris
Farlowクリス・ファーロウ(元コロシアム/vo)、Steve Boltonスティーヴ・ボルトン(g)、Bill Smithビル・スミス(b)、Rick Parnellリック・パネル(ds)を揃えバンドを続行。72年アルバム「メイド・イン・イングランド」をリリースした。
このアルバムは当時ジャケットがジーンズでできていて話題になったが、セールス的にはいまひとつであった。しかし、ジャズっぽいプログレ・サウンドで日本ではけっこう人気があり、彼らのベストにあげる人もいるほどだ。
73年には、ギターをJohnny Mandalaジョニー・マンデラに代え、アルバム「Nice and Greasy」もリリースするが、すでにバンドに往年の勢いはなく、ヴィンセントの方向性が一般受けしないことを証明しただけであった。それでもプログレ・ファンからは、このアルバムもいまだに評価が高い。
そして、ヴィンセントはこのアルバムを最後に、アトミック・ルースターを解散するのである。
一方ハード・スタッフを解散後、シン・リジィへ加入したり、ソロ・アルバムをレコーディング(当時リリースされず最近になって発売された)したりしていたカンは、70年代終わりにヴィンセントとハモンドに呼びかけ、アトミック・ルースター再結成をもくろんでいた。
そして、いくつかのレコード会社に打診すると、ちょうどちまたではNWOBHMの動きが活発になりつつあったことから、快い返事が貰え、大手のEMIと契約することができた。
79年再結成を果たした彼らは、まずライヴを中心に活動を始めるが、ハモンドが交通事故に遭いしばらくの休養を余儀なくされる。その間の代役の中には、あの大物ドラマー、ジンジャー・ベイカー(元クリーム)の姿もあったという。ニュー・アルバムのレコーディングにはハモンドの代わりにセッション・ドラマーのPreston
Heymanが起用され、この年アルバム「Atomic Rooater」が完成した。
この再結成後初のアルバムは、彼らの黄金期を思わせるヘヴィなサウンドであったが、一部ヘヴィメタ・チャートを賑わせただけで、全英チャートではまったくヒットしなかった。
その後、復帰したハモンドを加えて、シングル2曲をリリースするが、やはりヘヴィメタ・チャートで上位になっただけで、全英ではふるわず、EMIからの契約も切られてしまう。
これで意気消沈したカンは、バンドを脱退してしまうが、ヴィンセントは再びサウンドを変化させ、バンドを続行させようとした。
82年マイナー・レーベルに移籍し、ヴィンセントの古くからの友人であるデイヴ・ギルモア(ピンク・フロイド/g)らをゲストに迎え、アルバム「ヘッドライン・ニュース」をリリースした。
このアルバムでは、再びプログレ・サウンドに戻ったが、あまり上手いとは言えないヴィンセントのヴォーカルや中途半端なアレンジの曲、加えてギルモアのギターも効果的にフューチャーされておらず、コレクターズ・アイテムにしかならないような内容で、ほとんど話題にもならないままバンドは再び解体してしまった。
それから数年が経ち、88年には再びカンとヴィンセントがアトミック・ルースターを再結成させようと動き出したが、翌89年ヴィンセントの自殺によって、その計画ははかなく消えた。そして再びカンとのコラボレートを心待ちにしていたポール・ハモンドも、93年ドラッグの多量接種で静かにこの世を去っていった。
残されたカンは、現在Angel Air Recordの協力の下、もう2度と復活することはないアトミック・ルースターや、過去の自分の関わった音源を、まるで使命のように次々と復刻させている。アトミック・ルースターのコンピレーション盤にカン時代のものが多いのは、そのせいでもある。
アメリカで大きな成功を収めていない彼らは、世界的にはそれほどメジャーな存在ではないが、日本やイギリスにおいてはプログレ・ファンとハードロック・ファン双方に愛され続ける特殊な存在である。近年CDでも復刻された「メイド・イン・イングランド」のジーンズ・ジャケットは、そんなファンやレコード会社の熱意によって生まれたものに他ならない。これからも名バンドとして、アトミック・ルースターの名は永遠に語り継がれていくことだろう。(HINE)2001.8
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