EL&P バイオグラフィー Written by ぴー




1969年
11月 ニューヨークで行われたザ・ナイスとキング・クリムゾンのジョイント・コンサートで、キース・エマーソンとグレッグ・レイクが運命の出会いを果たし、キースの方からグレッグに、新バンド結成の話を持ちかける。以前より一緒にプレイしたいアーティストとして、ジミ・ヘンドリックスと共にキース・エマーソンの名前を挙げていたグレッグは、これを承諾。両思いの恋が実ったわけだ。
1970年
3月 ザ・ナイス解散

4月 カール・パーマーが、トニー・ストラットン=スミスの紹介で、キースとグレッグのニュー・グループのドラマー・オーディションを受け、当然採用決定。ここに伝説のスーパー・トリオが誕生する。グループ名は3人の名前の頭文字をとり、エマーソン、レイク&パーマーに決定。

8月 23日にプリマスのギルド・ホールにて初のギクを行い、その6日後の29日には、第3回ワイト島フェスティバルに出演。『展覧会の絵』、『ロンド』を演奏し大好評を博す。ちなみに共演者には、ジミ・ヘン、ザ・フー、テン・イヤーズ・アフター、そして何とジャズ界の帝王、マイルス・デイビスも名を列ねていた。

11月20日 記念すべきファースト・アルバム『エマーソン、レイク&パーマー』をリリースし、そのまま欧州ツアーを開始する。彼等のファースト・アルバムは、全英4位、全米18位を記録。

12月 ライシアム・シアターにおけるライブの模様を、ビデオ版『展覧会の絵』として収録、またドイツの音楽番組ビート・クラブに出演し、ナイフ・エッジの演奏シーンを収録。ビート・クラブでのキースとグレッグの衣装は、ビデオ版『展覧会の絵』に見る物と同じなので、2件の収録は日を近くして行われたのであろう。もしくは、当時は彼等のステージ衣装は1着(1種)しかなかったとか?
1971年
3月 全英ツアーを開始する。ライブ・アルバム『展覧会の絵』の音源となるニュー・キャッスル・シティー・ホールでのライブをレコーディング。ファースト・アルバム発表前から彼等が披露し、高い評価を得ていた『展覧会の絵』であるが、多数の海賊版が出回ってしまっていた為、その対策として正式にライブ・アルバムとしてレコーディングしたと言われている。
初のシングル『ラッキー・マン/ナイフ・エッジ』が発売される。

4月 アメリカ・ツアーを行う。

5月 セカンド・アルバム『タルカス』をリリース。全英1位に輝く。
ヨーロッパ・ツアー開始。

7月 再びアメリカ・ツアーをスタートさせる。

11月 3月にレコーディングした、あの『展覧会の絵』をサード・アルバムとしてリリース。

12月 イギリスのみのツアーを決行。
1972年
3月 またまた、アメリカ・ツアーを開始

4月 第1回プエルトリコ・ポップ・フェスティバルに出演。

6月 彼等の4枚目に当たるアルバム『トリロジー』をリリース。

7月 ついに、EL&Pが日本にやって来た! 22日後楽園球場にその勇士を現す。この日の前座を務めたのは、なんとポール・ロジャース率いるフリー。24日には甲子園球場でコンサートを行うが、ファンがステージに押し寄せ、コンサートは前半のみで中止となる。関西人恐るべし・・・・、失礼。

8月 4度目となるアメリカ・ツアー開始。

11月 イギリス国内ツアー開始。
1973年
1月 彼等のオリジナル・レーベル、マンティコアを設立。クリムゾンと決別したピート・シンフィールドを引き入れる。

11月 5度目のアメリカ・ツアー。
マンティコアより待望のアルバムをリリース。そのアルバムこそ、彼等の最高傑作としての呼び声が高い『恐怖の頭脳改革』である。
1974年
3月 ヨーロッパ・ツアー。

4月 あの伝説のカリフォルニア・ジャムに出演。

7月 ライブ・アルバム『レディース&ジェントルメン』をリリース。これは、3枚組みのアルバムであったが、イエスの『イエス・ソングス』に対抗したという噂もある。
1975年
9月 エマーソンがロンドン・フィルを従えて自作の『ピアノ協奏曲第一番』の録音を行なう。この頃から、もともと自己顕示欲の強かった3人のさらなる自己主張が始まる。
1977年
3月 アルバム『四部作』をリリース。このアルバムは、A面からC面までがメンバーそれぞれのソロ・アルバム仕立てになっていて、彼等のその後の歩みを暗示しているかのようであった。

5月 フル・オーケストラを同行させてのアメリカ・ツアーを行う。

11月 『作品第二番』がリリースされるが、これは『四部作』製作における捨て曲の寄せ集めではないか?と言われた。もちろん、このアルバムの為に創られた曲もあったのだが・・・・。
1978年
1月 長期北米ツアー開始。

11月 アルバム『ラブ・ビーチ』がリリースされる。実に5年ぶりとなる、メンバー3人だけによる演奏を収めたスタジオ盤という事で、発売を待ちに待ったファン達は、そのアルバム・ジャケットを見て、戸惑いを隠せなかった事であろう。そのアルバム・タイトルとメンズ・マガジンの表紙のようなジャケット・デザインを知り、サウンドを聴く前に、彼らに見切りを付けたファンも多かったとか。そして、より熱心な信者達は、そのサウンドを耳にしてしまい、EL&Pの断末魔を確認する事になる。
1979年
11月 77年のツアーの演奏を抜粋したライブ・アルバム『イン・コンサート』をリリース。このアルバムの音源が77年収録の物だという事は、78年の『ラブ・ビーチ』が、第一期EL&Pによる最後の録音という事になる。
1980年
2月 EL&P解散。

3月 『ベスト・オブ・EL&P』リリース。
1985年
2月 キース・エマーソン(Key)、グレッグ・レイク(B)、そしてコージー・パウエル(Dr)というトリオで、エマーソン、レイク&パウエルを結成。文字通り、新生EL&P誕生がと思いきや、参加出来なかったカール・パーマーからのクレームによりEL&Pと略して表記する事を禁じられた。
1986年
6月 アルバム『エマーソン、レイク&パウエル』をリリース。私個人的には好きなサウンドであったが、このユニットは、デビューアルバム一枚を残しスピード解散してしまう。
1987年
3月 今度は、エマーソンとパーマーが、グレッグ・レイク抜きで、若き才人ロバート・ベリーを迎え、3(スリー)を結成。
1988年
3月 3(スリー)のアルバム『スリー・トゥー・ザ・パワー』発売。結局こちらもインスタント・バンドに終わる。

5月 エマーソンとパーマーが、アトランティック・レコードの創設40周年記念コンサートにて、庶民のファンファーレ等のEL&Pナンバーをプレイした。
1991年
5月 EL&Pのオリジナル・メンバー3人がロンドンに集結しリハを行う。事実上のEL&P再結成である。

9月 再結成EL&P、ついにレコーディング開始。
1992年
4月 待望のアルバム『ブラック・ムーン』をリリース。グループとしてのサウンドが、どことなチグハグでぎこちない。

7月 彼等のアトランティック・レコード在籍期の演奏をセレクトした2枚組みCD、『アトランティツク・イヤーズ』をリリース。

ワールド・ツアーを行なう。
1993年
2月 92年10月2日と3日のロンドン公演の模様を収めたライブ・アルバム、『ライブ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール』をリリース。

12月 展覧会の絵のスタジオ録音を含む4枚組みCDボックス『リターン・オブ・マンティコア』をリリース。

79年にリリースされた77年ツアーのライブ・アルバム『イン・コンサート』に同ツアーの未発表音源を7曲プラスした『ワークス・ライブ』を発表。これで、かつての選曲に対する消化不良は、ほぼ解消された。
1994年
アルバム『イン・ザ・ホット・シート』をリリース。
※その後も、スーパー・グループの宿命で、未発表ライブやベスト盤がリリースされ続けているようだが、書ききれないので、このへんで筆?を置く事にする。