80年代最後のスーパーグループ
バッド・イングリッシュについて語るとき、どうしても避けて通れないのが、彼らのプロフィールなのだが、ドラムのディーン以外は元ジャーニーと元ベイビーズという2大スター・バンドに在籍していたのでは当然のことかもしれない。
ただし、アメリカでのジャーニーとベイビーズの知名度の差は主演俳優とチョイ役ぐらい違う。当然アメリカでは、ジャーニーにソロで一旗揚げたジョン・ウェイト(vo)が入るぐらいの感覚で受け取られていたはずだ。
日本においても、当時はやはりジャーニーの再編成的な見方がされていて、CDのライナーなどを読むと、いちいちこの部分はジャーニーっぽいとか、ジャーニーの歴史が長々と書かれていたりする。
だが、それはまったくの見当違いだ。サウンドを聞いた限り、これはベイビーズの再編成とみるべきであろう。言わば、ベイビーズの再結成の話題づくりのひとつとして、ニール・ショーン(g)という大スターを利用したものだ。
実際もともとの構想は、ジョナサン(key)がジョン・ウェイトたちにベイビーズの再結成話を持ちかけたものであり、ニールは後から誘われ、ディーンを入れることを条件に加わったという経緯がある。だが、ニールほどの大物を迎え、ベイビーズという名前ではさすがに気が引けたのか、彼らはバッド・イングリッシュと名乗ることになった。バッド・イングリッシュとは、ビリヤードでキューをタマに当て損なった時に発する言葉だそうだ。
話を戻すと、確かにベイビーズ後期のサウンドはすばらしく、アメリカでブレイクしなかったのは不思議なぐらいだった。ただ何か1つ強烈なインパクトやカリスマ性に欠けていただけなのだろう。ジョン・ウェイト達の思惑では、ニールを入れることで、そのカリスマ性と話題性を手に入れ、プロモーションも容易になると考えていたのではないだろうか?ようするにニールはお飾りであって、あくまでサウンドはベイビーズの延長線上のもの。そのままで充分いけるのだという自信があったのだろう。
そして、彼らの思惑通り、バッド・イングリッシュのファースト・アルバムは、世界各地で大ヒットを記録し、5枚ものシングル・カットの内、「When
I See You Smile」は全米No.1に輝き、他2曲もトップ40入りという大成功を収め、ベイビーズで果たせなかった夢を実現させたのだ。
John Waite ジョン・ウェイト/リード・ヴォーカル
Neal Schon ニール・ショーン/ギター、ヴォーカル
Jonathan Cain ジョナサン・ケイン/キーボード、ヴォーカル
Ricky Phillips リッキー・フィリップス/ベース・ギター、ヴォーカル
Deen Castronovo ディーン・カストロノヴォ/ドラムス、ヴォーカル
2曲のトップ20ヒットを持ちながら、今ひとつパッとしなかったベイビーズは、ジョナサン・ケインがジャーニーへ引き抜かれる形で1981年に解散した。ソロに転向したヴォーカルのジョン・ウェイトは、84年にシングル「ミッシング・ユー」で全米No.1の大成功を収めるのだが、これはちょうどその頃、売れない実力派・ロック・シンガー&ロック・バンドにニュー・ウェイヴ的なアレンジを施して売り込む手法が流行しており、そのブームにのってヒットした一発屋的な要素が強かったと言えよう(もちろん、歌唱力はすばらしいのだが)。同時期に同じような手法で活躍したサミー・ヘイガー(vo)、ビリー・アイドル(vo)、コリー・ハート(vo)やスターシップ、REOスピードワゴン、ハート等と同様、その後一時はパッタリと話題が途切れる。
一方、ジョナサンの加入により、まさに絶頂期を迎えていたジャーニーも、1986年のアルバムを最後に活動を停止。ジョナサンとニール以外のメンバーはすべて脱退し、彼ら2人もまたソロ活動を始めるありさまであった。(この時点ではまだ正式に解散の表明はされていなかった)
それから3年後の89年、まずジョナサンを中心にしたベイビーズの再結成話が噂されるようになる。しかし、売れなくなったミュージシャン達が再び終結し再結成するこの手の話はいくらでもあり、特に大きな話題になるわけでもなかった。
ところが、これにニール・ショーンが加わるという情報が流れだした頃から状況は一変、80年代最後の大物グループとして、大きな反響をよぶとともに周囲の期待も高まった。
1人どちらのバンドにも在籍していなかったディーン(元ワイルド・ドッグ)は、ニールのソロ・アルバムへ参加したことがきっかけで意気投合し、前にも触れたように、ニールの強力な要請によりバッドイングリッシュへの加入が決定した。
ファースト・アルバムは予想外に早く仕上がり、同年中にリリースされた。全米No.1シングルとなった「When I See You
Smile」はシカゴのNo.1ヒット曲「Look Away」やホイットニー・ヒューストン、セリーヌ・ディオンらの作曲家として知られるD・Warrenの曲だが、他の曲は、ほとんどがジョナサンとジョン・ウェイトの共作で、曲自体は再結成ベイビーズ用にと、かなり前から出来上がっていたと思われる。
このファースト・アルバムを聞く限りは、AORっぽいという以外、ジャーニー色はほとんど感じらず、ベイビーズ後期に近いポップなサウンドだ。だが、ベイビーズの時より、ジョン・ウェイトの円熟したヴォーカルが素晴らしく、艶と色気を増している。特にバラードを唄わせた時のウェイトの声は、心に染みいるような深い感動を与える。
また、アルバムではニールの曲がほとんどなく、ギター・ソロもかなりコンパクトにまとめられている。このへんの事情について、ジョン・ウェイトはインタビューで、スタジオとライブでは分けて考えていて、ライヴでは各パートのソロなども存分にやってもらうというような旨の事を答えていたが、本当のところは、ニールにあまり派手に弾きまくらないようプレッシャーをかけていたらしい。
彼らはその後、まだ全米で大ヒットをつづける最中の同86年中に来日も果たしている。
ファースト・アルバムの大成功にも関わらず、ニールの心中は複雑で、この後しだいに不満を募らせてゆくことになる。バッド・イングリッシュの成功は、ほとんどジョン・ウェイトの歌唱力とジョナサンの作曲能力の高さによるものであったからだ。加えて、他のメンバー達からはギターを前面に出すことを反対され、ストレスは溜まる一方であったのだろう。
89年にセカンド・アルバム「バックラッシュ」のレコーディングが終わったころには、ついにストレスがピークに達し、ディーンを連れて脱退してしまう。そして、このアルバムがリリースされた頃には、もうハードラインというバンドを結成し、活動を始めていたのだ。
このセカンド・アルバムは、ツェッペリンのエンジニアやUFO、ハート、ヨーロッパ、シカゴ、バッド・カンパニー、サヴァイバーなどのプロデュースで知られる敏腕プロデューサーのロン・ネヴィソンを迎え、少しジャーニー的な香りも漂う力作であったが、シングル・ヒットに恵まれず、セールス的にもいまひとつだった。
そのままバンドは解散。スーパー・グループの宿命なのか、ロック史上におけるこの手のバンドの例に漏れず、やはり短命に終わってしまった。
その後、ジョン・ウェイトは再びソロとなるが、目立った成功は収めていない。ジョナサンはハードライン解散後のニールと合流。ジャーニーを再結成してまたまた大成功を収めている。リッキー・フィリップスは、カヴァーデイル・ペイジのプロジェクトに参加するが、まもなくこのプロジェクト自体が崩壊し、元TOTOのヴォーカリスト、ボビー・キンボールやファーギー・フレデリクセンなどと共に活動していたが、近頃スティクスへ加入したという情報も入ってきている。ディーンは再結成ジャーニーから脱退したスティーヴ・スミスの後釜として、現在もニールの片腕として大活躍している。(HINE)2005.5更新
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