COREY HART コリー・ハート


ひたむきな情熱を胸に、心を唄いつづける素朴なカナディアン・ロッカー

日本で彼の大ヒット曲「サングラス・アット・ナイト」が、FMで流れ始めたときの事はよく覚えている。
最初にイントロを聞いたとき、「あ〜またユーリズミックスの新曲かな?」と勘違いしたが(^_^; 声を聞くなり、そのハスキーヴォイスに「おっ、なかなかいいな〜」と思わずその曲に聞き入ってしまった。そして途中から突然ディストーション(音を歪ませるエフェクター)の効いたギター・カッティングが入ってくると、それが「うわっ、かっこいい〜〜!」に変わっていた。
しかし、当時アメリカのマーケットでは、ポップなサウンドでロック・シンガー達を売り込むやり方が蔓延していて、ビリー・アイドル、ジョン・ウェイト、サミー・ヘイガー、そしてコリーの先輩格であるブライアン・アダムスらが使い捨てのように次々と現れては消えていった。コリーもそんな中の1人だろうぐらいにしか考えていなかった。(もちろん例にあげた人達は、それぞれに真の実力を持ったシンガー達で、後々にはまた自らの力で這い上がり活躍した)
だがコリーの場合は、その後大ヒットしたバラード曲「ネヴァー・サレンダー」、「好きにならずにいられない」で少しづつ印象を変えながら、派手さはないものの着実にマイペースな活動を続けていった。
どのアルバムを聴いても、ひたむきに心を唄いつづけるコリーの姿勢は一貫している。逆に言えば、それが新鮮なものを常に求める音楽業界の中では飽きられ、しだいにプロモーションさえしてもらえないという状況を作り上げてしまったとも言えるのだが・・・。

よくブライアン・アダムスの弟分的扱いをされるコリーだが、それは、同じカナダ出身ということと、ブライアンよりはちょっと控えめなハスキー・ヴォイスを持っていることからくるのだろう。しかし、実際にはある意味正反対とも思える音楽性を持っていて、ブライアンが自分のパワーと情熱を全身全霊で外に発散させるタイプなのに対し、コリーは内に秘めたパワーと情熱を切々と語るタイプだ。ともすれば一見クールにも見えるが、彼はとてもシャイで温かい心の持ち主。それは彼の作る歌を聴けば自然と分かるはずだ。

1962年5月31日、5人兄弟の末っ子としてモントリオールで生を受けたコリーは、幼少の頃は父親の仕事の関係で、イタリア、メキシコを転々とした。
おかげでフランス語、英語、イタリア語、スペイン語を自由に使い分けられるという特技は身につけたが、友達ができず、さらに11歳で両親が離婚すると、モントリオールへ戻ってくるものの、すでに心を開かぬ内向的な性格の少年になっていたようだ。
しかし、14歳の時に初めて買ってきたシングル盤、ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」との出逢いが、コリーをロック・シンガーの道へと向かわせることになる。
その後、キーボードと唄、作曲もこなすようになったコリーは、デモテープを作って売り込みを図るが国内ではまったく相手にされず、活路を見いだすべく、18歳の時に単独で来日し、ヤマハ世界音楽祭のカナダ代表として武道館のステージに上がった。1980年のことである。
結果は予選落ちで、失意のうちに終わってしまったが、この時のコリーを見ていた関係者から後にEMIを紹介して貰うこととなる。そしてこの時コリーは、いつか必ずこのステージへ舞戻り、自分のライブで客席を埋めてやろうと心に誓うのだった。
この後アメリカへ渡ったコリーは、デモテープを持って方々へ回ったが、ここでもまるで相手にされなかった。
ところが、カナダに戻り83年、地元のアクエリアス・レコードとの契約に成功。さっそく同年暮れにファースト・アルバム「ファースト・オフェンス」で国内デビューを果たすことになる。
ここからのシングル「サングラス・アット・ナイト」は瞬く間にヒットチャートを駆け上り、ついにはアメリカでも大手のEMIから翌84年に発売されることとなった。そして全米でも7位の大ヒットを記録。すでに大ヒットを連発していたブライアン・アダムスの弟分として一躍有名になるのだった。
ちなみにこのファーストアルバムにはエリック・クラプトンがドブロ・ギター(ブルースでよく使う反響音の大きいアコースティック・ギターで、よくスライド・ギターと組み合わせて使う)で参加している。どういう経緯で出逢ったのかは定かでないが、これまでも何人もの大型新人発掘関わってきたクラプトンのこと、すでに期待のロック・シンガーとして注目していたのは容易に想像が付く。最後のバラード曲でクラプトンのソロが聞ける。
このファーストアルバムからは、「とどかぬ想い」(It Ain't Enough)も全米16位のヒットを記録し、それまでの苦労が嘘のように順調なスタートを切ることができた。
つづく85年発表のセカンド・アルバム「ボーイ・イン・ザ・ボックス」からは、「ネバー・サレンダー」が全米3位となる大ヒットを記録。このシングル、カナダではなんと7週連続1位というすごい記録をうち立てている。このアルバムからは他にも「ボーイ・イン・ザ・ボックス」「愛こそ証」(A Little Love)のヒットが生まれ、すでに大物の風格をも漂わせていた。尚、この年本国カナダのグラミー賞にあたるジュノー賞を「ネバー・サレンダー」で受賞している。
また、初来日も果たしたが、この時は喉の調子が悪かったらしく、思うように唄えなかったようだ。
さらに翌86年には、彼の最高傑作と名高きサード・アルバム「フィールズ・オブ・ファイア」をリリース。少しバラードが多くなり、落ち着いた雰囲気をも感じさせるこのアルバムには、ヒットした「アイ・アム・バイ・ユア・サイド」やエルビス・プレスリーのカヴァー・ソング「好きにならずにいられない」(Can't Help Falling In Love)の他、「テイク・マイ・ハート」「ゴーイング・ホーム」といった名曲も収められ、それまでで一番“コリー自身”を表現できた内容になっていた。
ここまで順調な活動をしてきたコリーであったが、ここから歯車が狂いだしたのだ・・・。

セールスよりも正直な心を選んだ、孤高のロックシンガー

87年には2度目の来日。翌88年には、それまでになく充実した環境下で、時間もたっぷりかけたアルバム「ヤング・マン・ランニン」をリリースした。このアルバムはコリー自身にとっても最大の自信作で、曲、内容ともに本当にすばらしい!
しかし、あろうことか、発表の時期にちょうどEMIアメリカとマンハッタン・レコードが統合され、その会社内部のゴタゴタに巻き込まれ、ほとんどサポートを受けられなかったのだ。さらにこのアルバムからマネージメント契約をした大物マネージャー、フレディ・ディマンと日本へのボーナス・トラックのことでもめ、喧嘩別れしたことも悪い方に作用した。(コリーは大の日本びいきでも知られ、後日来日記念ミニ・アルバム「フォー・ジャパン・オンリー」までリリースしている)
また悪いことに、このアルバムには「サングラス・アット・ナイト」のようなシングル狙いの曲がなく、アルバム全体で聴かせるような構成になっているため、宣伝なしでその魅力を伝えることは難しかった。結果は無惨にもまったくヒットせずに終わってしまった。
力説するが、このアルバムは本当にいい!個人的にはコリーの最高傑作アルバムだと思うくらいだ。
そして、この年の3度目の来日では、彼の夢であった東京武道館のステージを満員のファンで埋るのだが、この後のカナダ本国でのツアーを突然キャンセル。その間彼は自分の作品や取り組み方について自問自答を繰り返していたのだという。自信作「ヤング・マン・ランニン」が売れなかったショックがデリケートな彼の心を突き刺していたのであろう。
90年にはそういった迷いや憤りをパワーに変えたアルバム「BANG!」をリリースし、心機一転を図った。
しかし、この時またもやEMI社内の再編があり、満足なサポートは受けられなかった。もちろん、このアルバムも一切手抜きはなし。少し内容がヘヴィにはなっているものの、今までのアルバムと比べても何ら遜色はない。結果このアルバムも成功するにはいたらなかったが、この時のインタビューでコリーはこう語っている。「結果を気にしないといったら嘘になるけど、ヒットするかしないかなんて、結局は小さなことだと思う。問題は自分が何をどう歌いたいかなんだ。……自分に対して精一杯正直に生きて、それで人も一緒に楽しんでくれたらそれでいいんだよ」
この言葉どおり、サイアー・レコードに移籍して91年に(日本では92年)ワーナーから出されたアルバム「アティテュード・アンド・ヴァーチュー」では、それまでになく伸びやかで自由に歌うコリーの姿があった。なんと裏ジャケットの写真には、珍しく笑顔のコリーが写っている。また、このアルバムにはゲストとして、テレンス・トレント・ダービーやガンズ・アンド・ローゼズのベーシスト、ダフ・マッケイガンまで参加し、改めてコリーを応援する信望者が多いことに驚かされた。
この後、一時音楽界から遠ざかり、離婚も経験したが、96年には「Corey Hart」で見事カンバック。変わらぬ歌声を披露した。そして97年には、セリーヌ・デュオンの大出世作「レッツ・トーク・アバウト・ラヴ」(映画タイタニックのテーマ収録)に2曲をプレゼントし、キーボードとバック・ヴォーカルで参加もしている。
さらに98年にはカナダのみで自分のアルバム「Jade」を発表し、ジュノー賞にノミネートされたが、残念ながら日本発売はされなかった。(このアルバムのジャケット写真は前の奥さんが撮ったものとか)
最近では99年からセリーヌ・デュオンのコンサートに同行したあと、2000年にめでたく再婚。ただいまニュー・アルバムの準備中とか。
たとえヒットチャートにあがることがなくてもいい。いつまでもそのままのコリーでいて欲しいと願う。(HINE)
2005.5更新




First Offense
EMI/東芝EMI

Boy In The Box
EMI/東芝EMI

Fields Of Fire
EMI/東芝EMI

Young Man Running
EMI/東芝EMI

ディスコ・グラフィー

1984年 First Offense(ファースト・オフェンス)*米では84年リリースのファースト。クラプトンも参加
1985年 Boy In The Box(ボーイ・イン・ザ・ボックス)*「ネバー・サレンダー」がカナダで7週間連続1位、全米でも3位の大ヒット
1986年 Fields Of Fire(フィールズ・オブ・ファイア)*「好きにならずにいられない」が大ヒット。ファンの間では最高傑作の声が高い
1988年 Young Man Running(ヤング・マン・ランニング)*カリブ海まで行って録音された自信作だったが、派手さが無くなり低迷
1988年 Spot You In A Coalmine〜For Japan Only(フォー・ジャパン・オンリー)*未発表テイク4曲入りミニ・アルバム
1989年 Sunglasses At Night *いかにも怪しそうなジャケット。中身も「サングラス・アット・ナイト」しかヒット曲のないベスト盤(?)
1990年 Bang!(Bang!)*レコード会社とのトラブルを抱えたまま、内面や心情を唄にぶつけた力作。日本先行発売
1992年 Attitude & Virtue(アティテュード・アンド・ヴァーチュー)*このアルバムを発表後に活動停止
1992年 The Singles(ザ・シングルス〜好きにならずにいられない)*往年のヒット曲を網羅したお薦めベスト盤
1996年 Corey Hart 
*離婚や再婚など、さまざまな経験を経て久しぶりにカンバック。日本発売は98年になってからのこと
1998年 Jade 
*カナダのみで発売された最新作。日本発売予定はなし
1998年 Best Of Corey Hart *カナダ本国で発売されたベスト盤



Bang!
EMI/東芝EMI

Attitude & Virtue
Sire/Warner

Corey Hart
Epic/Sony

Jade
Columbia