STYX スティクス

■アメリカン・プログレのリード・オフ・マンたち

 同時期にアメリカン・プログレと称されながら成功を収めたボストンジャーニーカンサスより、もっと古くからアメリカン・ロックの中にプログレ的なテイストを取り入れようとしていたのがスティクスだ。
 スティクスの前身は、1963年にジョンとチャック・パノッゾ兄弟らが近所の遊び仲間と結成したトレイドウィンズというバンドだった。翌64年には、このバンドへ近所に越して来たデニス・デ・ヤングが加入。68年にはジョン・クルリュウスキー、70年にはジェイムス・ヤングも迎え入れ、その時点でバンド名をスティクスと改名している。Styxとは、ギリシャ神話の「よみの国の川(三途の川)」という意味で、当初から彼らがプログレ的な感覚を持っていたことも伺わせる。
オリジナル・メンバーは、
Denis De Young デニス・デ・ヤング/ヴォーカル、キーボード
Chuck Panozzo チャック・パノッゾ/ベース・ギター
John Panozzo ジョン・パノッゾ/ドラムス
John Curulewski ジョン・クルリュウスキー/ギター
James Young ジェイムス・ヤング(JY)/ギター、ヴォーカル

 71年、デモ用のアルバムを制作してRCA傘下のウッデン・ニッケル・レーベルと契約した彼らは、翌72年にはアルバム「Styx」でレコードデビューを果たした。このファースト・アルバムは、シングル・ヒットこそ米82位の「Best Things」のみだったものの、初っぱなから13分以上ある組曲を収録するなど、早くもプログレ的な要素をちりばめ、評価はかなり高かった。しかしながら、メンバーのオリジナル曲はジェイムスの単独が1曲とジェイムス&デニスの共作が2曲と、全9曲中3曲しかなく、まだまだバンドとしての方向性は定まっていなかった。
 73年にはセカンド・アルバム「レディ(Styx II)」を発表。一聴して音に厚みが出て、彼ら独特のポップなセンスも出てきたことが分かる。曲もバッハの「リトル・フーガ」を除けば全曲メンバーのオリジナル。プログレ的な雰囲気もいっそう強めてはいるが、デニスのクラシカルな方向性とクルリュウスキーのサイケっぽい方向性(これはこれでなかなかいいが)がどうもかみ合っていないような印象もある。
 矢継ぎ早に同年サード・アルバム「サーペント・ライジング」をリリース。ジャケットは、ぐっとプログレっぽくなったが、中身は1曲1曲をコンパクトにし、よりポップな方向へ持っていこうとする意向が見え隠れする。だが、クルリュウスキーの自由奔放な曲作り(決して悪くはないのだが)だけが、そのバンド全体の意志に反し、統一感を今ひとつ欠いたものにしてしまっている。アルバムタイトルでもある「サーペント・イズ・ライジング」という曲は、クルリュウスキーのペンによるかなりかっこいいナンバーだが、後のスティクスのライト感覚からはほど遠い、ブリティッシュ系のダーク&ヘヴィなサウンドなのだ(個人的にはかなり好き)。また、このアルバムは初めてバンド自らがプロデュースにも関わり、192位ながら初の全米チャート・インも果たしている。
 74年には、ほぼ前作からのキープコンセプトで作られたアルバム「ミラクルズ」を発表。特筆すべきは、ここでジェイムスの曲作りの才能が一気に開花したこと。このアルバムでは共作を入れて実に10曲中5曲を作曲し、そのどれもがそれまでのようなハード一辺倒ではなく、ポップ性もある良い曲ばかりなのだ。チャート・アクションでも全米154位と、着実ながら前作を上回る結果を残している。
 ここで彼らにとっての転機が訪れる。この74年、セカンド・アルバムに入っていた「憧れのレディ」をシングルで再リリースしたところ、じりじりと3ヶ月かけてチャートを上昇し、翌年になって全米6位に達する大ヒットとなったのだ。それと共に、この曲が入っていたセカンド・アルバムも20位まで上がるヒットを記録していた。
 この大ヒットを契機に、75年それまで所属していたウッデン・ニッケルでの扱いを不服としてA&Mへ移籍した彼らは、さっそく同年アルバム「分岐点」をリリースした。
 おそらくは「レディ」の大ヒットで発言力を増したデニス主導のもと制作されたこのアルバムでは、プロデュースもすべて自らがこなし、非常に統一感のとれた、ポップで多彩な、これぞスティクス・サウンドというものに仕上がっている。コンセプチュアルでどこかプログレッシヴ、だが分かりやすくライト感覚というスティクス独特のサウンドはここで完成されたと言ってもよい。文字どおりスティクスの「分岐点」となるアルバムだろう。シングルでは「ローレライ」が27位
のヒットを記録、アルバム自体も58位まで上昇し、デニスがさらに自信を深めたのは想像のつくところだ。ブルースロックやブリティッシュ・ハードの影響を引きずるクルリュウスキーからすれば、居心地が悪くなってしまったのだろう。彼はこのアルバム発表直後に脱退。替わって元MS FunkのTommy Shawトミー・ショウ(vo,g)が加入した。余談だが、トミーと入れ替わりにMS Funkに入ったのは、後のTOTO2代目ヴォーカリスト、ファーギー・フレデリクセンであったという。話を戻すと、スティクスのサウンド自体はこの時点ですでに出来上がっていたので、スティクスとしてのその後の成功は、もしここでトミーへの交代がなかったとしても、ある程度予測できたが、全米No.1になるような大成功を収めるまでになり得たのは、やはりトミーの柔軟で先進的なセンスがあったからに他ならない。その後トミーは、デニス、ジェイムスと共に、スティクスの中核として重要な役割を担うことになる。そしてもう1つスティクスの飛躍にとって重要なキーポイントになったのは、6人目のスティクスと言っても過言ではない働きをするDerek Suttonデレク・サットンがマネージャーとして契約したことだろう。彼はイエス、プロコル・ハルム、ジェスロ・タルブラック・サバスなどのアメリカン・マネージャーをしていた人で、マネージメント・オフィスも持たずに孤軍奮闘していたスティクスを世界規模で活躍できるアリーナ級バンドへと育て上げていった。

■アメリカンロックの頂点へ

 76年にリリースしたアルバム「クリスタル・ボール」では、早くもトミー・ショウがコンポーザー&ヴォーカリストとしての手腕を発揮し、デニスのプログレやソフト&メロウ・サウンド、ジェイムスのハード・サウンド、トミーのフォーク&カントリーやファンク・サウンド、三者三様の個性を持つ三頭体制が確立された。ここからは「マドモアゼル」(全米36位)のスマッシュヒットも生まれたが、その後もコンセプチュアルなアルバム作りをするスティクスとしての体制は崩さず、それぞれの個性をデニスがうまく包み込むような形でスティクスのカラーを保っていった。
 そして、いよいよスティクスの人気が爆発する時がきた。77年に発表したアルバム「グランド・イリュージョン(大いなる幻影)」では、大ヒットシングル(全米8位)となったデニスの「永遠への航海(Come Sail Away)」の他、トミー初のヒット曲(全米29位)「怒れ!若者(Fooling Yourself)」やジェイムスの曲でライヴではお馴染みの「ミス・アメリカ」など名曲が目白押し、アルバムは全米6位の大ヒットを記録した。この頃ちょうど、遅れて登場したカンサスやボストン、ジャーニーたちも大ヒットを連発するようになり、やっと時代が彼らに追いついてきたという感じだった。当時他のアメリカン・プログレ系バンドたちの成功と比較される事について、トミーは「僕が入る前から今のサウンドは基本的に同じだった。僕たちよりずっと新しいカンサスやボストンと比較するなんておかしいよ」と語っている。
 勢いづく彼らは、78年リリースの次作「ピーシズ・オブ・エイト」でも、「ブルー・カラー・マン」(全米21位)、「シング・フォー・ザ・デイ」(全米41位)、「レネゲイト」(全米16位)とヒットを連発。しかもそのいずれもがトミーの曲ということで、完全にトミーはスティクスのもう1つの顔として一般的にも認知された。アルバムも前作同様全米6位の大成功を収めプラチナディスクを獲得、ついにライヴでもヘッドライナーをつとめるほどに成長していった。
 さらに翌79年リリースのアルバム「コーナーストーン」では、デニスの曲で第1弾シングルの「ベイブ」が全米No.1に輝き、アルバムも全米2位という大成功をいとも簡単に成し遂げてしまった。ところがこのアルバム、サウンド的にはプログレ色がほとんどなくなり、コンセプトも曖昧でそれまでのスティクスらしからぬ、ただのポップ・ロック・アルバムと化していた。おそらく急速にポップ化する時代の波にほんろうされたのだろう。
 だが彼らは、こういった周囲の音楽シーン事情とスティクスとしての個性を共有させることにも成功する。スティクス結成10年目の節目である80年に、ポップでありながらとても分かりやすいコンセプト・アルバム「パラダイス・シアター」をリリースし、ついに念願のアルバムチャート全米No.1を獲得。シングルでも、テーマ曲であるデニスの「ザ・ベスト・オブ・タイムズ」(全米3位)、トミー初のベスト10入りシングル(9位)「時は流れて」が大ヒットを記録し、まさに絶頂の時を迎える。
 ここで彼らは、これまで1年ごとに発表してきたニュー・アルバムも小休止し、大規模なツアーに明け暮れる。82年には初来日公演も果たし、その後「どもありがとう〜ミスターロボット♪」と大胆に日本語をメインフレーズに使った曲などをフューチャーしたアルバム「ミスター・ロボット(Kiroy Was Here)」を83年にリリース。全米3位まで上昇したこのアルバムからはシングル「ミスター・ロボット」(全米3位)、「ドント・レット・イット・エンド」(全米6位)の大ヒットも生み、当然の事ながら、それまでアメリカに比べると今ひとつ人気がパッとしていなかった日本でも大ブレイクした。連日TVコマーシャルでも「ミスター・ロボット」が流れ、スティクスは一気に知名度を上げた。
 ところが、「ベイブ」の大ヒット以来シングル・ヒット狙いのソフト・ポップ・ソングばかりを作るデニスと、もっとスケールの大きなロック・アルバムを作りたいとするトミーの間で意見が対立。結局デニスはそのソフト路線をさらに押し進めたソロ・アルバム「デザート・ムーン」を84年にリリース。トミーも同年ソロ・アルバム「ガール・ウィズ・ガン」をリリース(こちらはハード路線)し、そのままスティクスとしての活動は休止してしまった。その後86年にはジェイムスまでソロ・アルバムをリリースし、スティクスの存在はすでに消滅していることを知らされた。
 それからしばらくは、3人とも地道にソロ・アルバムをリリースするも、目立った活躍はなく沈黙を保っていたが、90年になってトミーが突然テッド・ニュージェント(g)やジャック・ブレイズ(元ナイトレンジャー/b)らと共にダム・ヤンキーズを結成し、そのファースト・アルバム(全米13位)とシングル「ハイ・イナフ」(全米3位)を大ヒットさせた。するとデニスとジェイムスもトミーの代わりに元ハマー(ヤン・ハマーのバンド)の
Glen Burtnikグレン・バートニック(g,vo)を入れてスティクスを再結成させ、同年暮れにはアルバム「エッジ・オブ・センチュリー」をリリース。ここからはシングル「ショウ・ミー・ザ・ウェイ」が全米3位となる大ヒットを記録したが、何故かその後彼らは再び長い沈黙に入ってしまう。
 トミーの方はダム・ヤンキーズで2枚のアルバムを出した後、テッド・ニュージェント脱退を受けてそのままブレイズとショウ&ブレイズというバンド名で活動し、1枚のみだがアルバムも残している。
 そして96年、今度はトミーも含んだ全盛期のメンバーが揃ってのスティクス再結成が話題を呼んだ。しかし、このメンバーでツアーに出ようとした矢先、ドラムのジョンが急逝(アルコール中毒だったらしい)という悲しいアクシデントが起きてしまった。ジョンの追悼ライヴになってしまったこのツアーでは、急遽ドラムに
Todd Suchermanトッド・ズッカーマンを迎え、新曲も数曲披露された。この模様はアルバム用としてもライヴ・レコーディングされ、翌97年「リターン・トゥ・パラダイス」と題してリリースもしている。内容はグレテスト・ヒッツ・ライヴとも呼べるほぼ完璧な素晴らしいものだ。
 そのままのメンバーでスタジオ・レコーディングも行われ、99年にアルバム「ブレイヴ・ニュー・ワールド」としてリリースされたが、こちらは内容的にどうもトミー主導で作られたような印象があり、善くも悪くもあまり往年のスティクスを感じさせない。この直後デニスの脱退が伝えられたが、バンド自体はキーボード&ヴォーカルに
Lawrence Gowanローレンス・ゴーワンを迎えて存続させた。2000年には、このデニス抜きのメンバーで2度目の来日公演も行われている。ところが、自分の脱退理由は健康上のものであり、自分無しでのバンド続行は無効であるとするデニスは、バンドに対し訴訟を起こしていたらしい。その結果がどうなったのかは分からない。しかしまた2003年には、このメンバーに元の再結成メンバーであったグレン・バートニックをベース・ギター&ヴォーカルにスイッチさせて迎え入れ、スティクスとしてのアルバム「サイクロラマ」を正式リリースしている。
 このアルバム、ジャケット・デザインには「ピーシズ・オブ・エイト」以来となるストーム・トーガソン(元ヒプノシス)を起用したり、元ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンをゲスト・バック・ヴォーカルに迎えるなど相当に気合いが入っている。曲も結構良く、一応ところどころに昔のスティクスらしい効果音なども入って入るが、取って付けたようでまったく曲調には合っていない。どちらかというとアメリカン・ロックの泥臭さが染み出るような仕上がりになっていて、往年のスティクスとはまったくの別バンドと考えた方がよいだろう。デニスそっくりに唄うローレンス・ゴーワンの「Fields Of The Brave」が一番スティクスっぽいと思うのは自分だけだろうか。やはり一度付いたバンドのイメージというのは、そう簡単に変えられるものではないが、今後トミー・ショウを中心にして、いかに新しいスティクスのカラーを作り出し、定着させていくのかが生き残るための仮題と言えそうだ。
 尚、2004年時点では、ベースが元ベイビーズバッド・イングリッシュ
Ricky Phillipsリッキー・フィリップスに替わっている。(HINE) 2004.7




Styx
Wooden Nickel

Styx II
Wooden Nickel/BMG

The Serpent Is Rising
Wooden Nickel/BMG

Man Of Miracles
Wooden Nickel/BMG

Equinox
A&M/ポリドール

Crystal Ball
A&M/ポリドール

The Grand Illusion
A&M/ポリドール

ディスコグラフィー

1972年 Styx *この時代のアメリカン・バンドにしてこの先進性は必聴。彼らがプログレッシヴだと言われるのも頷ける
1973年 Styx II(レディ)
*初期の大ヒット曲「憧れのレディ」収録。すでにスティクスらしさが感じられる
1973年 The Serpent Is Rising(サーペント・イズ・ライジング)
*実験的な要素も強く、なかなか面白いサード
1974年 Man Of Miracles(ミラクルズ)
*それぞれの個性がぶつかり合うスティクス・サウンドが完成
1975年 Equinox(分岐点)*移籍後初、文字通り彼らの分岐点となった記念碑的作品
1976年 Crystal Ball(クリスタル・ボール)
*トミーが加入し、よりサウンドが多彩になった
1977年 The Grand Illusion(グランド・イリュージョン〜大いなる幻影)
*古くからのファンには最高傑作と評される名作
1977年 Best Of Styx(レディ〜スティックス・ベスト)
*文字通りの初期ベスト
1978年 Pieces Of Eight(ピーシズ・オブ・エイト〜古代への追想)
*トミーの才能が爆発し、ヒットを連発
1979年 Cornerstone(コーナーストーン)
*全米2位まで上がり、シングル「ベイブ」は全米No.1に輝いた
1980年 Paradise Theater(パラダイス・シアター)
*全米No.1に輝く、説明不要の最高傑作
1981年 Reppoo(烈風)*82年初来日の記念盤として日本のみでリリースされたベスト。「クリスタル・ボール」のライヴ収録
1983年 Kilroy Was Here(ミスター・ロボット)
*日本でもシングル「ミスター・ロボット」が大ヒット
1984年 Caught In The Act(スティックス・ライヴ)
*全盛期にして最後のライヴ・アルバム
1990年 Edge Of The Century(エッジ・オブ・ザ・センチュリー)*トミー抜きで再結成したデニス色の強い作品
1997年 Return To Paradise (リターン・トゥ・パラダイス)*全盛期のメンバーで復活、ジョンの追悼ツアーを収録
1999年 Brave New World(ブレイヴ・ニュー・ワールド)*全盛期メンバーによる再結成スタジオ作
2000年 Arch Allies〜Live At Riverport(アーチ・アライズ〜ライヴ・アット・リヴァーポート)*REOスピードワゴンとのジョイント・ライヴ収録
2001年 Styxworld Live 2001(スティクスワールド・ライヴ2001)
*デニス抜きでのワールドツアーを収録
2002年 At The River's Edge live in st.louis *2002年セントルイスでのライヴ
2003年 Cyclorama(サイクロラマ)*デニス抜きスティクス初のスタジオ作
2003年 ROCKERS *トミーとジェイムスの曲を中心としたベスト盤
2003年 21st Century Live *CDとDVDをカップリングした2枚組ライヴ・アルバム



Pieces Of Eight
A&M/ポリドール

Cornerstone
A&M/ポリドール

Kilroy Was Here
A&M/ポリドール

Edge Of The Century
A&M/ポリドール

Return To Paradise
Cmc/Victor

Brave New World
Sanctuary/Victor

Cyclorama
Sanctuary/Victor


★★★名盤PICK UP★★★

パラダイス・シアター
Paradise Theater

スティクス
Styx


1980年 A&M/ポリドール

SIDE-A

1.1928年
(パラダイス・シアター・オープン)

 A.D.1928

2.ロッキン・ザ・パラダイス
 Rockin' The Paradise

3.時は流れて
 Too Much Time On My Hands

4.砂上のパラダイス
 Nothing Ever Goes As Planned

5.ザ・ベスト・オブ・タイムズ
 The Best Of Times

SIDE-B

1.ロンリー・ピープル
 Lonely People

2.愛こそすべて
 She Cares

3.白い悪魔
 Snowblind

4.ハーフ・ペニー、トゥー・ペニー
 Half Penny, Two Penny

5.1958年
(パラダイス・シアター・クローズド)
 A.D.1958

6.ステイト・ストリート・セイディ
 State Street Sadie

スティックスがお贈りする、とってもわかりやすいコンセプト・アルバム。80年代のロック・シーンを象徴するライト感覚あふれるポップな作品でもある。
70年代初頭から活動してきたスティックスは、トミー・ショウ(g,vo)の加入によりデニス・デ・ヤング(key,vo)とジェームス・ヤング(g,vo)との3頭体制となり、それぞれの個性をぶつけ合わせながらすばらしい曲を数多く作り上げてきた。さらに演奏面でも3人のリード・ヴォーカリストと2人のリード・ギタリストが存在することにより、格段に音の幅を広げ、質を高めた。
たいていのバンドの場合なら、デビューから10年以上も経ち10作以上のアルバムを発表しているとなると、演奏は熟練しても曲のアイデアがつき、なかなか良い曲が作れないものだ。しかしこのデビュー10年目にして11作目のスティックスのアルバム「パラダイス・シアター」は、ヴォーカル、演奏ともに見事なコンビネーションをみせながら、曲も今まで以上にすばらしい、超強力なアルバムなのだ。
パラダイス・シアターとは、デニス達の故郷であるアメリカのシカゴに実在した映画館で、1928年〜1958年までアメリカの繁栄期と栄枯盛衰を共にした場所でもある。かのマフィアのボス、アル・カポネも訪れたことがあるという。
全体のコンセプトはデニスによるもので、1曲目の出だしにある「Tonight's the night we'll make history〜♪」というフレーズがアルバムの中間部と最後にもちりばめられ、アルバム全体の統一感をよりいっそう明確にする演出がなされている。
ブリティッシュ・プログレのコンセプト・アルバムにみられるような奥深さは無いが、アメリカらしいこういった分かりやすい作品づくりには、単純に楽しめる喜びがありとても好感が持てる。ジャケットも、表がパラダイス・シアターの初公演にたくさんの人々が押し寄せ活気に満ちているイラスト、裏は廃墟と化したパラダイス・シアターの寂しい様子が描かれ、視覚的な面からもアルバム全体のムードを盛り上げる。
本作はデニスが中心になっているということで、当然デニスの曲が1番多いのだが、トミーの曲A-3,B-2も軽快でメロディアスな名曲だ。ジェームスの曲B-3,B-4も初期スティックスを想わせるハードなロック・ナンバーに仕上がり、アルバム全体がポップになりすぎないようにバランスをとる役目を果たしている。
特にすばらしいのは、やはりメドレーであるA-1からA-2への流れ。イントロダクションとしての静かなテーマ・フレーズから一挙にアップ・テンポなロック・ナンバーへと変貌する。おそらくA-2はトミーが中心になって作ったのだと思うが(クレジットはDennis,James,Tommy)、メンバー全員の息がピッタリと合った結晶のような曲だ。またA-3ではダンサブルに、A-4では途中からレゲエ調にと変幻自在。今までのどのアルバムよりも多彩なサウンド作りでありながら、どれもがスティックスらしいという実に素晴らしい曲構成だ。
このアルバムは全米No.1に輝き、シングル「ベスト・オブ・タイムス」が全米3位、「時は流れて」が全米9位の大ヒットを記録しているのも当然のことだろう。(HINE)