プログレの枠からはみ出した真のプログレッシヴ・アーチスト
ジェスロ・タルのサウンドは一口に“プログレ”と言ってしまうにはあまりにも幅広いものだ。
初期こそフルートを初めて本格的にロック界に持ち込み、1曲でアルバムを終わらせるなど大作が多く、プログレ・サウンドの王道を突き進むように見えたが、その後トラッド・ミュージックやポップ、ニュー・ウェイヴ、ヘヴィ・メタルなど吸収できるものはすべて吸収するどん欲さで、めまぐるしくサウンドを変化をさせていった。
最近のイアン・アンダーソンへのインタビューでも、彼自身デヴィッド・ボウイが大好きだと語っていた。この意外とも思える発言から、ジェスロタル・サウンドの全貌が今更ながら見えてきた。
つまり、初期のあのサウンドは時代を敏感に捕らえた結果生まれたわけで、デヴィッド・ボウイ同様、彼ら(というよりはイアン・アンダーソン!?)は常に時代の流れとともに進化し、それが不発に終わろうとも、また成功したとしても、新しい何かを追い求めて変化し続ける。そうせずにはいられない性格(たち)なのだろう。
狂気のフラミンゴ
ジェスロ・タルの前身はイアン・アンダーソンが美術学校時代にイギリスのブラックプールで結成した7人編成のブルース・バンド“ジョン・エヴァンズ・スマッシュ”であった。この時彼らのマネージャーをしていたのは後にクリサリス・レーベルを設立するクリス・ライトであったという。
やがて活動拠点をロンドンに移し暫くすると、イアンとベースのグレン・コーニックを残して他のメンバーは皆ブラックプールへ戻ってしまった。そこで67年、新たに2人は新メンバーを引き入れバンドを結成することになったのだ。
このバンドは名前をコロコロと変え活動していくのだが、最終的に18世紀の実在の農学者の名をとってジェスロ・タルと名乗るようになっていた。メンバーは
イアン・アンダーソン Ian Anderson/ヴォーカル、フルート、ピアノ
ミック・エイブラハムズ Mick Abrahams/ギター、ヴォーカル
クライヴ・バンカー Clive Bunker/ドラムス
グレン・コーニック Glenn Cornick/ベース・ギター
68年にはシングル「Sunshine Day」でデビューするが、まったくあたらなかった。彼らの名を一躍世に知らしめることとなるのは、同年行われた第8回ナショナル・ジャズ・ブルース・フェスティバルへの出演だ。
トラフィク、ティラノザウルス・レックス(T・レックスの前身)などが出演していた同フェスティバルで、彼らは最も大きな反響を呼び、特にイアンのフルートを吹きながら乱舞する姿は、“狂気のフラミンゴ”“狂犬フェイギン”“スピード狂のトスカーニ”などと形容され絶賛を浴びた。
イギリス中で話題のバンドとなった彼らは、この年の秋、すかさずファースト・アルバム「日曜日の印象」をリリースし、見事全英10位のヒットを記録した。
なぜイアンが当時のロックに不釣り合いとも思える“フルート”を持ち出したかについても少し触れておくと、イアンは元はギターも弾きながら唄っていたのだが、彼らのマネジメントがミック・エイブラハムズをギターヒーローとして売り出そうとしたため、アンダーソンがギターを弾くことを禁じた。それでしかたなく演奏中の暇つぶしにと、フルートを吹き始めたそうだ。60年代末〜70年代半ばといえば、ロック・ギタリスト花形時代、この当時売れ線を狙うには、ギタリスト中心のバンドに仕立てようとしたのも当然の成り行きであったのであろう。
しかし、エイブラハムズはこの直後に脱退。一時はなんとブラック・サバス加入前のトニー・アイオミやイエス参加前のスティーブ・ハウなどを代役にジェスロ・タルは活動つづけるのであった。
もしそのまま彼らを正式メンバーに加えていても、バンドは大成功を収めていたに違いないが、オーディションの末、新たな正式ギタリストにMartin Barreマーティン・バレを迎え入れた。
69年に入ると、彼らはアメリカへ渡り、ニュー・ポート・ジャズ・フェスティバルへ出演。ここでも大喝采を浴び、アメリカでの成功も手中にするのであった。
この年リリースしたセカンド・アルバム「スタンダップ」は全英で初のNo.1に輝き、全米でも20位のヒットを記録した。
翌70年にもアルバム「ベネフィット」を全英3位/全米11位とした彼らは、この年、イアンがジョン・エヴァンズ・スマッシュ時代いっしょだった、John Evanジョン・エヴァン(kb)をメンバーに加えた。また、その直後オリジナル・メンバーでもあったベースのグレンが脱退、グレンは後にフルートウッド・マックのロバート・ウェルチらと共にパリスを結成している。
代わりにJeffrey Hammondジェフリー・ハモンド(b)を加え、71年、初期の傑作と唱われるアルバム「アクアラング」が誕生した。
「アクアラング」、「蒸気機関車のあえぎ」、「やぶにらみのマリー」などの代表曲が収録されたこのアルバムは、全世界でベストセラーとなり、全英4位/全米7位に輝いたが、その内容はチャートの結果以上に名盤だ。
しかし、その直後またもやオリジナル・メンバーであったクライヴ・バンカー(ds)が脱退。この結果、バンドのオリジナル・メンバーはイアンただ1人となり、ジェスロ・タルは実質イアンのワンマンバンドと化すのである。だが、これが好結果につながり、この後イアンの才能はさらに大きく開花していくことになる。
72年これまたジョン・エヴァンズ・スマッシュ時代いっしょだったBarriemore Barlowバリモア・バーロウ(ds)を加え心機一転、クリサリス・レーベルへ移籍して、トータル・コンセプト・アルバム「ジェラルドの汚れなき世界」を発表。このアルバムは文句の付けようがない素晴らしい内容で、見事全米での初No.1に輝いている。またこのアルバムはジャケットが新聞紙に似せた作りになっていたのも大きな話題になった。続いて翌年リリースした「パッション・プレイ」では、かなり難解な内容のコンセプト・アルバムであるにも関わらず、またもや全米1位に輝くが、これは「名盤の次はもっと売れる」という原理によるものだろう。この難解な内容をけして理解して買っているとは思えないからだ。しかし、ファンの間では賛否両論ながらベストに挙げる人も多い。確かに複雑な内容ではあるが、演奏状態は素晴らしく、彼らのアルバム中最高ではないかとも思わせる。
この後74年には来日も果たし、リリースするアルバムもすべて安定したセールスを記録していったが、75年になるとベースのジェフリーが脱退。代わってJohn Glasscockジョン・グラスコック(b)が加入し76年にインパクトのあるジャケットとタイトル・コピーの「ロックンロールにゃ老だけど死ぬにはチョイト若すぎる」を発表した。このアルバムは当時パンク・ロックが流行し始めていたイギリスの音楽界に対する批判でもあった。そんなロック界に嫌気がさしたのか、彼らは徐々にサウンド変化を見せ始める。77年にリリースした「神秘の森」あたりからはブリティッシュ・トラッド・ミュージックに大きく傾倒し、以降3作ほどこの傾向はつづく。
79年になると健康状態の悪化から脱退したグラスコックが直後に急死するという災難に見舞われ、翌年にはジョン・エヴァンをはじめ3人のメンバーが次々と脱退するという、ジェスロ・タル最大の危機が訪れる。
これを元ロキシーミュージック〜UKのエディ・ジョブソン(kb)をゲストで加えるなどして、なんとかバンドの形態は保ったまま乗りきったが、サウンド的には大きく変化し、トラッドから一変ニュー・ウェイヴ路線になっていた。
その後はもうメンバーの入れ替わりが激しく、実質イアンのソロ・アルバムのような感じは否めないが、一応ジェスロ・タル名義でのアルバム・リリースはつづく。
80年代、さすがに英米でもセールス的に下降をたどり、日本ではほとんど忘れ去られた存在となってしまっていた彼らだが、88年にビッグ・ニュースが舞い込んできた。
なんとこの年グラミー賞で新しく設けられたHR/HM部門(正式受賞名=Best Hard Rock/Metal Performance Vocal Or Instrumental)、第1回受賞者にジェスロ・タルの同年発表作「クレスト・オブ・ア・ネイヴ」が選ばれたのである。
この頃アメリカのロック界には、ボン・ジョヴィ、ガンズ・アンド・ローゼズ、メタリカなどヘヴィメタルの大物達が君臨していて、それらを押しのけての受賞であったことはたいへん価値のあることだ。しかもイギリスのバンドなのだから・・・。
これですっかり自信をつけた彼らは再び活発に活動し始めた。
その後92年にはアコースティックによるライブ・ツアーを展開。93年には再度来日も果たしている。
現在はパーソナル・コンピューターに興味があると語っていたイアン・アンダーソンは、99年にその趣味を反映したようなタイトルのアルバム「ドット・コム」をリリースし、まだまださらに新しい進化へと意欲を燃やす。
尚現在のメンバーは
Ian Anderson イアン・アンダーソン/ヴォーカル、フルート、ギター
Martin Barre マーティン・バレ/ギター、フルート
Doane Perry ドーン・ペリー/ドラムス、パーカッション
Andrew Gidings アンドリュー・ギディングズ/キーボード
Jonathan Noyce ジョナサン・ノイス/ベース・ギター
参考資料&協力:Shin Yamanaka「Dharma for One」 (HINE) 2001.3
|