そのポップな音楽性ゆえに
正当評価されなかった名バンド
世界のアイドル事情は、日本の歌謡アイドル事情とはずいぶん様相が違っている。特に、ロック・アイドルともなれば、ルックス以外に唄がすごく上手いとか、演奏が上手いとか、曲がものすごくいいといった要素がなければ通用しない。
ロック史上に光り輝やいた有名どころでは、ビートルズ、ラズベリーズ、ベイ・シティ・ローラーズ、ピーター・フランプトン、クイーン、エンジェル、リック・スプリングフィールド、ニック・カーショウなどなど、いずれも数々の名曲・名演を残している。
しかし、クイーンを除いては、彼らはみな現役時代にロック・ファン達から軽視され、「子供の聞く音楽だ」というような扱いを受けていたのも事実だ。いや、クイーンとて初期はそうであった。一番ひどかったのはハードロック全盛期の70年代で、ヒットチャートに頻繁に顔を出すようなアーチストは、ことごとく酷評を受け、アルバムはまったく売れないという厳しさであった。パイロットもまたそういったアイドル・バンドとみなされ、良い仕事をしつつも消えていったバンドの1つだ。だが、彼らは決してアイドル・バンドを目指していたのではなく、本来曲の良さで売るタイプのソフト/ポップ・ロックのバンドであったのだ。アルバムを聴くと捨て曲などがなく、1曲1曲がきちんと作られているのが分かる。
David Paton デイヴィッド・パットン(後にペイトンという表記に変更されるがそれが正式)/ベース・ギター、ヴォーカル
Billy (William) Lyall ビリー・(ウイリアム)・ライオール(正式にはライアルあるいはライエル)/キーボード、ヴォーカル
Ian Bairnson イアン・ベア-ンスン/ギター
Stuart Tosh スチュアート・トッシュ/ドラムス、ヴォーカル
イギリスのスコットランドでパイロットが結成されたのは1973年、なんとパットン(以下馴染みのある当時の呼び方で表記)とライオール(同じく当時の表記で)は、ベイ・シティ・ローラーズがまだローカル・バンドだった頃の元メンバーだったという。
ベイ・シティ・ローラーズ脱退後、音楽スタジオでエンジニアをしていたライオールは、図書館の前で偶然パットンと再会し意気投合。スタジオの空き時間に2人でデモ・テープを創りはじめた。そしてそのうち、そのスタジオに出入りしていたスチュアートとベアーンスンにも声をかけることになる。その後スチュアートはそのまま彼らと合流し、バンドを結成するが、ベアーンスンは既にセッションマンとして数々のキャリアを持ち、スティーブ・ハーレー(コックニー・レベル/vo)からも誘いを受けているほどであったため、なかなかメンバーになろうとはしなかったようだ。そのまま3人でパイロットとしてEMIとの契約を交わした彼らは、新進気鋭のアラン・パーソンズをプロデューサーに迎え、デビュー・アルバム「パイロット」の制作にとりかかる。その最中になってやっとベアーンスンも参加し4人組となるのだった。
74年に発表されたこのデビュー・アルバムから、いきなりシングル「マジック」が全英11位、全米5位の大ヒットを連発し、彼らは一躍注目を浴びたものの、評論家達からはアイドル・バンドとして過小評価され、アルバム・セールス自体は思うようにのびなかった。しかし、すでにポップにして幅広い音楽性をもった彼ら独自のロック・サウンドが確立されており(アラン・パーソンズの力も大だが)、このデビュー・アルバムはなかなかの佳作なのだ。
75年にはつづいてセカンド・アルバム「セカンド・フライト」を発表するのだが、その先行シングルとなった「ジャニアリー」が全英No.1のビッグ・ヒットを記録。セカンド・シングルの「コール・ミー・ラウンド」もたてつづけにヒットを記録し、彼らの存在は世界中に知れ渡るほどになっていった。
しかし、この結果が、よりポップ・アイドルのイメージを強めるものとなり、ますます彼らへの評価は下がってしまうことになる。その結果、アルバムは48位に1週チャート・インしただけという厳しい状況になっていた。
このアルバムに収められている曲は、どれも軽快なポップ感覚あふれる名曲で、インストゥルメンタル・ナンバーやボサノバ風ナンバー、バラード、ストリングスを多用したエレクトリック・ライト・オーケストラばりの曲まで、なかなかバラエティに富んでいる。確かにパットンの声はアイドル風ではあるのだが、インスト・ナンバーなどを聴くと、演奏自体はとてもアイドルとは思えない高いレベルのもので、サウンド・クリエーターとしての資質も充分に感じられた。
ぶつかりあう2つの才能と末路
また、この年、デビュー・アルバムからのファースト・シングルだった「ジャスト・ア・スマイル」をライオールによる別アレンジで再リリースしたが全英31位のマイナー・ヒットに終わり、その直後にライオールが脱退。この脱退劇は、「ジャスト・ア・スマイル」が思ったように売れなかったことが引き金になったとも言われている。デビュー以来、シングル・ヒットするのはパットンの曲ばかりで、自分の曲はヒットしないといういらだちと、パットンとの音楽的意見の相違がライオールを脱退に追い込んだようだ。音楽的意見の相違とは、後世に残る名曲を作りたいパットンと売れる曲を作りたいというライオールの音楽に関わる上での根本的な考え方の違いだった。
ライオールは脱退後76年にソロ・アルバム「眠りの精」をリリースしているが、まったく売れず、評論家達からも酷評を受けている。
このパイロットの2枚看板の1人ともいえるライオール脱退は、バンドに致命的なダメージを与えた。ソング・ライターとしてはパットンの方が優秀だったが、エンジニアとしての経験などから、売れるための音づくり(アレンジ面など)はライオールの方が上手だったからだ。 3人となったパイロットは76年にサード・アルバム「モーリン・ハイツ」を発表。プロデューサーもクイーンでお馴染みのロイ・トーマス・ベイカーに替え、ギターを前面に押し出した大胆なサウンド変化をみせている。また、アルバムの内袋には「NO HANDCLAPS」(手拍子なし)と書かれているのが笑えるが、彼らがこれまで不当につけられてきたアイドル・イメージから脱却し、真のミュージシャンとして活躍したいという願いと意気込みが込められていたのだろう。彼らの曲を聞いたことのない人たちのために付け加えておくと、以前彼らのアップテンポな曲にはたびたびHANDCLAP(手拍子)が入っていたのだ。
このサード・アルバムはシングル・ヒットもなく、失敗作と思われがちだが、実は彼らの作品中一番売れたアルバムだった。
聴いてみると、1曲目からR&B調のリズムにのってベアーンスンのハードなギターが唸り、なにやら別バンドのような様相をみせる。それもそのはず、これはベアーンスンの曲で、他にも4曲ほど彼がかいた曲が採用され、それがいつものパイロット・サウンドとは違った良い意味での変化をもたらしている。しかし、次の「Canada」でほっとするのも事実。聞き慣れたパットン流のいつものポップなサウンドが、衝撃的な1曲目とは対照的に安心感を与えてくれる。全体を通して、ロイ・トーマス・ベイカーのプロデュースのせいだろうが、クイーン風のコーラスやギターのオーヴァー・ダビング、メリハリをきかせたサウンド構成や曲間をメドレーにしたりして、アルバム全体での統一感を大事にした音づくりがほどこされている。特にライオールが残していった曲「Maniac」では、1曲の中でめまぐるしく展開が変わり、往年のクイーン・サウンドを強く思い起こさせるものだ。もともとバンドやセッション経験者であったメンバー達の演奏技術レベルの高さが、こういった大胆なサウンド変化をも可能にしているのだろう。とてもすばらしいアルバムだった。
ところが、このアルバムが発表されるのと前後して、今度はスチュアートが脱退を表明。これは音楽的な問題やメンバー間のいざこざなどではなく、彼のプライベートな都合らしい。その後スチュアートはロジャー・ダルトリー(ザ・フー/vo)のソロ・アルバムやアラン・パーソンズ・プロジェクトに参加するなどセッションワークを重ねた後、10ccへ加入し80年頃まで活躍する。10cc脱退後も10ccのアルバムやツアーへはときどき顔を出し、最近でも元気な姿をみせている。
ついに2人になってしまったパイロットの方は、再びアラン・パーソンズのプロデュースによるアルバム「新たなる離陸」を77年にリリースした。
全体的にはアコースティックな面が強く出たアルバムだが、1曲目を聴い瞬間に、つい笑みがこぼれる。いつものパイロット・サウンドが戻ってきた!そう、あのハンドクラップまで入っている。前作での変化は個人的にとても喜ばしいことではあったが、やはりパイロット本来のサウンドといえば、このアルバムの方がしっくりくる。しかも名曲が目白押しで、特にライオールと出逢った図書館でのことを歌にした「Library
Door」は素晴らしく、しんみりと心に響く。また、ヘヴィ・メタル・キッズやスレイドあたりがやりそうな楽しいミュージカル風の曲やストリングスを大胆に取り入れた壮大な曲など、彼らの集大成的な内容で、メンバーは2人きりだが、どこからみてもパイロット・サウンドそのものだった。
だが、多くのファンからは最高傑作との呼び声が高いこのアルバムも、セールス的にはパッとせず、その後アランパーソンズ・プロジェクトにメンバー達が吸収される形でパイロットは自然消滅していった。
パイロット消滅後、パットンはアラン・パーソンズ・プロジェクトへ85年までレギュラー・メンバーとして参加するかたわら、キャメルのアルバムへもゲスト参加し、リード・ヴォーカルまでとっている。その後90年代に入ってからは、元マリリオンのヴォーカリスト、フィッシュのソロ・アルバムへ数枚参加するなど、相変わらず精力的な活動を続けている。
ベアーンスンはパットンと共にアラン・パーソンズ・プロジェクトへ参加して以来、2001年までずっとレギュラー・メンバーとして活躍しつづけている。
このように、パットン、ベアーンスン、スチュアートの3人は、それぞれの道を歩みながらもミュージシャンとして豊富なキャリアを積み上げていったが、ライオールだけは、この後成功を収めることなく、89年エイズによって静かにこの世を去っている。彼がゲイだったという事実は、自らパイロット脱退時に明らかにしていたらしい。
セールスと人気に固執したライオールが、売れないスタジオ・ミュージシャンのまま静かに最後を迎えたのとは対照的に、売れることより名曲を生み出すことにこだわったパットンがアラン・パーソンズとともに世界的大成功を収めたことは実に皮肉なものだ。ライオールに決して才能がなかったわけではなく、むしろ才能に溺れてしまったように見受けられる。彼の唯一のソロ・アルバムに名を連ねる蒼々たるメンバー(Robert
Ahwai,Ian Bairnson,Paul Buckmaster,Dominic Bugatti,Phil
Chen,Phil Collins,Barry DeSouza,Jack Emblow,Ronnie
Leahy,Chris Mercer,Frank Musker,Patato,David Paton,Ray
Russell,Dick Tate,Stuart Tosh,Terry Walshなど)を見れば、業界内でいかに彼が認められ、期待されていたかが分かる。
しかし、20年以上たった今でも心に響くのはパットンの作ったあの「ジャニアリー」のメロディーなのだ・・・。
尚、ラスト・アルバムの「新たなる離陸」は、唯一アラン・パーソンズが所属していたアリスタ・レーベルからリリースされた関係でずっとCD化されず、それに不満を持つデイヴィッドとイアンは再録音して発売する構想を以前から持っていた。
そして、ついに2002年それは現実のものとなり、25年ぶりのニュー・アルバム「Blue
Yonder」を引っさげパイロットは帰ってきた!
このパイロット再結成実現の裏には、2人がこれまで関わってきたアラン・パーソンズ・プロジェクトが、2001年でバンド活動を停止したことも理由の1つだろうが、きちんと過去を清算してから新たなスタートを切ろうとした2人の姿勢にはとても好感が持てる。
さて、そのBlue Yonderの内容だが、「新たなる離陸」から「The Other Side」「Mr.Do Or Die」「Big Screen Kill」を除くすべての曲に、新曲が2曲と1975年のライヴが1曲プラスされている。また日本盤のみ、ボーナス・トラックとしてファースト・アルバムに収められていた「ラヴリー・レディー・スマイル」の新録音が追加された。
メンバーはデイヴィドとイアン2人のみで、スチュワートは参加しなかったが、サウンドはパイロットそのもの、以前より落ち着いた雰囲気でAORにも近い感じに仕上がっている。新たに追加された2曲はデイヴィッドのものだが、またもや名曲で、アルバム全体にもうまく溶け込んでいる。もはやデイヴィッドの作曲能力は、ロック界の最高峰ポール・マッカートニーの域に達しているのではなかろうか。
また、様々な経験を積んできたイアンの円熟プレイは、まさに職人芸!こういったメロディーをもったフレーズを弾けるギタリストは今や貴重な存在だろう。
これは今後がたいへん楽しみになってきた!全曲新曲によるニュー・アルバムもそう遠くない将来きっとリリースされることだろう。
追記:2005年、ついに今までCD化さえしていなかった「新たなる離陸」が再リリースされる。しかも日本盤紙ジャケだ!
(HINE)2002.10更新
追記:Blue Yonderの日本盤ライナーには、このページの協力者下記の戸村さんも執筆されています。
もっと詳しく知りたい方は=推薦&参考サイト:「55°NORTH
3°WEST」
Special Thanks to 「55°NORTH
3°WEST」Mariko"Tomura" Oyama(制作・音源提供協力)、「70's Rock Avenue」Shinさん(音源提供協力)
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