ロックの原点である反逆精神と破壊的パワーに満ちたパンクの教祖
伝説のモンタレー・ポップ・フェスティバルでは、ジミ・ヘンドリックスと順番を争って先に出番が来た彼らが、演奏中ギターやドラムなど楽器を壊しまくったため、ジミヘンはやむなくギターに火をつけるパフォーマンスを生み出したという逸話がある。
こういったライブでの過激さとは裏腹に、スタジオでの彼らは、ロック・オペラ「トミー」のようなコンセプト・アルバムの名盤も作り出し、けっこう繊細な一面も覗かせる。
また初期にはモッズ讃歌をシングルでリリースするなど、モッズ族の間では話題のバンドでもあった。
メンバー個々ではプロデューサーやセッション・ミュージシャンとして活躍。チャリティーや友人支援などの慈善活動も惜しまない、まさに「四重人格」とも「五重人格」とも思える多彩な顔をもったバンドが「ザ・フー」である。
しかし、こういったバンドとしての性格の分かりづらさが、日本での人気をいまひとつ掴みきれなかった理由の1つでもある。
加えて、なにより彼らの一番の魅力であるライブでの生の迫力を間近に見る機会が少なかったことが致命的な要因であろう。
とはいえ、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、キンクスらと共に、ロック創生期から活躍し、その後のロック・ミュージックに多大な影響を及ぼした偉大なバンドとしての地位は揺るぎないものだ。
特に他のバンド達が、有名になり巨大になればなるほど、初心を忘れ芸術的なアプローチを増やしていくのに対し、彼らは一貫してロックの初期衝動である“反逆”“破壊”を繰り返したことが、後のパンク・ロッカー達の共感をも呼び、教祖とまで崇められることにつながった。
モッズ時代
1963年ロジャー・ダルトリー率いるディトゥワーズにエントウィッスルとタウンゼントが加入することから、彼らは本格的なプロとしてのスタートを切る。その後ヴォーカリストが脱退し、もともとはリード・ギターであったダルトリーが、その頃鉄板工の仕事中に手を怪我したこともあって、途中でヴォーカリストに転向している。
そして、あるTV番組に同名のバンド「ディトゥワーズ」が出演していたのをきっかけに、バンド名をタウンゼントのアートカレッジ時代の学友リチャード・バーンズの命名により「ザ・フー」と改めた。
当時のイギリスは、ビートルズの成功に刺激されて、同様のブリティッシュ・ビート・バンドを発掘しデビューさせるのがブームになっており、彼らも難なくスポンサーを得てフォンタナ・レーベルとの契約をとりつけた。
ここで、彼らをサポートしたパブリシストがモッズ族のピーター・ミーデンであり、彼のアイデアによりザ・フーもモッズ・バンドとして性格付けがなされていくのである。
ミーデンはまず、バンド名を「ハイ・ナンバース」に改名させ、スリム・ハーポの曲を改作した「アイム・ザ・フェイス」と「ズート・スーツ」の2曲をモッズ讃歌として書き替え、64年自らマネージャーとなって彼らをシングル・デビューさせた。
この2曲のシングル自体は不発に終わるが、当時流行していたモッズ族の間では、彼らの存在はかなりの評判になり、ライブ活動を中心に順調にファンを増やしていった。
そんな64年のある日、彼らのライブ中に観客席にいたキース・ムーン(当時17歳)がステージ上に乱入。当時ドラム担当だったダグ・サンデンより巧く叩けると言い放った彼は、その場で1曲演奏し、最後にはドラムセットを完全に破壊してしまった。
キースのこのパフォーマンスに惚れ込んだメンバー達は、彼を正式にメンバーに迎えることとなり、マネージャーも換えてバンド名も「ザ・フー」に戻し再スタートを切る。
ロック界の暴れん坊将軍
その後マーキー・クラブのレギュラーになった彼らは独特の過激アクション・ステージで、マーキーの観客動員記録を塗り替えるほど話題となり、65年再スタート後のファースト・シングル「アイ・キャント・エクスプレイン」も全英8位までヒットさせるなど、順調に勢いを増していった。この時点でのメンバーが真のオリジナル・メンバーといっても差し支えないだろう。
Pete Townshend ピート・タウンゼント/ギター、ヴォーカル
Roger Daltrey ロジャー・ダルトリー/リード・ヴォーカル
John Entwistle ジョン・エントウィッスル/ベース・ギター
Keith Moon キース・ムーン/ドラムス
さらに同年3d.シングルの「マイ・ジェネレイション」を全英2位、同名タイトルのファースト・アルバムも全英5位へ送り込む快挙を成し遂げた。
波に乗る彼らは、その後もシングルヒットを連発、翌年リリースしたセカンド・アルバムも全英4位に輝いた。
67年には彼らのマネージャーが設立したばかりのTrackレーベルへ移籍し、同レーベル所属アーチスト達のプロデュースもメンバー達が手がけることになる。
また、この年アメリカでモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演した彼らは、過激なステージ(例のタウンゼントの腕を回しながらギターを弾くポーズもこの頃既に見られる)で一気に有名になり、アメリカでの人気も獲得していった。この年にはもう1つ、麻薬不法所持で逮捕されたミック・ジャガーとキース・リチャードの支援基金を集めるためのシングル「ザ・ラスト・タイム/アンダー・マイ・サム」もリリースし話題となった。
このように彼らの成功は常にエキサイティングなライブ・ステージと共にあったわけだが、69年そのイメージを振り払うような素晴らしいアルバムをリリースした。ロック・オペラ「トミー」である。
この作品は全米4位/全英2位となり、世界中で大絶賛を浴びることとなる。もともとキンクスのレイ・デイヴィスのファンとして知られるタウンゼントは、それまでも度々キンクスを意識した曲作りをしてきた。「トミー」もちょうどこの頃ロック・オペラ3部作を連続リリースしていたキンクスのアイデアを真似たのは明白だが、本家本元以上の大成功を成し遂げてしまったのである。
(「トミー」は75年に映画化され、エリック・クラプトン、エルトン・ジョン、ティナ・ターナーらも友情出演した。)
そして、この年アメリカのウッド・ストック・フェスティバル、翌70年ヨーロッパのワイト島フェスティバルの2大イベントにも出演して、人気を不動のものにした彼らは、さらに快進撃をつづける。この間にリリースしたライブ・アルバム「ライブ・アット・リーズ」は彼らの全盛期の勢いが伝わるライブの名盤である。
71年には初の全英制覇を成し遂げたアルバム「フーズ・ネクスト」(全米は4位)をリリース。タウンゼントが麻薬中毒リハビリ中のエリック・クラプトンを支援するレインボー・コンサートへ参加するなどを挟み73年にはロック・オペラ第2弾「四重人格」も全英・全米共に2位と、まさに飛ぶ鳥の勢いでその後も大ヒットを連発した。
しかし、78年悲劇は突然起こった・・・。ドラムのキース・ムーンがドラッグが原因で急死してしまったのである。
急遽元フェイセズのKenny Jonesケニー・ジョーンズをドラマーに迎えるが、翌年のシンシナティ公演中には、観客11人が圧死するというロック史上最悪の事故にも見舞われた。
その後2枚のアルバムをリリースするが、82年タウンゼントによって突然解散発表が行われ、ライブ・アルバム「フーズ・ラスト」を最後に17年間の栄光の歴史に終止符を打った。
その後85年にライブ・エイドでの再結成ライブ、89年にドラマーをサイモン・フィリップスを迎えての再結成全米ツアーなど、たびたび一時的な再結成はなされるものの、ザ・フーとして再び本気で始動することはなかった。
2001年、自らのプロジェクト・バンドやプロデューサーとして有名なアラン・パーソンズ(g)の発案で、トッド・ラングレン(vo,g)やアン・ウィルソン(ハート/vo)と共に「ビートルズ・トリビュート・コンサート〜ABBY
ROAD」に参加したエントゥイッスルは、来日も果たし久しぶりに元気な姿を見せていた。しかしそれが彼の日本での最後の勇姿であったとは、誰も知る由もなかった。
2002年いよいよザ・フー本体も動きだそうとした矢先、エントゥイッスルがラスベガスで心臓発作を起こし亡くなったとの訃報が伝えられた。なんと北米ツアーが始まる前日であったという・・・。
だが、残りの2人はベースにPino Palladino、ドラムにリンゴ・スター(元ビートルズ/ds)の息子Zak Starkeyを据えてツアーを開始した。
悲しみを乗り越え、エントゥイッスルを弔うためにも強行した2人の決断には、やはり本物のロック魂を感じずにはいられない。ダルトリーとタウンゼントには、ロック創始者の1人として、いつまでもロッカーとしての生き様を見せ続けて欲しい・・・とは勝手な個人の想いだろうか。(HINE) 2002.9
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