ルックスの良さと音楽センスを併せ持つオージー(OZ)・ロッカー
最初に聞いて「うわっ、カッコイイ!」と思ったのは「ソウルズ」というシングルだった。以前からリック・スプリングフィールドの名前はなんとなく聞いてはいたが、ブルース・スプリングスティーンと紛らわしい名前だと思っていたぐらいで、まさかこんなにカッコイイとは正直驚いた。
というのも、その甘いマスクと前の2作のジャケットがブルテリアという愛嬌のある犬の着せ替え写真だったせいで、ただのアイドルだろうと誤解をしていたからだ。
実際、ミュージシャンとして売れる前も後もTV番組などには引っ張りだこで、リックの出演する番組はどれもすごい視聴率だったという。
また、「ソウルズ」という曲はアルバム「リビング・イン・OZ」に収められていたのだが、この“OZ”というのがオー・ジー・ビーフでお馴染みのオー・ズィーだと気づいたのは、恥ずかしながら近年になってからのことだ。 そんなことはともかく、80年代の始めから徐々に頭角を現し、アルバムごとにすばらしく成長してゆくリックの姿をリアルタイムで見続けてきた自分にとって、リックが結婚後人気を落としていったという結末はあまりにも残念でしかたがない。やはりアメリカの多くの女性ファン達はルックスのみで彼を支持していたということなのだろうか!?しかし、一部には彼のミュージシャンとしての素晴らしさを理解してファンになった人たちもいるはずだ。ことTVなどで彼の姿を見る機会が少ない日本においては、純粋にリック・スプリングフィールドという“ロッカー”を好きなファンが多いと思うのだが・・・。
お茶の間のアイドルから世界のスーパースターへ
1949年8月23日オーストラリアのシドニーで生まれたリックは、13歳でギターを弾き始め16歳でThe
Jordy Boysというバンドへギタリストとして加入。その後いくつかのグループを転々とした後、1968年にZootに加入し、やっと腰を落ち着けた。その時のZootのメンバーは、リックの他、Beeb Birtlesビーブ・バートルズ(vo,b)、Darryl Cottonダリル・コットン(kb)、Roger Brewerロジャー・ブリューワー(ds)というラインナップだった。
リックが加入したZootはオーストラリアではすぐに人気となり、69年のシングル「大空の祈り」(Speak to The Sky)は全豪1位の大ヒットを記録。リック自身も2年連続人気No.1ギタリストに選出されている。その後Zootでは2枚のアルバムを残し72年リックは脱退。Zoot自体も解散に追い込まれた。ちなみにZoot解散後バートルズは75年にリトル・リバー・バンドの結成に加わり84年まで在籍していた。コットンもCotton,
Lioyd & Christianというバンドを75年結成するが、成功を収めないまま2枚のアルバムを残し解散している。
リックの方はオーストラリアでの大成功を足がかりに単身アメリカへ渡り、ソロ・デビュー・アルバムをリリース。ここからシングル・カットした「大空の祈り」のニューヴァージョンが全米14位の大ヒットを記録。同年日本で行われた第1回東京音楽祭世界大会にも出場し、銀賞を受賞している。
だが、それ以降はパッとせず、アニメのサントラなどを作ったりする日々がつづく。そのうち、そのルックスの良さからTV番組に起用されると、しだいにTVスターとして人気者になり、お茶の間のアイドルとして、高視聴率を稼ぐようになっていった。
そんな中、81年久しぶりにリリースしたアルバム「ジェシーズ・ガール」から同名タイトル曲が爆発的にヒットし始め、なんと全米No.1に輝いてしまった。つづくシングル「エヴリシング・フォー・ユー」も全米4位に送り込んだリックは、TVでも人気ドラマ「ジェネラル・ポスピタル」へレギュラー出演することとなり、一挙に全米の大スター達と肩を並べる存在になった。
ハードさを失わずにデジタル化されたサウンド
翌82年にはグラミー賞も受賞したリックは、つづいてアルバム「アメリカン・ガール」をリリース。ここからも「ドント・トーク・トゥ・ストレンジャー」が全米2位に輝き、それまでの低迷期が嘘のようにノリまくってきた。尚、このアルバムと前作「ジェシーズ・ガール」のジャケットに使われている犬は、彼の愛犬ブルテリアらしい。
勢いに乗るリックは83年にもアルバム「リビング・イン・OZ」を発表したが、このアルバムあたりから少しづつサウンド変化を見せ始め、ただのアイドルでないことを予感させた。これまでは、どちらかというとポップな路線で、TV人気をそのままイメージさせるような感じであったが、このアルバムでは、オーストラリア出身であることを誇りにするかのようなタイトル、元々ギタリストであった自分を取り戻し、ギターを前面に押し出したサウンド、ロッカー魂を伝えるシャウトしたヴォーカルなどで、ミュージシャン“リック・スプリングフィールド”を大きくアピールした。日本や世界でも本格的に注目されだしたのは、この頃からだったと思う。
このアルバムからは「アフェア・オブ・ザ・ハート」「ヒューマン・タッチ」「ソウルズ」のシングル・ヒットが生まれている。
また、この年11年ぶりの来日も果たすと同時に、初の主演映画「ハード・トゥ・ホールド」に出演した。
翌84年この映画のサントラがリリースされたが、10曲中7曲をリックが手がけ、なんと6曲がチャートインするというもの凄さ。「ラヴ・サムバディ」は全米5位の大ヒットとなり、このアルバムを含め連続4作プラチナ・ディスクという偉業も成し遂げた。ちなみにこのアルバムにはピーター・ガブリエルも参加している。
さらに、85年には第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン後の影響からくるデジタルチックなサウンドを、ハードなサウンドのまま取り入れたアルバム「TAO」を発表。
通常ならポップで軽快なサウンドに仕上げそうなところを、あえてギターを前面に出したままデジタル・サウンドを取り入れたところが、リックの新境地であり、他のアーチスト達と違う彼のオリジナリティだった。このアルバムからも「セレブレイト・ユース」と「ステイト・オブ・ザ・ハート」が大ヒットし、特に後者はリックの大きな成長のあとが伺える名曲バラードだった。余談だが、このアルバムの参加ミュージシャンにはニッキー・ホプキンス(元ジェフ・ベック・グループ、クイックシルバー・メッセンジャ・サービス/kb)の名前もある。
この後86年来日公演も行うが、結婚、長男誕生などがあり、しばらく芸能界から遠ざかった。
そして、88年に満を持して、ロックという音楽、人生、生き方について見つめ直した力作アルバム「ロック・オブ・ライフ」をリリース。しかし、同名タイトルのシングルがスマッシュ・ヒットしただけで、アルバム自体はパッタリ売れなくなった。
さらに悪いことに、この直後バイクで交通事故を起こし大けがを負ってしまい、またもや休養を余儀なくされる。
全てにすっかり疲れ切ってしまったのか!?この後リックは90年代の半ば頃までミュージシャンとしての活動は完全に休止し、たまに俳優としてTVに出る程度の状態がつづいていた。
ところが、95年に突然の来日。97年ヨーロッパでTim Pierce、Bob Marletteとバンドを組み、アルバム1枚だけのプロジェクトという形で「Sahara
Snow」を発表(残念ながら、このアルバムは日本未発売)。そして98年今度はソロ・アルバム・リリースという形で、また復活を遂げた。
その復活アルバム「カーマ」では、往年のサウンドそのままのキレのあるロック・サウンドを聞かせ、当時の音が、今聞いても少しも色あせていないないことを改めて教えてくれた。尚、このアルバムは日本先行発売で、アメリカでは99年にリリースされている。
2001年ヒット曲ばかりをライブ演奏した「Alive:The Greatest Hits」リリースされたが(これはかなりいい!)、そろそろニュー・アルバムのリリースにも期待したいところだ。
(HINE)2005.5更新
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