実力でアイドルを脱したニュー・ロマンティックのホープ
Nick Rhodes ニック・ローズ /キーボード
John Taylor ジョン・テイラー/ギター
Simon Colley サイモン・コリー/ベース・ギター
Stephen Duffy スティーブン・ダフィ/ヴォーカル
オリジナルはこのメンバーで、1978年に結成されている。しかし、半年でサイモン・コリーとスティーブン・ダフィが脱退。代わりにヴォーカリストのAndy Wickettアンディ・ウィケットとドラムのRoger Taylorロジャー・テイラー(クイーンの同姓同名ドラマーとは別人)を入れ、デモ・テープの制作にとりかかった。
だが、ウィケットも長続きせずすぐに脱退し、メンバー交代劇はさらに続く・・・。80年に入って新しいヴォーカリストにジェフ・トーマス、ギターにアラン・カーティスを加え、この時点でジョン・テイラーがベース・ギターへ転向した。
このメンバーでデモ・テープを完成させた彼らは、さっそくディスコの契約バンドとしての仕事を取りつけるが、またもやジェフとアランの脱退というアクシデントに見舞われた。
彼らは今度こそメンバーを固定しようと、メロディー・メイカー誌にメンバー募集広告を出し、オーディションを行った。そこで決定したのが72年頃から様々なバンドを転々としていたAndy Taylorアンディ・テイラー(g)であった。
またヴォーカルには、彼らが出演していたディスコで知り合ったSimon Le Bonサイモン・ル・ボンが決まった。サイモンは子役の頃からTVコマーシャルなどにも出演する傍ら、聖歌隊で歌っていた経歴を持つ。
80年暮れから、いよいよロンドンで本格始動した彼らは、すぐさま注目を浴び、レコード会社間での争奪戦の末、EMIと契約を交わした。
そして81年シングル「プラネット・アース」でレコード・デビューし、メンバー達のルックスの良さと当時流行していたニューロマンティックスのバンドということもあり、彼らは瞬く間にスターダムを駆け上がっていった。この時点のメンバーを整理しておこう。
Nick Rhodes ニック・ローズ /キーボード
John Taylor ジョン・テイラー/ベース・ギター
Simon Le Bon サイモン・ル・ボン/ヴォーカル
Andy Taylor アンディ・テイラー/ギター
Roger Taylor ロジャー・テイラー/ドラムス
同年発売されたファースト・アルバムも全英3位となり、「グラビアの美少女」(全英5位)、「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」(全英5位/全米3位)と立て続けに大ヒット・シングルも放っていった。尚、この年初来日も果たしている。
翌82年にはセカンド・アルバム「リオ」を発表し、シングルでは初の全英No.1シングル「プリーズ・テル・ミー・ナウ」や英米3位の「ユニオン・オブ・ザ・スネイク」などの大ヒットを記録した。この頃になると日本でもかなり有名になり、ファンでなくても曲は聞いたことがある程度までにはなっていた。
だが、どちらかというとアイドル・グループとしてとらえられており、かつてのクイーン同様、評論家やコアなロック・ファンからは軽視されていたのも事実だ。
彼らが、それまでの評価を見直させ、アイドルバンドから脱却するのはこの後からのこと・・・。
83年リリースのサード・アルバムも全英1位/全米4位となり、そこからのシングル「ザ・リフレックス」が初の全米No.1の大成功を収めると、今度は新人グループ“カジャ・グーグー”をバックアップし、ニックが共同プロデュースしたデビュー・アルバムとシングル「君はToo
Shy」も大ヒットを記録する。(これもかなりの名曲です)
84年チャリティー・プロジェクトの「ドゥ・ゼイ・ノー・イッツ・クリスマス?/バンドエイド」に参加しあと、ジョンとアンディがロバート・パーマー(vo)と他ジャンル(ファンク系)の黒人プレイヤー、トニー・トンプソン(元シック/ds)とプロジェクトを組み、パワー・ステーションを結成。これには驚かされた。
パンクとハードロックとファンクの融合を試みたというジョンの言葉通り、素晴らしくカッコいいサウンドで、85年発表の最初のシングル「サム・ライク・イット・ホット」1曲でノックアウトされてしまった。さすがにこれにはデュラン×2自体の音楽も見直さざるを得ないほどの衝撃を受けた。
翌85年には、パワーステーションに対抗するように、サイモン、ニック、ロジャーがア−ケイディアというプロジェクトで活動を開始。
一時は解散説まで飛び交うが、デュラン×2としても、映画007シリーズのテーマ曲「美しき獲物たち」を全英2位/全米1位に送り込み、健在ぶりを見せた。
この曲は数ある007シリーズのテーマ曲の中でも異色だが、それまでのイメージを一新する素晴らしい曲だ。個人的には(007シリーズはファンで全て観ているが)ポール・マッカートニーの「死ぬのは奴らだ」と双璧の1,2位を争うすばらしさだと思う。
だが、この年行われたライブ・エイドではデュラン×2とパワーステーションが両方出演するという異常事態が発生。アーケイディアもアルバムをリリースし、ヒット・シングル「エレクション・デイ」が生まれると、86年に入りジョンが単独で映画「ナイン・ハーフ」のテーマ曲を、アンディは元セックス・ピストルズのスティーブ・ジョーンズと組み、TV映画「マイアミ・ヴァイス」の音楽を手がけるなど、収拾のつかないほどバラバラな状態になっていった。
そして、やはりと言おうか、次のアルバム「ノートリアス」では、すでにアンディとロジャーの姿が無く、ニック、ジョン、サイモンの3人となっていた。
この後はしだいに低迷し、Warren Cuccurulloウォーレン・ククルロ(元フランク・ザッパ・バンド、ミッシング・パーソンズ/g)、スターリン・キャンベル(ds)をメンバーに入れ活動はしていたものの、話題にもならない状態になっていたが、93年突然先行シングル「オーディナリー・ワールド」(全英7位/全米3位)とアルバム「ザ・ウェディング・アルバム」(全英4位/全米7位)が大ヒットを記録する。「オーディナリー・ワールド」は80年代のデュラン×2サウンドとは違い、サイモンのヴォーカルと曲の良さを大きくフューチャーした名曲だ。
これで息を吹き返した彼らは、再び活動を活発化。3年ぶりのワールド・ツアーを敢行し来日も果たす。94年にはMTVアンプラグドに出演。95年には話題のフル・カヴァー・アルバム「サンキュー」をリリースした。ツェッペリン、デヴィッド・ボウイ、ドアーズなどをカヴァーしたこのアルバムは、アレンジも斬新で評論家達からも高い評価を得ている。
また、この95年、ジョンはセックス・ピストルズのリユニオン・イベントに参加し、ピストルズのメンバー等と共にニューロティック・アウトサイダーズと名乗るバンドで演奏を披露した。翌96年には、このバンド名義でアルバムもリリースし、再結成パワーステーションへの参加話も蹴って、このバンドのツアーに参加した。
ジョンはこのままデュラン×2へ戻ることなく脱退してしまう。
サイモンもこの年、オペラ歌手ルチアーノ・パヴァロッティ主催のチャリティー・コンサートに出演し、さらにナイル・ロジャース(元シック/g)のアルバムへも参加して話題になった。サイモンは日本で行われたナイル・ロジャースのための「JTスーパー・プロデューサーズ」イベントにも来日してステージに上がっている。
デュラン×2としては、97年映画「セイント」に曲を提供すると共に、世界で初めてインターネットによって自らの曲のダウンロードを開始した。
常に先進性を追い求めるデュラン×2サウンドの魅力
初期にはアイドル扱いされていたため、その先進的なサウンドは、すべて大手レコード会社に所属していることで良いプロデュサーやスタッフによって作られた音なのだろうと思いこんでいた。
しかし、彼らがバラバラに活動し始めた時点で、その認識は改めなくてはいけないと気づいた。あのパワー・ステーションやアーケイディアでの活躍は、“デュラン・デュラン”というブランドを脱ぎ捨ててもなお、素晴らしいプレイヤーであることを証明して見せたのだ。そしてサウンドのキーマンとなっていたのは、ジョンとニックであることも・・・。
自分の場合も、パワーステーション以降彼らを見直し、さかのぼって聞き直した口だが、よく聞くとただのヒット・メイカーではないことがわかった。
単にパンク・ロックとダンス・ビートを組み合わせ、独特のサウンド生みだしているだけではなく、一見シンプルな構成の曲の中で、高度な技を駆使していたりもする。例えば、84年に大ヒットした「ニュー・ムーン・オン・マンデー」では、曲の前半、バックの演奏をまったく無視した音程でサイモンが唄う。これはやってみればわかるが、かなり難しい。また同時期に大ヒットした「ワイルド・ボーイズ」では、リズムとヴォーカルとをずらしたりと、いろいろ凝っている。
007シリーズ映画「美し獲物たち」でも、それまでの007のテーマ曲イメージを、まったく変えてしまうようなアレンジを施しながらも、きちんとストリングスなどを使いながらツボは押さえ、007らしさは残している。これは後にプリンスが演って大ヒットしたバットマンのテーマ曲の手法などに先駆けるものだ。
もう1つ特筆すべきは、彼らはデビュー時からリミックス・ヴァージョンを出していて、それがまたえらくカッコイイ。それにより、今では珍しくもないが、クラブ・シーンから火がつき大ヒットが生まれるという図式も作り上げた。そういった意味でも現在のア−チスト達に与えた影響は計り知れないのだ。
脱退したメンバー達の行方を少し紹介しておくと、オリジナル・メンバーだったスティーヴン・ダフィ(vo)はソロ・デビューし、82年に「キス・ミー」の全英ヒットを放っている。3年後この曲はアメリカでもヒット。その後アルバムも数枚リリースし、ドクター・カリキュラムというプロジェクトやライラック・タイムというバンドを結成して活動していたが、ソロとしても活動中。
アンディ・テイラー(g)はロバート・パーマーやマイケル・デ・バレス、ベリンダ・カーライルのアルバムへ参加した後、85年にはアイアン・メイデンのアルバムを、その後ロッド・スチュワートのアルバムを数枚プロデュース。そして87年、満を持して自らのソロ・アルバム「サンダー」を発表し、全米トップ50に入る成功を収めた。さらに80年代末頃から関わっていた、その名もサンダーのプロデュースを90年代初頭に2枚連続で手がけ、ブリティッシュ・ハードの重厚なサウンドを現代へ蘇らせる素晴らしい働きをし高い評価を得た。しかし、96年にはロバート・パーマーの誘いに乗りパワー・ステーションを再結成させるも不発に終わる。
その他、ロジャー・テイラー(ds)は残念ながら、脱退後音楽界を完全に引退。ジョン・テイラー(b)は元ガンズ・アンド・ローゼズやセックス・ピストルズのメンバーらと共にニューロティック・アウトサイダーズというプロジェクト・バンドに参加した後、98年ジョン・テイラー&テロリステンというバンドを結成して活動していた。
さて、本家のデュラン×2だが、99年契約が大手のEMIからHollywood Recordsに代わってしまったものの、なおも精力的に活動し、2001年に来日。その際、2002年には黄金期のメンバーで復活することを宣言をした。そして本当にそれは実現し、この黄金期のメンバーのまま2003年に奇跡の来日、ファンを大いに沸かせた。だが、誰もがこの復活はブームに乗った金稼ぎのツアーだと思っていたことだろう。ところが彼らは2004年ニュー・アルバム「アストロノート」まで発表し、なおも活動を続行中だ!
この復活後のニュー・アルバムは、残念ながら残っていたメンバーたちがサウンドの主導権を握っているようで、アンビエント/テクノあたりからの影響が色濃い。もっとアンディのギターをフューチャーするなど、もう少しハードなアプローチを加えても面白かったのではなかろうか?
いずれにしろ、今回の復活劇は"本気"のようで、これから徐々にアンディやジョンの色がサウンドに反映されてくることを期待したい(HINE)2005.5更新
|