ロック界から見たプリンス
プリンスの音楽を語るとき、どのジャンルにも属さない変幻自在なアーチストなため、いろいろな角度からさまざまな分析がなされるが、一般的にはR&B(ソウル)、ファンク、ダンス・ミュージックなどと分類されることが多い。
しかしながら、彼の踊り(ダンス)を見た限りでは、完全に“タテのり”であり、マイケル・ジャクソンやジャネット・ジャクソン兄妹のようないわゆる黒人特有の“ヨコのり”ではない。しかも、はっきり言ってダンスはうまくないし、ラップも下手だ。
では、ロッカーなのか?と聞かれると、完全にそうとも言い切れないが、あの衝撃的なステージやジャケット写真、型破りな音楽性からは、少なくとも「ロック魂」を持つアーチストだということが分かる。だが、彼の生み出す音楽は、ジャンル分けすること自体無意味なほど多彩でアイデアに満ちている。
ロックとダンス・ミュージックを融合させた80年代の奇才
大ヒットしたシングル曲「I Wanna Be Your Lover」や「1999」で知られていた、ブラック・ミュージック界の大型新人プリンスが、突如ロック・フィールドにも姿を現し、ファン達を唸らせたのは「パープル・レイン」というアルバムの大ヒットからだった。
80年代初頭、ブラック・ファンク勢と第二次ブリティッシュ・インヴェイジョンと呼ばれるユーロ・ビートの横行で、音楽界の主流はすっかり様変わりし、既存のロックは隅に追いやられていたような状況であった。しかし、マイケル・ジャクソンと、このプリンスの出現によって状況は一変する。
マイケル・ジャクソンは元々、R&Bやダンス・ミュージックを得意とするシンガーであったが、徐々にポップスやロック・サウンドを取り入れ、万人に聞きやすいダンス・ミュージックを創り上げ、白人達からも支持を受け大成功を収めた。
一方プリンスは、黒人でありながらデビュー前からハードロックやニューウェイヴ・サウンドなどを自らが習得しており、セールスのためにあえてR&Bやダンス・ミュージックをベースにして大成功していった。
同じ頃、一部のヘヴィメタル系のバンド達の活躍により、にわかに活気を帯びてきたロック界は、この2大スターの出現によりますます盛り上がり、とりわけマイケル・ジャクソンが起用したヴァン・ヘイレンなどの大活躍によってヘヴィメタル・ブームにまで発展してゆく。またプリンスのダンス・ビートとロックを組み合わせる手法や独創的なパフォーマンスは、その後のミクスチャー・ロックやヒップホップ系アーチスト達に多大な影響を与えていくのだった。
だが、70年代の終わりには、まだマイケルもプリンスもディスコで流れる数あるダンス・ミュージックのための1アーチストでしかなかった。
1958年6月7日アメリカのミネソタ州ミネアポリスで誕生したプリンスは、ジャズ・ミュージシャンであった両親の影響で、幼い頃より音楽的には恵まれた環境に育った。本名のプリンス・ロジャー・ネルソンというのは、父親のバンド“プリンス・ロジャー・トリオ”からとられたらしい。
その後両親は離婚し、母親とともに新しい父親と暮らすようになり、この頃から内向的な性格になっていったようだ。
やがて学生時代にアマチュア・バンドを組みギタリストとして活躍。プロ・デビュー前にはすでにその才能を多方面より評価され、ギターが上手く非凡な才能の持ち主であったことから“ジミヘンの再来”と呼ばれたり、他のほとんどの楽器も巧みに操り1人で完成度の高い曲を創り上げる技術を持っていたことから、“神童”(70年代初頭にはトッド・ラングレンがそう呼ばれていた)などとも噂された。
こうして19歳にして高額でWEA(Warner/Elektra/Atlantic)との契約を勝ち取ったプリンスは、同時にプロデュースも含め、すべてを自分にまかせるという権利も獲得した・・・はずであった。ところが、この契約が後々プリンスの音楽人生を狂わせる最大の原因になるのだ。
1978年にアルバム「フォー・ユー」(日本未発売)でデビューしたプリンスは、このアルバムと翌年発表のセカンド・アルバム「愛のペガサス」では、全曲ファルセット・ヴォイス(裏声)にソフト・メロウ調のR&B系サウンド、いかにもという風貌で、まるっきりR&Bシンガーに徹していた。そして、セカンド・アルバムからのシングル「I
Wanna Be Your Lover」が全米11位の大ヒットとなり、まずは順調なスタートを切っていた。
しかし、80年リリースのサード・アルバム「ダーティー・マインド」では一転、発売禁止寸前のジャケット(^_^;に、大胆なダンス・ビートを導入したサウンド。中にはニュー・ウェイヴっぽい曲まで入っていて、自らそれまでのイメージを覆し本性を露わにした。
プリンス本人曰く、1st.と2nd.では売れるためにわざとあのようなサウンド作りをしたらしい。70年代の終わりといえばまだ、黒人はR&B、白人はロックのような先入観が業界にも色濃く残っていて、白人はR&Bっぽく唄うとかっこいいと言われるのに、黒人のロックはまったく受け入れられないという差別があった。
ロック史を振り返っても、プリンス登場以前に大活躍したロック・ミュージシャンはジミ・ヘンドリックスしかいないという状況がそれを物語る。ようするに、ジミヘンほどの衝撃度がないかぎり、黒人がロック界で認められるのは不可能なのだ。ちなみにプリンス以降にもレニー・クラヴッツ以外黒人の大物は出てこない。プリンスは最初からロック界のこういった状況を悟っていたのだろう。
ファースト・アルバムには「I'm Yours」という、かなりロックっぽい曲が入っているし、セカンドにも、どうにもハードロックにしか聞こえない「Bambi」という曲が入っていて、アルバム全体の雰囲気からは、この2曲はかなり異質だが、これが本来自分が表現したかった曲なのだろう。
この後も「戦慄の貴公子」、「1999」とサード・アルバムと同傾向のアルバムを発表し、ダンス・ミュージック・ナンバーを中心としたディスコ・シンガーとして、着実に人気を獲得していった。特にその集大成とも言える2枚組LP「1999」からはタイトル同名シングルが全米12位のヒットを記録したのを皮切りに、「Little
Red Corvette 」(6位)、「Delirious」(8位)と大ヒットを連発し、アルバム自体も最高位9位、チャート内に125週もいたという大ヒット&ロングセラーを記録した。尚、このアルバムはファンクやR&B好きのファン達からはいまだに最高傑作と囁かれている。
世界のサウンド・リーダーへ
ところが、ここでしばらく沈黙し、めずらしく2年のインターバルをおいて、84年に自伝映画とそのサントラを発表した。このサントラがその後のロックの歴史を変えてしまうほど衝撃的なアルバム「パープル・レイン」だった。(このアルバムからプリンス&ザ・レボリューション名義になっている)
とにかく、ここからのファースト・シングル「ビートに抱かれて」(When Doves Cry)はイントロのハードなギターからかっこよく、そこへノリの良いダンス・ビートとヒップ・ホップ・テイストを含んだコーラスなどを加え、ロックとダンス・ミュージックの融合を成し遂げたすばらしい曲だった。
この曲は瞬く間に全米チャートを駆け上り、見事No.1に輝いた。この勢いに乗って、つづくシングル「レッツ・ゴー・クレイジー」も1位に。これもロックンロールとダンス・ミュージックを組み合わせた曲だ。そして、それにつづくシングル「パープル・レイン」では、今度はスローでヘヴィなサイケデリック・ロック・サウンドを披露、完全に他のブラック系ミュージシャンとは一線を画すプレイヤーだということを印象づけた。
また同じ頃、R&B界の大物女性シンガー、チャカ・カーンがプリンスのセカンド・アルバムに入っていた「アイ・フィール・フォー・ユー」をカヴァーして、大ヒットを記録。コンポーザーとしてもプリンスが素晴らしい才能を持っていることを知らしめた。ちなみに86年のバングルスの大ヒット曲「マニック・マンデイ」もプリンスの作品(1999と同じコード進行という話も(^^;)
しかし、プリンスにしてみれば、本人自ら「ヒット曲を作るのなんて簡単な作業さっ!」と語っているとおり、こういったヒット・チャートを賑わすようなことは少々退屈で、これ以降アルバム毎に次々とサウンド・スタイルを変え、新たな挑戦をしていくことになる。
前作の驚異的ヒットで、「売れるアルバムを作らなくてはいけない」という精神的負担から解き放たれたプリンスは、85年彼の最高傑作とも思える素晴らしいアルバムを発表してきた。それが「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」(全米1位)で、サウンド・コンセプトを前作とはがらりと変え、サイケデリックを引きずったグラム・ロックを想わせる、ポップだがどろどろしたロック・アルバムに仕上げてきた(録音はすでに前作と同時期に終わっていたらしい)。よくファンクやR&Bのファンからは、「一変してサイケデリックなアルバムになった」と言われるが、ロック・ファンの方ならお気づきのとおり、サイケは前作から引き継いでいるもので、このアルバムではサイケのテイストは残しながらも、グラム・ロック(とりわけT・レックスや初期のデヴィッド・ボウイなど)寄りの音づくりがなされているのだ。そして次のアルバム「パレード」(86年作)ではニュー・ウェイヴやジャズ&ブラス・ロックにも挑戦している。・・・そう、彼はロックの歴史を順に振り返りながら、それらを自分流にアレンジし、新しい音楽を創造しようとしていたのだ。
このニュー・ウェイヴとジャズ・テイストにあふれるアルバム「パレード」は時間が足りなかったのか、少しこなしきれていない部分もあり、プリンス自身もシングルになった「キッス」以外誇れるものはないと語っている。しかし、この「キッス」は無駄な音を極限までそぎ落とし、必要最低限の音の組み合わせだけで“魂の鼓動と叫び”みたいなものを表現してしまった究極ソングだった。(渋谷陽一氏によるとラジカルという表現が使われている)
これにはシンプルなサウンドを目指していた本家ニュー・ウェイヴ系アーチスト達もあっと驚いただろう。ほとんど声とギター、リズムしかないのだ。
当時同じようにシンプルなサウンドで大ヒットしたスティングの「Englishman In New York」やジョージ・マイケルの「Faith」などと比較しても、そのシンプルさは群を抜いている。いずれも87年の曲なので、彼らがプリンスの手法を取り入れたのは明白だ。
「キッス」は見事全米No.1をに輝き、プリンスは名実ともに世界のサウンド・リーダーとして頂点を極めた。
また、この86年には初来日公演も果たし、テレビでもこの模様を放映した。そこでのプリンスはマイクをなめ回したり、ピアノの上に乗って、はいずり回るなど過激なパフォーマンスを見せてとても話題になった。
翌87年には2枚組のアルバム「サイン・オブ・ザ・タイムス」を発表。それまでアルバムごとに大きな変化をみせていただけに周囲はかなり期待したが、意外にもこのアルバムは、これまでの集大成的な色合いが濃く、前3作に比べて新鮮みはなかった。
チャートでも以前よりはふるわず(とは言っても6位)、それまでのような勢いは感じられなくなっていった。だが、このアルバムは評論家の一部には絶賛され評価は高い。どうやら歌詞の内容とバラエティにとんだサウンド、バンドを解散し1人でクオリティの高い作品を作り上げたことへの賞賛によるものらしい。
88年には本人の過激なセクシー・ヌード(^_^;ジャケットと、曲のトラックが選べない(つまりCD1枚まるごとが1トラックで、飛ばして聴くことができない)ことで話題になったアルバム「ラヴセクシー」を発表するが、内容はファンキー一辺倒でやはり新鮮みに欠け、ジャケットの問題もあり、全米11位までしか(普通ならこれでも大ヒットだが・・・)あがらなかった。
誰もがこれでプリンスの時代も終わったと思い始めていた。その頃制作中だった人気シリーズ映画「バットマン」のサウンド・トラックをプリンスが手がけるといったニュースにも、さほど期待はしてはいなかった。
しかし89年、映画「バットマン」の完成とともにFMから流れてきたテーマ曲は、今まで聞いたこともないような大胆なミキシング&オーヴァーダビングと出演俳優達の台詞をサンプリングして組み合わせた画期的な手法で、メチャメチャかっこいいサウンドに仕上がっていたのだ!!
このサントラ・アルバムはシングル「バットダンス」とともに見事全米No.1に輝き、久しぶりに天才プリンスの存在感を大きくアピールした。
だが、残念ながらロック・フィールドにおいては、これが彼の最後の勇姿となってしまう。尚、この年2回目の来日を果たしている。
自由獲得のための代償
その後、バック・バンドをニュー・パワー・ジェネレイション(NPG)に編成しなおし、サウンドはしだいにファンクやヒップホップ色が強まっていった。唯一ポップなナンバー「クリーム」が91年に全米No.1の大ヒットを記録した(収録アルバム「ダイアモンズ・アンド・パールズ」は3位)が、それ以降は低迷。
93年からは自らの名前をロゴマークのような「」に変えてしまい、ますます人気は衰えていった。(呼び方に困った業界は、便宜上「The
artist formerly known as Prince かつてプリンスと呼ばれたアーティスト」と呼ぶようになった)
もっともこの時期の彼は、自分に任せるという約束だったにも関わらず、セールスが落ちてきたとたん口を挟んでくるようになったワーナー側と激しい衝突を繰り返しており、アルバム作りにも力が入っていなかったという話だ。そのため創作意欲も失せ、90年代のプリンスの作品にはベスト盤や未発表音源の寄せ集めが多い。名前を変えた理由もワーナーとの確執が原因らしい。また、この時期には自由になるためにNPGのバンド名義でも活動を始め、こちらはワーナーからではなくNPG
Recordsからのリリースとし、自分名義のものより力を注いでいる。ちなみにこの「ジ・アーチスト〜」時代には95年に一度来日している。
プリンスがワーナーの束縛から解放されたのは96年になってからのこと。EMIからいきなり3枚組36曲も入っている力作を発表した。
自由な発想で、かなりプライベートなことまでを曲にしたこのアルバム「イマンシペイション」は、全米11位と3枚組としてはセールスも好調で、まずまずの再スタートとなった。
99年には、今度はアリスタから「レイブ・アン2・ザ・ジョイ・ファンタスティック」というアルバムをリリースし、往年のプリンス黄金期サウンドを蘇らせ、ひさしぶりにプロデューサー名に“プリンス”の名前をクレジットした。
2000年、いよいよ完全復活を遂げるべく、名前をプリンスに戻すことを正式に発表。2001年にはファン・クラブの会員向けに、ニュー・アルバムをインターネットでダウンロード開始。このアルバムは一部の通販でも手にはいるが、ジャケットの出来映えや評判を耳にする限りかなり期待できそうだ。
しかし依然として大手のレコード会社とは正式契約しておらず、一日も早い一般販売が待たれる。まだまだ枯れるには早すぎるプリンスの才能が次にどんなサウンドを創造してくるのか非常に注目されるところだ。(HINE) 2001.11
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