DEREK & THE DOMINOS デレク&ドミノス


クラプトンの音楽人生を変えた重要バンド

Eric Clapton エリック・クラプトン/ギター、リード・ヴォーカル
Bobby Whitlock ボビー・ウィットロック/キーボード、ヴォーカル、アコースティック・ギター
Jim Gordon ジム・ゴードン/ドラムス、ピアノ、パーカッション
Carl Radle カール・レイドル/ベース・ギター、パーカッション

極めて個人的なことだが、自分のロックとの深い関わりは、このデレク&ドミノスの名曲「愛しのレイラ」から始まっている。
アルバム自体は70年発表なので、小学2年生の子供には知る由もない。初めて聴いたのは72年にシングルとしてヒットした「愛しのレイラ」の方だった。FMから流れてきたその曲は、それまで聞いたどの音楽からも感じとれなかったエネルギーとパワーがあり、たちまち虜になった。
それまでは、クラシックやフォーク、ポップスなどしか聴いたことがなかったのだが、それでもどちらかというと、シューベルトやモーツァルトよりはベートーベンとかショパンの方が好きであったし、ミッシェル・ポルナレフの「ノンノン人形」(後にジミー・ペイジがギターを弾いていたと判明)なども大好きだったので、よりハードなものや魂を揺さぶられるようなものの方が昔から好みだったのだろうと自己分析できる。
当時はレコード・プレイヤーもカセット・デッキも持っていなかったので、唯一ラジオで流れるのを聴くしかなかったが、この「愛しのレイラ」はあちこちでしょっちゅう流れていて、その時オールマン・ブラザーズの誰かが亡くなったとかいう話も必ずされていたような気がする。
その後安いレコード・プレイヤーを買ってもらい、最初はクラシックなどをおとなしく聴いていたが、すぐにビートルズに走り(する切れるほどよく聴いていた)、小学生で周りは半ズボン姿だというのに、すでにベルボトム・ジーンズで登校していた。(^_^;
中学生になり、FMのポップスベスト10番組で、ベスト3を発表する際、バックにテーマ曲みたいなものが流れ、その1位のテーマが「愛しのレイラ」のイントロ部分だった。「わあ!これはあの名曲だ〜!」とすぐに思い出し、誰の歌かを調べると、エリック・クラプトンという人らしいというのが判明。さっそくレコード屋へ行き捜してみると、エリック・クラプトンのコーナーにはあったが、デレク&ドミノスというグループ名になっていた。
この後、いろいろ調べると、てっきりクラプトンのギターだと思っていた後半のスライド・ギターが
Duan Allmanデュアン・オールマンのものであったり、「レイラ」とはジョージ・ハリスンの奥さんパティのことだったことも分かり、音楽以上にクラプトンという人間自体に興味を抱くようになった。
前置きが長くなったが、これ以降クラプトンの大ファンになり公式アルバムはすべて購入している。しかし、この「愛しのレイラ」のアルバムだけは、実は大人になるまであまり聴いていなかった。
むしろ、「イン・コンサート」の方が好きだったが、それでもクリームブラインド・フェイス、ソロになってからのアルバムと比べれば、デレク&ドミノスのアルバムは聴いていない方だといえる。
それは、音楽的になんとなく中途半端な感じがして、あまり好きになれなかったからだ。クリームのようにパワフルなブルース・ロックでもなく、ブラインド・フェイスのような先進性も感じられない、かといってソロになってからのようなシブさもない・・・。
だが、レイラのリリース20周年を記念して発表されたCD3枚組のレイラ・セッションズから、リマスターされたオリジナル・アルバム部分が1枚に分割されて(LPでは2枚組だった)発売された時、改めて聞き直してみると、昔は気づかなかったこのアルバムの良さが分かってきた。
しかし、その魅力の大半は曲の良さや、デュアンのギター部分であり、やはりクラプトン自身の魅力ではない。クラプトンも頑張っているのはわかるのだが、唄もギターにも迷いがあり余裕がない。加えてジミ・ヘンドリックスの名曲「リトル・ウイング」のアレンジもいただけない。この曲のジミのオリジナルは素晴らしく完成度が高いので、へんにアレンジを効かさない方がよかったのではないだろうか。
しかし、クラプトンは生前のジミ・ヘンドリックスに深い友情とライバル意識を感じており、どうしても自分流のアレンジをほどこし、亡きジミに聞いてもらいたかったのだろう。ちなみにジミもまた生前、クリームの「サンシャイン・ラブ」をライブで演奏していた。

2人の天才ギタリストが己の威信を懸けて火花を散らしたセッション

1969年、アルバム1枚を残しブラインド・フェイスを去ったエリック・クラプトンは、そのブラインド・フェイスのツアーでオープニング・アクトを務めていたデラニー&ボニーと合流し、デラニー&ボニー&フレンズの一員として1年間行動を共にした。
このバンドはアメリカ南部のブルースやカントリーをサウンドのベースにしており、クラプトンはそこで、今まで自己解釈で切り開いてきたブリティッシュ・ブルース・ロックとは違う、本物のブルース・サウンドに触れてしまったのだ。
この間に発表したソロ・アルバムでも、このバンドのメンバー達をゲストに迎えて、それまでとは違う、ぐっとアメリカナイズされたサウンドで周囲を驚かせた。また、この時初めて全曲でとったヴォーカルもなかなか好評で、クラプトン本人もすっかりヴォーカリストとしての自信をつけたようだ。
そして70年、どうにもこの本物のサウンドを手に入れたくなってしまったクラプトンは、バンドからボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンの3人を引き抜き、デレク&ドミノスを結成する。
それと前後して、当時から数々の傑作アルバムを手がけていた敏腕プロデューサー、トム・ダウドから1人のアメリカ人ギタリストを紹介される。
さっそくクラプトンがそのギタリストが在籍するバンドのライブを見に行くと、その男は憧れのクラプトンを目の前に、渾身のギター・プレイを炸裂させ、クラプトンを驚愕させたという。この男こそ、後にクラプトンとギターで互角に渡り合ったとして有名になるデュアン・オールマンその人だ。
クラプトンは、特に今まで見たこともないようなボトルネック奏法
(*)を駆使したギター・ソロに魅了され、すぐに気に入って、いつかいっしょにプレイしてみたいと考えるのだった。
それが実現したのが、デレク&ドミノスのアルバム「愛しのレイラ」のためのレコーディング・セッション、俗に言う“レイラ・セッション”だ。
このセッションは数週間にも及び、すでにレコーディングを終えていた4曲以外すべてにデュアン・オールマンが参加した。
実はこのレコーディング、今までと勝手が違うサウンドに、クラプトン自身どうしていいのかわからず、途中で暗礁に乗り上げているような状態であった。ここへデュアンが加わることによって、自然にギター・バトルとなり、2人は負けじと自分のプライドを賭けて猛然とギターを弾き出し、それ以降スムーズにレコーディングが進んでいったという話だ。
このアルバムが完成し、2枚組のLPとしてリリースされたのが70年の半ば。アメリカでは、ギターの神様とアメリカ人ギタリストが互角のバトルを繰り広げているとして、大いに話題になり、シングル「ベル・ボトム・ブルース」と「愛しのレイラ」(ショート・ヴァージョン)が全米で大ヒット。レイラは全米10位、アルバムは16位を記録した。これによりデュアンとそのバンド、オールマン・ブラザーズ・バンドの名も一気に有名になった。
ところが、イギリスでの反応は冷ややかで、2枚のシングル、アルバムともにまったくチャートインしない状況であった。アメリカに魂を売った男としてクラプトンに批判的であったのか、それともあまりにも変貌を遂げたアメリカっぽいサウンドを理解できなかったのか・・・リアルタイムでは聞いていなかったので、本当のところはわからない。
その後デレク&ドミノスのUSとUKツアーにデュアンも同行。これはクラプトンの強い要望であったようだ。
実はこの時、クラプトンはデュアンに、自分のバンドへ入るよう熱心に説得をしていたという。しかし、デュアンはこれを断り、ツアー後はまた仲間達の元へと戻っていった。
これが天才ギタリスト2人の最後の競演になろうとは、いったい誰が予想したろうか・・・。71年デュアンはオートバイ事故によりその天賦の才能を使い切る前に他界した。
一方、その後クラプトンはサンタナ加入前のニール・ショーン(現ジャーニー/g)にも接触。当時まだ15歳ぐらいであったニールは、幾度かライヴで競演し、そのへんのプロ顔負けのプレーでその天才ぶりすでに発揮していた。だが、ニールからもイギリスへ行きたくないという理由でバンドへの加入を断られた。この時期のクラプトンは「神」と崇められるプレッシャーに疲れ、友やライバルを次々と失い、徐々に精神的に追いつめられていったようだ。そして、終いにはひどいドラッグ中毒により生死を彷徨い、音楽活動どころではなくなっていた。
72年まだクラプトンが療養中で、音楽活動からは遠ざかっていた頃、クラプトンの歴史を綴ったベスト・アルバムとシングル「愛しのレイラ」がアルバムと同じロング・ヴァージョンで再びリリースされ、今度は全英・全米共に10位の大ヒットを記録した。これは彼の復帰を願うファンからの熱烈なラブ・コールに他ならなかった。(レイラは1982年にも全英で突然大ヒットしトップ10入りしている。全米でも74年と76年に再びチャートイン)
翌73年には70年のUSツアーを収めたデレク&ドミノスのライブ盤「イン・コンサート」がLP2枚組としてリリースされる。また、同年ピート・タウンジェント(ザ・フー/g)、ロン・ウッド(当時フェイセズ/g)、スティーヴ・ウインウッド(元ブラインド・フェイス/kb)、リック・グレッチ(元ブラインド・フェイス/b)らクラプトンの親しい友人達が集まり、彼を励まし、音楽界復帰を願うレインボーコンサートが企画された。
この時公衆の前にひさしぶりに姿を見せたクラプトンは、やつれて生気が無かったが、それでも仲間たちは喜んで彼を迎えた。しかし、これによりすでにデレク&ドミノスの存在が消滅していることと、彼がギターの神様から1人の人間へ戻っていたのを知らされたのである。
余談だが、療養中、彼を常に影からささえていたのは、他でもない「レイラ」のモデルとなっているジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドで、数年後クラプトンとパティは結婚している。
尚、94年には「イン・コンサート」の時の音源に一部アウト・テイクや未発表テイクを含んだアルバム「ライブ・アット・ザ・フィルモア」も発売され、こちらには、クリーム時代にもライブで演奏していた名曲「クロスロード」が入っている。

一般的にはレイラを名盤だと言う声が圧倒的に多いが、ギタリスト“クラプトン”のファンの立場からはあまりお薦めできない。というのも、この時期のクラプトンはちょうどギター・スタイルを変えつつある狭間の時期で、あまりコンディションがよくないからだ。天才ギタリスト“クラプトン”の魅力を知るには、クリームのライブ盤やブラインド・フェイスのデラックス・エディションでの追加トラック、「E.C was Here」などをぜひ聴いてもらいたい。
だからといって、このアルバムが名作でないというわけではない。曲の良さや全体にアメリカナイズされながらも緊張感のある雰囲気、ジャケットのイラストなどはやはり素晴らしく、「エリック・クラプトンの」ではなく、「デレク&ドミノスの」名盤として語られるべきものだ。しかもクラプトンが全身全霊をかけて唄い、デュアンの名プレイが冴え渡る不朽の名曲「レイラ」が入っているのだから・・・(HINE)
 2005.5更新

*ボトルネック奏法=指に円筒のサックのようなものを付け、スライドさせて無段階に音程を変えるスライド・ギター奏法の一種。スライド・ギター奏法というのはそれ以前からあったが、全ての弦をスライドさせ和音にして弾くタイプが圧倒的に多かった。デュアンの弾き方は指1本分だけをスライドさせるので、他の指はミュートしてノイズを消したり、普通に弾いたりできるという高度なもの。また、ノーマル・チューニングでスライドするのも彼の特徴だ。

レイラ・セッションズ音源提供協力:大国さん


愛しのレイラ
Layla & Other Assorted Love Songs


1970年 RSO/Polydor
イン・コンサート
In Concert


1973年 RSO/Polydor
レイラ・セッションズ
The Layla Sessions


1990年 Polydor/ポリドール
ライブ・アット・ザ・フィルモア
Live at the Fillmore


1994年 Polydor/ポリドール