逆輸入されたアメリカン・ヒーロー
どうしてもこのメンバーでなければ成立しないというバンドがある。そう多くはないが、ビートルズ、クリーム、クイーン、キッスなどは、その代表例だ。
これらのバンドは、オリジナル・メンバーの内、たった1人抜けただけでも分裂、もしくは急速に人気を失っていった。それだけ各メンバーの個性が強く、バンドに対し全員が大きく貢献しているという証でもある。
チープ・トリックもまた、1人欠けても「チープ・トリック」とは認められないほどオリジナル・メンバー全員が個性的で、4人が揃ってこそ本来の持ち味を発揮するバンドだ。
Rick Nielsen リック・ニールセン/ギター
Tom Petersson トム・ピーターソン/ベース、ヴォーカル
Bun E.Carlos バニー・カルロス/ドラムス
Robin Zander ロビン・ザンダー/ヴォーカル
リック・ニールセンをリーダーに、トム・ピーターソンも加えて1968年に結成されたグリーム・リッパーズが彼らの母体となっている。このバンドはFUSEと名前を変え73年まで活動していた。
その後リックとトムはバンド結成と脱退を繰り返しすうちに、ロビン・ザンダー、バーニー・カルロスと知り合い、 74年までに現在のメンバー全員が顔を揃えたチープ・トリックが誕生している。
そして76年、エアロスミス、アリス・クーパー、スターズなどのプロデュースで数々の成功を収めていた名プロデューサーのジャック・ダグラスに見い出され、エピック・レコードと契約。翌77年に、ファースト・アルバム「チープ・トリック」でデビューを果たしている。
時期的には、パンク・ブーム勃発からハードロックの勢いは下降線をたどっていた頃で、すでにキッス、エアロスミスの子分とも言えるアメリカン・ハードのニュー・カマー達のデビュー・ラッシュも一段落した後であった。特に注目することもなく「へ〜、また新しいハードロックバンドがデビューしたの!?」ぐらいにしか気にとめていなかった。ところが、同年リリースされたセカンド・アルバムでは、ジャケットの面白さや曲の良さが日本ではかなりの評判を呼び、同じ頃デビューしたイギリスのストラップスと共に、異色の新人としてもてはやされるようになる。サウンド的にも、ファースト・アルバムでみせていたハードさは少し影を潜め、ストレートで分かりやすいハード・ポップ路線へと変化していた。
翌78年には、サード・アルバム「天国の罠」をリリースするとともに、初の日本公演を武道館で行ない、その模様はすぐにライヴ盤として、日本限定で発売された。それが、彼らの運命を変えることになる名盤「チープ・トリックat武道館」だ。
本国アメリカで、彼らの友人がこの中のナンバー「甘い罠」(I Want You To Want Me)をラジオで流したところ、突然爆発的にヒットし始め、見る見るうちに全米7位まで上昇。アルバムも日本からの逆輸入盤が飛ぶように売れ、慌てて後からアメリカでもリリースした結果、全米4位のプラチナディスクとなり、チープ・トリックの名は、あっという間に世界中へと広まったのだ。
つづく79年発表の「ドリーム・ポリス」も好調で、全米6位の大ヒットを記録。80年にはジャパン・ジャム2のメイン・アクトとして招待されることとなっていた。
ところが、この時トムとリックが音楽的な衝突を起こし、トムは結局来日せずファンをがっかりさせた。さらにこの年の夏、トムの正式脱退が発表され、以降バンドの人気は急激に下降し始める。すでにレコーディングが終わっていた次作「オール・シュック・アップ」では、かろうじて全米24位まで上昇したものの、新メンバーのJon Brandジョン・ブランド(b)を迎えてからは、どんどん勢いを失ってゆく。 しかしこの時期のアルバム、けして出来が悪かったわけではなく、むしろオリジナル・メンバー復活後(80年代後期)のアルバムより、内容は良いものもある。プロデューサーをアルバムごとにコロコロと替えるなど、彼ら自身に「迷い」が生じていた様子はあったが、ストレートでポップでユーモラスという基本路線は変えておらず、サウンドだけを聴く限り、なんで急に売れなかくなったかは理解不能だ。
トム脱退後は、本国同様、日本での人気も急降下し、ほとんど話題にならなかった。唯一86年、映画「トップ・ガン」のサントラに1曲提供した時、「あ〜、チープトリックってまだやってたんだ!?」と懐かしい想いをしたぐらいだ。だが、この曲「マイティ・ウイング」の出来映えはかなり良く、復活を予感させるものはあった。 そして88年、その予感通り、全米No.1に輝くシングル「永遠の愛の炎」(The Flame)をひっさげ、アメリカン・ヒーロー・チープトリックは我々の前に戻ってきた!しかもトム・ピーターソンが再加入(87年)しての大ヒットである。「やっぱりチープ・トリックはこの4人じゃなきゃ!」誰もがそう思ったことだろう。つづく第2弾シングルのエルヴィス・プレスリーのカヴァー曲「冷たくしないで」(Don't Be Cruel)も全米4位の大ヒットを記録し、それらを収録したアルバム「永遠の愛の炎」(Lap of Luxury)も全米18位の大ヒットとなった。これで勢いを取り戻した彼らは、この年8年ぶりの来日も果たし、ファン達を大いに沸かせた。
90年にはつづくアルバム「バステッド」を発表。ここからも「フォーリン・イントゥ・ラヴ」や「ホエア・エヴァー・ウッド・アイ・ビー」をスマッシュ・ヒットさせ、ソロでもロビンが映画「テキーラ・サンライズ」のサウンド・トラック「サレンダー・トゥ・ミー」で、ハートのアン・ウィルソンとデュエットして大ヒットさせた(全米6位)。
しかし、この後なかなかニュー・アルバムを出さず、リックはモトリー・クルーやスティーヴン・サラスといったヘヴィメタ系の連中のアルバムへセッション参加、ロビンはソロ・アルバムをリリースなど不穏な動きがつづき、一時はチープ・トリック解散も噂された。
だが、94年には、その噂を吹き飛ばす、すばらしいアルバムをリリースしてきた。そのアルバム「蒼い衝動」(Woke Up with A Monster)は、70年代のパワーが甦ったような、紛れもないチープ・トリック・サウンドで、80年代の、レコード会社の思惑によって作られたようなチープ・トリックではない。曲もほとんど外部に頼らず、レコード会社もワーナーへ移籍、プロデューサーも初顔合わせのテッド・テンプルマンだ。新鮮な環境の中でまた1からやり直し、本来のチープ・トリック・サウンドで勝負しようという、彼らの心意気が強く伝わってきた。
その後も97年にはファースト・アルバムと同じタイトルの「Cheap Trick」をリリース(こちらは便宜上「チープ・トリック1997」と呼ばれ、ジャケットも2種類存在する)するなどマイペースな活動をつづけ、2001年にも来日。日本のファンの前で変わらぬ元気な姿を見せた。だが、しばらくしてバーニーの体調が思わしくないというニュースが飛び込んできた。しかもツアーにはセッション・プレイヤーを起用しているというのだ。バーニーは昔から風貌が老けていたため、本当は若いのだというイメージがあったが、今やその風貌に見合った歳になってしまったのだな〜としみじみ時の経過の早さを痛感した。
しかし2006年、なんとスタジオ・アルバムとしては6年ぶりとなる「スペシャル・ワン」をリリースし、ファン達をホッとさせた。
もはや今の彼らに迷いはない。これからも力の続く限り、今の4人で良質なハード・ポップ・サウンドをマイペースで作り続けてゆくことだろう。第二の故郷日本のファンはいつでも彼らの帰郷を待っている。(HINE) 2005.5更新
もっと詳しく知りたい方はこちらへ→参考サイト:The
LUCKY STAR
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