Michael Lee Smith マイケル・リー・スミス/ヴォーカル
Richie Ranno リッチー・ラノー/ギター
Brenden Harkin ブレンドン・ハーキン/ギター
Peter Sweval ピーター・スウェヴォル/ベース・ギター
Joe X. Dube ジョー・メ・デューヴ/ドラムス
「キッスを売り出したロック・ステディ・プロダクションからエアロスミスを手がけたジャック・ダグラスがプロデュースしてデビュー」と聞けば、1976年という時点では誰もが注目するのは当然だった。この頃のロック界と言えば、ブリティッシュ・ロックの衰退が著しく、クイーンしか大物がいないなかで、キッスとエアロスミスという2大ビッグ・スターによって、アメリカン・ロックが完全に台頭してきたという状況下にあったからだ。
この鳴り物入りで突如現れた、生まれながらのロック・スターこそ、その名も「スターズ」であった。
さかのぼること4年前の1972年、全米第1位に輝いたシングル「ブランディ」を放った“ルッキン・グラス”というバンドがあった。しかし、1発屋で、その後たいしたヒットもなく、他のメンバーが続々と辞めていく中、オリジナル・メンバーであったピーター(b)は、新メンバーを迎えながら細々と活動をつづけていた。そして残ったメンバーがブレンドン(g)とジョー(ds)になったとき、リード・ヴォーカルを一般公募することになり、オーディションを行った。その時選ばれたのが、マイケル・リー・スミスで、彼の弟レックス・スミスも、後に“REX”というバンドを結成し、スターズのライバルとして活躍することとなる。
マイケルを迎えたルッキン・グラスは、“バンド・オブ・エンジェル”と名を改め活動するが、これも失敗に終わりレコード会社の契約も切られてしまう。
しかし、やる気のないバンドに若いマイケルがはっぱをかけ、もう1人のギタリスト、リッチー・ラノーも加え、“スターズ”と名を変えて心機一転をはかった。
そしてちょうどその頃、フィラデルフィアでキッスの前座としてライブ・ステージに立つチャンスが巡り、キッスのマネージャーに気に入られたというわけだ。
こうして1976年に最高のお膳立てをしてもらった中で彼らはデビューを果たしたのだが、ファースト・アルバムはその期待を裏切らない、素晴らしい出来であった。
キッスやエアロスミスと比べれば、少々軽い音ではあるのだが、伸びやかなマイケルのヴォーカルと乾いたサウンドは、まさにアメリカン・ハードを象徴するもので、デビュー・アルバムとは思えない完成度を誇った。まあ、ジャック・ダグラスのプロデュースに負うところも大きいのだろうが、下積み時代が長かったことで演奏も上手いし、曲の良さやインパクトのあるロゴのジャケット、ルックスなど、どこをとっても平均点以上だったのは間違いない。 さらに、ここからいきなり「デトロイト・ガールズ」がスマッシュ・ヒットし、彼らの名はいっそう高まった。
翌77年にはセカンドアルバム「灼熱の砂漠」をリリース。このアルバムでは少しポップ色が強まったものの、ファーストと甲乙つけがたい内容で、シングル「チェリーベイビー」も大ヒットし、次世代のアメリカン・ハードロックの担い手として、ますます期待は高まるばかりだった。
しかし、78年にリリースしたアルバム「黒い稲妻」で状況は一変してしまう。
このアルバムでは、バンド自らがプロデュースし、メンバー達がやりたいようにやった結果、それまでのサウンドとはかなり違う、ほとんどポップスに近い仕上がりになった。これがそれまでのファン達には受け入れられず、評論家達からも完全な自己満足アルバムとしてヒドイ罵声を浴びせられ、一挙に人気は下降した。
確かにこのアルバムでは、もうロックとは呼べないような曲もあり、それまでのハード路線とはかなり異質なサウンドではあったが、今聞くとヒドイというほどでもない。むしろマイケルのヴォーカルを中心とした新しいサウンドの魅力を内包した意欲作だったのではないだろうか。だが、ハードロック・スターとしての彼らへの周囲の期待がそれを許さなかったのであろう。
さらにこの後、すでにバンド内での主導権は失っていたものの、ルッキン・グラス時代からのリーダーであったピーターが、ブレンドンと共に脱退してしまう。
これでスターズも解散かと思われた。だが、彼らは新メンバーBobby
Messanoボビー・メッサーノ(b)とOrville Davisオアヴィル・デイヴィス(g)を加えてバンドを続行する。
そして79年、その新メンバーによるアルバム「コラシアム・ロック」をリリースした。内容的には初期のハードな路線へ戻り、いかにもスターズらしい音になっていたのだが、ほとんどレコード会社に宣伝されることもないまま、ひっそりとリリースされたため、まったく売れなかったようだ。日本ではこのアルバムの存在さえ知らなかった人も多いのではないだろうか。
時代背景的にも、70年代の末期といえば、ニュー・ウェイヴやブリティッシュ・ポップ、ユーロ・ビートの波が押し寄せてきた頃で、レコード会社はみな“新しい”そちらの方向へ力を入れていたため、この時期に活躍した中堅ハードロック・バンドのほとんどが契約を切られ、消えゆく運命であった。スターズもあと一歩大物になれず、それらのバンドと同じ運命をたどっていったといえる。
サポートを受けられず力つきた彼らは、このアルバムを最後に解散。マイケル・リー・スミスとリッチー・ラノーは新たにHell
Catsというバンドを結成し、82年にアルバムも1枚リリースするが、成功にはいたらなかった。
その後マイケル・リーはプロデュサーとしてジャーメイン・ジャクソン(マイケル・ジャクソンの兄)のアルバムなどで名前をみかける。リッチー・ラノーは自らのバンドRichie
Ranno Group(RRG)を率いて活動し、一時はダニー・ペイロネル(元ヘヴィ・メタル・キッズ〜UFO/kb)がそこへ加入したという情報もあったが、現在の消息は不明。
スターズ解散後、日本やアメリカでは、その存在さえも忘れ去られようとしているが、なぜかその後もライブ盤やレア音源を含むコンピレーションもののアルバムがUK盤で数多くリリースされている。イギリスではかなり人気があるのだろうか?
近年になっても、そういったアルバムは次々とリリースされ続け、デビュー前のデモ・テープやら、レコーディング中のリハーサル音源などかなりマニアックなものまでがリリースされた。こんな状況の中、にわかにリッチー・ラノーを中心にスターズ再結成の動きもあり、ラノーがDanger
DangerというバンドのベーシストBruno Ravelに参加を打診していたという情報もキャッチしている。
オリジナル・アルバムの方も、近年廃盤状態が続き、中古CDが高値で取引されていたが、2004年にUK盤でオリジナル・スタジオ・アルバムが相次いで再発売され、相変わらずイギリスでの人気が衰えないことを示した。そしてついにアメリカでも、先頃デジタル・リマスターされたオリジナル・アルバムがすべて再発売となった。(HINE)2005.5更新
音源提供協力:大国さん
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