Rock Princess
Graham Bonnet  written by suma

スーパー・ニヒリズム・ボーカリスト

僕がこの世でもっとも愛するボーカリスト、グラハム・ボネット。

4オクターブとも言われるダミ声ハイトーンボイスと、とてつもない地声の大きさを誇るボーカリストとしての力量は勿論、とてもHR/HMシンガーとは思えぬ短髪オールバックにサングラス、吉本新喜劇の悪役を思わせる趣味の悪いスーツ、日本において「横山のやっさん」と揶揄される独特のステージアクション、時折見せる人の良さそうな笑顔、何もかも全てをひっくるめて、僕にとってはこんなに愛すべきボーカリストは他にはいない。

1947年12月23日、イギリスのスケッグネスで生まれたグラハムのシンガーとしてのデビューは意外にも早く、1968年。
従兄弟 トレバー・ゴードンとのポップス・デュオ「Marbles」が彼の初キャリアとなっている。
Bee Geesから曲提供を受けてイギリスやオーストラリアでシングルヒットを飛ばすが、グラハムの喉のトラブルにより70年解散。以降は音楽事務所で働く傍ら75年に映画出演、音楽とは聊か離れた生活を送っていた。

しかし77年、前述の音楽事務所の薦めもあって「Graham Bonnet(邦題:スーパー・ニヒリズム)」にて初ソロデビュー。
日本ではまったくと言って良いほど売れなかったが、オーストラリアなど数カ国ではゴールドディスクを獲得する成功作となり、
二作目のソロ「No Bad Habbits」への足がかりを掴む。78年のこの作品も各国で評価され、
グラハムはソロ・ポップシンガーとしての評価を高めていく。


硬派メタル番長

1979年、Rainbowからロニー・ジェイムス・ディオが脱退。
「HR/HM最強のボーカリスト」と言われる彼の後任探しは難航を極めた。
そんな折、リッチー・ブラックモアとコージー・パウエルの二人は「曲当てゲーム」に興じる。
クレジットを隠した山のようなテープの中から、歌っているアーティストを当てるという単純なもの。
この中に、二人の度肝を抜く凄まじい声の持ち主が混じっていた。
それがグラハムの歌う「Only One Woman(Marbles)」、「Will You Still Love Me Tomorrow(1stソロ)」であった。
リッチーはすぐさま彼に白羽の矢をたて、フランスにてオーディションが行われることに。
そしてマネージャーが連れてきたグラハムのルックスは、リーゼントにアロハシャツ。
無論リッチーらRainbowのメンバーは一様に面くらい戸惑ったが、Deep Purpleの「Mistreated」をマイク無しで歌いこなすグラハムを見てその場で加入を決める。グラハムのHR/HMシンガーとしての歩みはここから始まった。

その後の活躍はHR/HMファンならご存知。"Rainbow史上最強メンバー"で製作された「Down to Earth」は、幾分アメリカ市場を睨んだポップな仕上がりになっているが、グラハム、リッチー、コージーその他、全てのメンバーがそれぞれ火花を散らす文句無しの名盤。しかし前述したポップ路線にコージーが大いに反発。
80年の「Monsters of Rock」フェスを最後に脱退してしまうことに。そしてグラハムにとっても、結果これが最後のステージとなる。
親友のコージーを失いやる気を無くすグラハムに、リッチーやロジャー・グローヴァーが反発。嫌気が差したグラハムは、「ヘヴィメタルなんて大嫌いだ」の名台詞とともにレコーディング中逃走、脱退してしまう。

しかしいくら嫌いと言っても、グラハムはメタルを歌うために生まれてきたようなもの。81年にジョン・ロード、コージー・パウエルなど豪華メンバーを向かえ、ソロ三作目「Line UP(邦題:孤独のナイトゲームズ)」を製作。
路線的にはグラハム本来の持ち味を生かしたアダルトポップスだが、当然の事ながらHR色が強くなり、シングル・カットされた「Night Games」が大ヒットを収める。気を良くしたグラハムは、このレコーディングメンバーにバンド結成を持ちかけるがそれぞれにキッパリ断られ、取り残されたグラハムは活動停止状態に。

そこへ話を持ちかけたのが、他でもない親友コージー・パウエル。
自身の所属するMSG(マイケルシェンカーグループ)へ加入要請、この誘いをグラハムが断るはずも無く、晴れてMSGのメンバーとなるが、何と加入直後に当のコージーがWhitesnake加入のため脱退。
またも取り残されたグラハムは、MSGの他のメンバーと確執を生みながらもアルバムを製作する。
そして82年に「Assault Attack」を発表。製作時のゴタゴタが嘘のように完成度の高い作品に仕上がり、ファンの間ではMSGの最高傑作に推す声も強い。しかしグラハムは、コージーのいないMSGに何の魅力も感じていなかった。
グラハム加入後初となるMSGのギグで、とてもここには書けない、情けない失態を犯してステージから逃走、そのまま脱退する。


横山のやっさん

リッチー・ブラックモア、マイケル・シェンカーと言ったHR界の最狂ギタリストにさんざ振り回されたグラハム、今度こそ自分のバンドを持ち「考える男のヘビィメタル」というコンセプトを実現するため行動に移す。
New Englandのジミー・ウォルドーとゲイリー・シェア、(悪徳)マネージャーのアンディ・トゥルーマンを順当に獲得するが、ここでギタリストに素晴らしき天才であり、とんだ疫病神でもあるあの男、イングヴェイ・マルムスティーンを拾ってしまう。
ドラムには最終的にジャン・ユヴェナが収まり、グラハム念願のMyバンド「Alcatrazz」がここに結成される。
グラハムは早速アルバム製作に取り掛かり、83年「No Parole From Rock 'N' Roll」を発表。
インギーが曲のほとんどを提供し、New England組の二人が最終的に楽曲として仕上げたこのアルバムは、爽快で高品質のHRにインギーのギターがこれでもかと唸りまくる好作。ゴールドディスクを獲得する大ヒットになる。
これにて一躍名を上げたイングヴェイは自分のバンドを結成するためさっさと脱退、しかし次に獲得したギタリストも凄かった。
クリス・インペリテリらも参加したオーディションにてグラハムが選んだのは天才的変態ギタリスト スティーブ・ヴァイ。
フランク・ザッパの元で学んだ高度な音楽理論を兼ね備え、インギーの何倍も引き出しのあるヴァイのギターは、バンドに幅広い音楽性をもたらした。しかし85年の「Disturbing the Peace」はインギーを期待するファンからこぞって無視を食らい、セールス的にはまったく成功しなかった。現在では再評価が進み、最高傑作との声もあるが…

ここで、マネージメントとの衝突が表面化する。
バンドのことを一切考えず、グラハムの調子お構いなしに公演をブッキングしまくり、ライブアルバム・ビデオを金のためだけにリリースし続け、それによって生まれた利益をほとんど自分の懐に納めていた悪徳マネージャー、アンディ・トゥルーマンをバンドはようやく見限り解雇。(ちなみにこの人物はBay City Rollersにも関わっていたことがある)
しかし時すでに遅し、グラハムの非常に調子の悪いライブを見た日本の観客からは「横山のやっさん」と揶揄され、当時まったく無名の変態ギタリスト スティーブ・ヴァイには罵声とインギーコールが浴びせられ、バンドの人気は急落してしまう。そこへ来て、今度はスティーブ・ヴァイの脱退。
いくら罵声が浴びせられようとこれほどの人物を音楽界が放って置く訳が無く、元Van Halenのボーカリスト、デイヴィット・リー・ロスのソロアルバム製作のため誘われたヴァイは、メンバーに相談。
グラハムの「おまえのためだ。是非行って来い!」の一言で快く送り出されたヴァイが今後大活躍していくのはご存知の通り。

ギターヒーローにすっかり懲りてしまったグラハム、今度は後任にダニー・ジョンソンという(グラハムにとって)理想の人物を獲得。
製作された「Dangerous Games」(86年)がとにかく売れなかった。現在でも廃盤のため入手困難だが、おそらく非常に地味なアルバムだったのであろう。これを最後にAlcatrazzは分解、解散の運びとなる。


サングラス殿様

以前からグラハムを高く評価してくれている国、オーストラリアへ一家で引越し、半ば隠居のような生活を送るグラハム。
そこへ手を差し伸べたのが、一度はオーディションで落とした音速ギタリスト、クリス・インペリテリであった。
自身のバンドImpellitteriのデモを完成させた彼だが、更なる飛躍を狙ってグラハムに接触。
当時借金に苦しんでいたと言われるグラハムはこれに快く参加し、88年にImpellitteriの1stとなる「Stand In Line」を完成させる。
「もしAlcatrazzにクリスが入っていたら…」と言った感じのサウンドはHR/HMファンから高く評価され、来日公演もこなした。(このときのパフォーマンスも色々と揶揄されているのだが…)

何があったか知らないが、またもバンドを脱退したグラハムは、オーストラリアに舞い戻りしばらく音楽界から遠ざかる。
そこに、親友コージー・パウエルから元Ian Gillan Bandのギタリスト、レイ・フェンウィックのプロジェクト「FORCEFIELD」への要請を受け、89年と90年に「To Oz And Back」「Let The Wild Run Free」に参加する。
91年にはこのレイ・フェンウィックやドン・エイリーなどのバックアップを受け、久々のソロ「Here Comes The Night」を製作。
完全にソロ1stや2ndのような大人のロックに仕上がっており、これが中々格好よい。(商業的には失敗だったが…)
その後はオーストラリアで地味な活動をしていたグラハムだが、ある事がきっかけでアメリカに渡る事に。
93年、Alcatrazzで一緒だったジミー・ウォルドーからバンド結成を持ちかけられたのだ。
ボブ・キューリックなどが参加したこの「Blackthone」、結果から言えばまったく良い方向に転ばず、アルバム「After Life」も泣かず飛ばずで世間では駄盤の烙印を押されている。
これに気分を害したグラハム、またも「ヘヴィメタルなんて大嫌いだ」の名台詞を吐いてバンドを脱退。

久し振りにグラハムが動いたのは1997年、韓国のレコード会社の企画で5枚目のソロ「Underground」が突如発表される。
しかし、知名度がサッパリ無かったこの作品はリリースすら知らなかった人が多く、売れ行きは言わずもがな。
ここのところ踏んだり蹴ったりのグラハムに、更なる悲報が舞い込む。
98年、親友であり偉大なるロックドラマーのコージー・パウエルが事故死してしまったのだ。
「ビーチボーイズが好き」という共通点で親しくなった彼ら、悲しみにくれるグラハムは翌99年、コージーに捧げる6枚目のソロ「The Day I Went Mad」を製作。これがかなりの傑作で、久々に正統派HRに回帰したサウンドは、ソロ最高傑作ともいうべきクオリティを誇り、日本においてはかなりの高評価を得た。


帰ってきたニヒリスト

そんな頃、その日本でとある話が持ち上がっていた。
ジャパニーズメタルバンドの草分け「ANTHEM」の歴代の名曲を、グラハムに歌ってもらおうと言うものだった。
彼らの熱のこもったオファーに感動したグラハムは快く参加を承諾し、2000年「Heavy Metal Anthem」をリリース。
何と12年ぶりの来日まで漕ぎ着けた。ANTHEM・グラハム双方とも久し振りのHRライブで調子は万全とは行かなかったようだが、ANTHEMにとっては再結成へ向けての布石となり、グラハムにとってもHRシンガーとしての手応えを掴んだようで無事成功に終わった。

その後グラハムは、欧州でドン・エイリーやイタリア人ギタリスト、ダリオ・モロと共に往年の名曲を披露するツアーに出かけ、カンを取り戻していった。
そしてついに、再びImpellitteriに加入することが決まったのである。2002年「SYSTEM X」をリリース。
来日公演も噂されていたが、グラハムとクリスが衝突。腰の据わりが非常に悪いグラハムさんはまたも脱退することに。

そして現在、ダリオ・モロとElectric Zooなるバンドを結成し、精力的にライブ活動を行っている。
つい最近、Alcatrazzのオリジナルギタリスト(?)との日本ツアーの計画があることも伝えられ、未だこのスーパー・ニヒリズム・ボーカリストはパワフルに突き進んでいる。ファンとしてこれほど嬉しいことはない。
来日公演はまだだろうか?どんなメンバーでも良い、グラハムさえ来てくれたら…


Discography

ライブアルバムは割愛。

1970 THE MARBLES - THE MARBLES
1977 GRAHAM BONNET - GRAHAM BONNET
1978 GRAHAM BONNET - NO BAD HABITS
1979 RAINBOW - DOWN TO EARTH
1981 GRAHAM BONNET - LINE UP
1982 THE MICHAEL SCHENKER GROUP - ASSAULT ATTACK
1983 ALCATRAZZ - NO PAROLE FROM ROCK'N ROLL
1985 ALCATRAZZ - DISTURBING THE PEACE
1986 ALCATRAZZ - DANGEROUS GAMES
1988 IMPELLITTERI - STAND IN LINE
1989 FORCEFIELD - TO OZ AND BACK
1990 FORCEFIELD - LET THE WILD RUN FREE
1991 GRAHAM BONNET - HERE COMES THE NIGHT
1993 BLACKTHORNE - AFTER LIFE
1997 GRAHAM BONNET - UNDERGROUND
1999 GRAHAM BONNET - THE DAY I WENT MAD
2000 ANTHEM - HEAVY METAL ANTHEM
2002 IMPELLITTERI - SYSTEM X