JEFFERSON AIRPLANE ジェファーソン・エアプレイン


アメリカン・ロックの離陸

グレイトフル・デッド、クイックシルバー・メッセンジャー・サービス(以下クイック・シルバー)と共にシスコの3大サイケデリック・バンドと呼ばれたジェファーソン・エアプレイン(以下エアプレイン)は、サイケデリック・ムーブメントが始まった1965年に生まれ、その終結までブームの中核をなした大物バンドで、本当の意味でアメリカのロック・バンドに市民権を与えたカリスマでもある。

もちろん自分などはリアルタイムでは知らないので、一般的な見解である“シスコの3大サイケ・バンド”だとか“サイケデリックの落とし子”だとか言われても、数々の文献などからの推測でしかないが、今も尚ニュー・アルバムがリリースされつづける状況などを見ると、いっそうそういった見解の確信を深める。
その一方、今彼らのサウンドを聞いた限りでは、サイケデリックの代名詞という感じはしない。彼らのサウンドは、むしろフォークやR&B、ブルースなどの影響が色濃く、ベーシックなアメリカン・サウンドという感じだ。
サイケというと、彼らの後を追って出現した
ジミ・ヘンドリックスドアーズが強烈なインパクトを残したため、そういったサウンドが当然典型的なものとして認識されているためなのだろうが、どうもそのサイケという認識は彼らに当てはめた場合、“歌詞”に重要なポイントがありそうだ。
いずれにしろ、正当なアメリカン・ロックの歴史を見れば、ジミヘンやドアーズはむしろその後出現するイギリスのハードロックやプログレの連中の方に多くの影響を与え、実は彼らエアプレインこそ、ビートルズを始めとするブリティッシュ・ビートに対抗するアメリカ独自のロックを創り上げたと言えるのではないだろうか。

サイケデリック元年

アメリカが北ベトナムに爆撃を開始した1965年、平和と自然を愛し東洋の思想に神秘を求めたサンフランシスコの若者達が、ドラッグで意識を拡大し、ヒッピー(社会や習慣にとらわれず自分の思うがまま暮らす人)と化し、サイケデリック・ムーブメントを巻き起こしていった。
そんな頃、アメリカの音楽界ではビートルズを始めとするイギリスのロック・バンド達が市場を席巻しており、いよいよフォークの巨匠ボブ・ディランも、エレクトリック・ギターに持ち替えたところであった。
そしてこの年、フォーク・クラブでマーティン・バリンポール・カントナーが出逢ったことから、エアプレインの母胎ができあがった。
この後ポールの知り合いで、かつて
ジャニス・ジョップリンともバンドを組んでいたことのあるヨーマ・コウコネン(g)を加え、またその彼の知り合いで・・・という具合にメンバーは自然に集まっていった。
しかし、最後まで決まらなかったのはドラム・パートで、これは当時オーディション巡りをしていたクイックシルバーのギタリスト、アレックスに無理やりスティックを持たせることで解決させた。また、コウコネンの強い要望で若干他のメンバーが入れ替えられた。
こうしてデビュー時のメンバー編成となり活動を始めると、その多様な音楽性と地元に密着した活動が話題を呼び、たちまち評判のグループとなっていった。そして当時としては破格の25,000ドルという高額でRCAレコードと契約することに成功した。レコード・デビュー時のオリジナル・メンバーを整理しておくと、
Marty Balin マーティ・バリン/ヴォーカル
Paul Kantner ポール・カントナー/ヴォーカル、ギター
Jorma Kaukonen ヨーマ・コウコネン/ギター
Alex Spence アレックス・スペンス/ドラムス
Jack Casady ジャック・キャサディ/ベース・ギター
Signe Anderson シグネ・アンダーソン/ヴォーカル
というオーダーだが、こののち目まぐるしいほどのメンバーチェンジを繰り返し、オリジナル・メンバーが次々と消えゆく中、バンド自体は、ジェファーソン・スターシップ〜スターシップとなって、アメーバーのように生き続ける長寿バンドとなってゆく。

サイケデリックの伝道師エアプレイン

シングル「イッツ・ノー・シークレット」でデビューした彼らは、翌1966年ファースト・アルバム「ジェファーソン・エアプレイン・テイク・オフ」をリリース。しかし、早くもその年アレックスが本業のギタリストへ戻るため脱退。紅一点のアンダーソンも出産のため離脱してしまうと波乱に見舞われた。
だが、これに代わってメンバー入りしたのが、ジャズ系の本格派ドラマーSpencer Drydenスペンサー・ドライデン
Grace Slickグレース・スリック(元グレイト・ソサエティ/vo)という強力な助っ人で、特にグレイスは後々バンドの中枢を担う存在にまでになるのだ。
67年にはこのスペンサーとグレイスを加えたセカンド・アルバム「
シュールリアリスティック・ピロー」を発表。すると、ここからシングル「サムバディ・トゥ・ラヴ〜あなただけを」が全米3位、「ホワイト・ラビット」が全米8位と大ヒットを連発。この2曲はいずれもグレイスの前バンドからの持ち歌であり、新入りとしては、たいへんな手みやげとなった。
これで、一躍全米のスターとなった彼らは、モンタレー・ポップ・フェスティバルへ出演するなど、さらに活躍の場を広げ、すかさずサード・アルバムもこの年に発表している。
このサードからシングル・カットしスマッシュ・ヒットした「ザ・バラッド・オブ・ユー・アンド・ミー」は、ポールの曲であり、これをきっかけに、バンドの主導権はしだいにマーティからポールへと移っていくのであった。
ポールの書く曲は社会問題や政治批判をテーマにしたものが多く、ちょうどそれが当時のヒッピー達の思想と重なり共感を呼んで、結果的にサイケデリック・ブームの先導者にまで祭り上げられることになる。
68年リリースのアルバム「クラウン・
オブ・クリエイション」では広島に落とされた原爆の写真をジャケットにし、ザ・バーズから断られたデビット・クロスビーの曲「トライアド」を採用するなど、さらにヘヴィな内容になった。
だが、しだいに政治・社会色を強めるポールに疑問を抱いてきたコウコネンとジャックは純粋に音楽を楽しむためのブルース・バンド、ホット・ツナを結成し、この頃から、エアプレインと併行して活動するようになっていった。
69年つづくエアプレインのアルバム「ヴォランティアーズ」ではグレイトフル・デッドのジェリー・ガルシア(vo)やクイックシルバーのニッキー・ホプキンス(p)がゲスト参加、デビット・クロスビースティーブン・スティルスがポールと曲を共作するなど豪華な内容で、全米13位のヒットを記録し、伝説のロック・フェスティバル“ウッドストック”へも出演したが、これをピークにバンドは分裂しだし、しだいにメンバー間の結束力もなくなって行く。
そしてついにこの年マーティーが脱退。彼は75年ジェファーソン・スターシップ時代にバンドへ返り咲き、そこでは全米5位のシングル曲「ミラクルズ」を生みだしてポールからサウンドの主導権を奪い返したのである。その後彼はソロへと転向するために、またバンドを離れていった。
同じ69年にスペンサーも抜け、彼はニュー・ライダース・オブ・パープル・セイジというバンドへ移っていった。
さらにこの時期グレイスが交通事故で重傷を負った後、ポールとの間に子供が出でき(前のバンドのメンバーと結婚していたはずだが!?(^_^;)、一時休養を余儀なくされた。
こんな状態ではエアプレインの方は、活動できるはずもなく、コウコネンとジャックはホット・ツナでの活動を増やし、70年ファースト・アルバム「ホット・ツナ」を発表してしまった。
また、ポールと復帰したグレイスまでこの年ジェファーソン・スターシップというバンド名で、アルバムを制作しはじめる始末で、もうメンバーは実質この頃にはバラバラ状態になった。
それでも、エアプレインとしては新たにヴァイオリニストのPapa John Creachパパ・ジョン・クリーチJoey Covingtonジョーイ・コヴィントン(ds)を加え、71年自主レーベルを設立したあと、アルバム「バーク」を発表した。
このアルバムの出来は良く、全米11位を記録。シングル「プリティ・アズ・ユー・フィール」もヒットしたが、実際にはソロの寄せ集め的内容で、このシングル自体、コウコネンとジャック、それにカルロス・サンタナのジャム・セッションであった。また、このアルバムに入っている「チェルシーの第3周」は、メンバーが滞在していたチェルシー・ホテルでのメンバー達の勝手な行動を歌にしたものであった。
その後、ほぼ1年活動を停止したあと、72年エアプレインとしては最後のアルバムをリリース。このアルバムでは制作途中にジョーイが脱退したため、後任ドラマーのジョン・バーベイダ(元タートルズ)とホット・ツナのサミー・ピアッツァ(ds)も参加している。
結局この年、元クイックシルバーのデビット・フライバーグ(b,kb)を迎え、エアプレインとしては久しぶりにツアーに出るが、途中でコウコネンとジャックが脱退。エアプレインはついに解散に追い込まれてしまったのである。
解散後は、このフライバーグ、グレイス、ポール、パパ・ジョンらを中心にバンドとしての活動をつづけ、74年から正式にジェファーソン・スターシップとして動き出している。
ところが、そのジェファーソン・スターシップもエアプレイン時代からの唯一のオリジナル・メンバーだったポールが離脱して、85年スターシップとなっていった。
そして、89年にはジェファーソン・エアプレインが一時的に再結成を果たし、それを期にエアプレイン最後の残党グレイスもスターシップを脱退し、ついにスターシップからエアプレインの血は完全に途絶えてしまった。
尚、再結成エアプレインの方はのアルバム一枚を残し、空中分解。次のフライトはいったいいつなのだろうか・・・(HINE)
 2001.4



Jefferson Airplane Takes Off
RCA/RVC

Surrealistic Pillow
RCA/BMGビクター

After Bathing At Baxters
RCA/BMGビクター

Crown Of Creation
RCA/BMGビクター

Bless It's Pointed Little Head
RCA/BMGビクター

Volunteers
RCA/BMGビクター

The Worst Of Jefferson Airplane
RCA/BMGビクター

ディスコ・グラフィー

1966年 Jefferson Airplane Takes Off(テイクス・オフ)*シグネ・アンダーソンが在籍した唯一のアルバムでもあるデビュー盤
1967年 Surrealistic Pillow(シュールリアリスティック・ピロー)
*グレイスが加わり全米3位を記録した彼らの出世作
1967年 After Bathing At Baxters(アフター・ベイシング・アット・バクターズ)
*サイケっぽいサウンドに変化したサード
1968年 Crown Of Creation(クラウン・オブ・クリエイション)
*より政治・社会的な内容を強め全米6位になった作品
1969年 Bless It's Pointed Little Head(フィルモアのジェファーソン・エアプレイン)
*初のライブ・アルバム
1969年 Volunteers(ヴォランティアーズ)
*ジェリー・ガルシアやニッキー・ホプキンスがゲスト参加した豪華な内容
1970年 The Worst Of Jefferson Airplane(ワースト・オブ)
*ワーストというのはジョークで、ヴォランティアーズまでのベスト盤
1971年 Bark(バーク)
*初めて自身がプロデュースした作品でもあるバンド崩壊寸前のアルバム。全米11位を記録
1972年 Long John Silver(ロング・ジョン・シルヴァー)
*彼ら最後のアルバム。全米20位を記録
1973年 Thirty Seconds Over Winterland(サーティ・セカンズ・オーヴァー・ウインターランド)
*解散後出されたライブ盤
1974年 Early Flight(アーリー・フライト)
*アルバム未収録曲を集めた編集もの
1976年 Flight Log 1966-1976(フライト・ログ)
*ホット・ツナやジェファーソン・スターシップ名義で出した曲を集めた2枚組
1987年 2400 Fulton Street(ジェファーソン・エアプレイン・アンソロジー)
*彼らが共同生活をしていた場所を題名にしたベスト盤
1989年 Jefferson Airplane(ジェファーソン・エアプレイン)
*再結成し、唯一残したアルバム
1990年 White Rabbit & Other Hits 
*映画「プラトーン」で使われた曲ホワイト・ラビットが話題になりリリースしたベストもの
1991年 Live At The Monterey Festival 
*何故かイギリスで出されたモントレー・フェスティバルのライブ盤
1994年 Love You(ラヴ・ユー)
*未発表ライブや未発表テイクを含む3枚組Boxセット
1993年 The Best Of Jefferson Airplane 
*曲数が少なく寂しい内容のベスト盤
1998年 Live At The Fillmore East 
*フィルモア・イーストのライブ盤らしいが年代など詳細は不明
1998年 Hits 
*2枚組のベスト盤
2000年 Love Songs
2001年 Somebody To Love




Bark
Grunt/RVC

Long John Silver
Grunt/RVC

Thirty Seconds Over Winterland
Grunt/RVC

Early Flight
Grunt/RVC

2400 Fulton Street
RCA/BMGビクター

Jefferson Airplane
Epic/エピック

Live At The Fillmore East
RCA/BMGビクター