JAPAN ジャパン

Written by KEN 「KENの生悟り」


ジャパンの足跡とシルヴィアンの存在

〜服を着た憂鬱〜


 曲解を恐れず宣言してしまえば、ジャパンとは即ち、David Sylvian デヴィッド・シルヴィアンのことである。
 まあ待て、反論したい気持ちも解る。でもこの発言は、ジャパンが彼のソロ・ユニットだとか言うわけではなく、飽くまで、彼が中心人物であったという意味合いでのものだ。何だかんだ言ってもロバート・フリップがキング・クリムゾンの中心人物であるように、スティーリー・ダンはウォルター・ベッカーよりドナルド・フェイゲンのイメージが強いように、ジャパンも、デヴィッド・シルヴィアンがそのバンド・イメージやソング・ライティングの大半の部分を請け負っていた、ということなのだ。
 だって、インスト以外の殆どすべての曲は、シルヴィアンによって書かれているのである。そのうえ作詞は数曲のカヴァー曲を除いて、完全にシルヴィアン。こりゃもう、彼を中心に語らねばバチが当たる。筆者は中心人物を無視してその周囲ばかりを熱愛するような、70年代クリムゾン信者のような真似はしたくないのである。
 さて、それではそのデヴィッド・シルヴィアンの書く歌とは、いかなる魅力でもって現在まで生き残っているのか。ここでは、それにスポットを当てていこうと思う。

 そもそもシルヴィアンが歌を書き始めたのは、自分自身のためである。周囲に対して興味を湧かせることができず、家族にさえ他人のような感を抱いてしまう内向的な子供。両親が読書や音楽、映画など文化的なものに対する興味がなかったため、その家庭ではそういった家や近所より外部の文化に触れる機会がなかったのだから、そうした子供に育ってしまっても無理はない。しかしシルヴィアンは、常にそういった自閉的な世界から脱出したいと願っていた。だができずに自閉的にならざるを得なかった。
 つまり、彼の精神性は子供の頃からいきなり袋小路に行き当たってしまったのだ。外の世界に出たくとも、自分を演出できるような仮面がなくては出られない。裸の自分に自信を持つことができず、いつも虚飾を重ねた自分を周囲に見せていたのだ。
 そこで彼が選んだ仮面のひとつに「音楽」というものがあった。現実逃避のために聴くようになった音楽、それも姉の影響から所謂グラム・ロックを愛好するようになり、やがてそのスター達のような化粧をまとい、歌を歌うことを夢見るようになったのだ。その仮面の着け心地が、余りにも気持ち良さそうだったから。そうして道化を気取ることで、自分を晒す術を見出そうとしたから。
 そのシルヴィアンを中心に75年、ハイ・スクール時代に結成されたのが、ジャパンである。
 メンバーは彼の実弟Steve Jansen スティーヴ・ジャンセン、学校のオーケストラでバスーンを吹いたことがある程度のMick Karn ミック・カーン、さらにRichard Barbieri リチャード・バルビエリ。そこへ『メロディ・メイカー』誌にてメンバー募集をかけたら幸か不幸か引っ掛かってしまったRob Dean ロブ・ディーンを併せ、ここにジャパンのメンバーが集まったのである。
 ディーンが「引っ掛かってしまった」というのは、なぜなら彼ら4人は音楽についてはド素人もいいところ、カーンを除いては楽器を一度も触ったことがないようなメンツばかりだったからだ。だから彼らが自分に合った楽器を見出すのにも、慣れるのにも、莫大な時間がかかった。しかし世はパンクがまとまった音楽の破壊を繰り返していた頃。だからこそ彼らは、未熟な演奏力でもレコード会社との契約を結ぶことができたのだ--その特異なスタイルのためにアリオラハンザ一社のみであったのだが。
 演奏力がなくとも、何よりも、袋小路から脱出したい。
 シルヴィアンのその願いが、時代に後押しされて実現した。

 シルヴィアンはジャパン結成直後から、その類稀なほどに現実逃避した詞を書いていた。しかし当時は、それを上回るほどのインパクトのあるケバいメイクのために、楽曲や詞に触れられる以前に嫌悪/崇拝されてしまったきらいがある。これはレコード会社の戦略であり、またシルヴィアンの「仮面」でもあったのだが、化粧というキーワードは現在でも、視線は集めることができても歌の理解者を求められないという両刃の剣である。よって、そこに自己との戦いが秘められているとは誰も気付かなかった。せいぜい「変な詞だなぁ」という程度の感慨で終わっていた。
 デビュー・アルバム『果てしなき反抗』では「黒人音楽とロックの中途半端な融合」だと罵られ、続くセカンド・アルバム『苦悩の旋律』も同様の苦い評価だけで本国イギリスからは忘れ去られてしまう。シルヴィアン自身からも「まとまりがなくてギクシャクしている」とされ、無視されてしまう可哀相な作品ではあるのだが、しかしその音楽も詞にも、着目すべき点はあった。
 ジャンルにこだわらず、黒人音楽だろうがファンクだろうが、時にはレゲエだろうが導入してしまうその素人感覚。音楽的に煮詰まっていない素人ゆえに、彼らの音楽は「どう評価していいか解らない」という特異性を持つことができたのだ。確かに崇拝か嫌悪のどちらかしか、それらには向けられなかったのだから。
 そうした音楽的模索のうちに、シルヴィアンは歌詞で現実逃避する術を得る。しかもそれは「自分の触れられなかった異国文化への憧憬」でもって具現化されているのだった。
 まず『果てしなき反抗』収録曲では、「君が黒人だったらいいのに」とぼやく「黒人ならば」だとか、「中国は共産主義でいいなぁ」と憧れる「コミュニスト・チャイナ」だとか、性愛について夢想してばかりの他の曲など……そこには現実逃避、そしてその逃避をよしとする逃避願望が根付いていた。
 それらをより押し進めたのが『苦悩の旋律』であり、やはり現実逃避は各所に散らばっている。とうとう自分を共産主義者になぞらえた「オートマティック・ガン」から、ナチスに虐待されるニガーを描く「熱きローデシア」、そして奇しくもデヴィッド・ボウイが「人を苛立たせる街だ」と歌ったベルリンをぼんやりと扱った「郊外ベルリン」。その中に、ようやくシルヴィアンが自分を晒している「孤独な安らぎ」という曲も登場する。「時々僕は気分がいやにロウになる」という強烈なフレーズが、彼が音楽の仮面を選んだことが間違いではなかったことを示したのだ。
 そのうちにジャパンは、日本でのみ成功を収める。それは両刃の剣である化粧という仮面を日本の女子が特に受け入れやすかった(こういう例は他にもあった筈だ)せいと 「取り敢えず仮に付けておいただけだった」というバンド名のせいでもあった。そうして「あんな大規模のコンサートなんて生まれて始めてで、メンバー全員足がガクガク震えていたよ」という日本武道館の来日をソールド・アウトすることになる。

 だがイギリス本国の売り上げはイマイチで、これに焦ったアリオラはジャパンの扱いを「ダンス・ミュージック」に変えようと画策。ジョルジオ・モロダーのプロデュースで「ライフ・イン・トウキョウ」という「元祖エレ・ポップ・ナンバー」を生み出させるが、その路線はあえなく失敗。しかし、その東京の生活にインスパイアされた自殺寸前の歌詞や、ディスコテックに一新された曲調は確実に彼らのマイルストーンとなる。
 その後、ロキシー・ミュージックなどの仕事で著名なジョン・パンターをプロデューサーに迎え、とうとうヨーロピアン・モダーン・ミュージックをベースに敷いた傑作『クワイエット・ライフ』が完成する。ここでは「ライフ・イン・トウキョウ」にヒントを得たと思われる「クワイエット・ライフ」や「フォール・イン・ラヴ・ウィズ・ミー」のような優秀なエレ・ポップがあり、また「絶望」「アザー・サイド・オブ・ライフ」のようなまさに「憂鬱そのもの」を具現化した曲もあり、しかし以前のようにまとまりがないわけではなく、一貫したテーマのもとに初めて「アルバムというものの完成」を迎えていた。
 そのテーマは、現実逃避。そしてそれをよしとする逃避願望。
 今までには散りばめられるだけだったそれが、全面を覆うようになったのだ。
 このアルバムでようやくバンドは充分な演奏力を得て、シルヴィアンは自分に嘘を吐かなくなった。歌詞を捏造することはやめ、逃避願望に徹底した。他人の存在を「異邦人」視し、できることなら「アザー・サイド・オブ・ライフ」を送りたい。それも「クワイエット・ライフ」を、という徹底した現実逃避が、今も現実逃避に開き直れない我々の耳と想念を刺激するのだ。
 ある種、自殺肯定アルバムでさえあるこれは、人間の、シルヴィアン自身の暗部をまじまじと見詰めた大傑作である。しかし売り上げは少しマシになった程度--本国でのチャート・インをようやく果たせたのだから充分ではあるが、やはり過小評価だ--であり、そこへ目を付けたヴァージン・レーベルから移籍の誘惑がかかるのだった。

 ヴァージンへ移籍するのはたやすいことではなかった。なぜなら、ようやく売れ出したジャパンを、アリオラが勿体ながって契約の違約金を求めたからだ。今まで誤解だらけの扱いをしておきながら何を今さら、の感もなきにしもあらずではあるが、契約違反は仕方がない。そこでジャパン側はヴァージンとの契約金殆どすべてをアリオラにたむけることで何とかそれを解決した。
 そうして移籍後に発表された『孤独な影』は、レコード・リリースを急いでいたせいもあって前作と全体像は似たエレ・ポップではあったが、そこにアフリカン・ビートが大胆に加味されるなど、着眼点は様々あった。何より坂本龍一との共作となったラスト・ナンバー「テイキング・アイランズ・イン・アフリカ」が、そのバンド名をもってイギリスと日本とを繋ぐブリッジとなっている。またここでも、遠きアフリカに想いを馳せる現実逃避願望シルヴィアンが爆発しているのだ。
 アルバムを通してエレクトロニクスとリズムが共存している傑作であり、エレ・ポップを指標としたジャパンの到達点であった。また詞の方でも、もはや開き直って自閉症状態に安住するシルヴィアンが全面に存在する。しかも演奏は今までのいくぶん様式美的きらいがあったものを、自分達なりに消化/昇華させたものばかり。これは前作を気に入った人間が気に入らない筈がない。つまり、前作の路線を踏襲しておきながらもバンドはさらなる発展を遂げ、しかもある種の到達点にまで達してしまっているのだ。
 シルヴィアンの逃避願望、というものの到達点。
 それが『孤独な影』であると、筆者は思う。

 その後、ギタリストであったディーンが脱け、ジャパンは最初の4人に戻ってしまう。けれども、これがまたバンドの発展に幸いした。バンドはエレクトロニクスよりもリズムを強調し、ジャパンの完成形へと発展する途中であったのだから。余計な虚飾を省くために、彼の脱退はもはや必然となってしまったのだ。
 そうして完成した『錻力の太鼓』では、ポップになれないリズムがアルバム全体を通して浮き立っており、気持ちの良くない、しかしそれゆえに快感的という奇妙なビートが生まれる。それは今まで漂わせてきた黒人音楽への憧れであるとか、アフリカン・ビート導入などに於けるリズムの究極形、ポリ・リズムの導入である。それを得て、ジャパンは最終形に達した。そこへオリエンタル・ビートが被さり、ジャケットや歌詞に現れる中国賛美(騙されるな、これはポーズであり、シルヴィアンの「異文化への逃避」の一端だ)も相俟って、彼らの「最高傑作」と呼ばれるに相応しい作品ができあがったのである。
 そして何より、そこに収録された「ゴウスツ」にこのアルバムの評価は集中するだろう。シングル・カットされたそれは、何と全英4位という、今までの彼らの功績からは考えられない大ヒットを飛ばす。しかもその歌詞を見れば、現実逃避願望を極めていた筈のシルヴィアンが、自分を彷徨える亡霊になぞらえ、自分の足跡を揶揄しているのだ。そう、最初は「孤独な安らぎ」で自分を晒すことを知った彼は、ここでそれを、恐れずして行えるようになった。記念碑的作品でもあり、またジャパンでは唯一の、シルヴィアンが現在に至っても愛している楽曲なのである。
 彼はようやく、仮面を着けずに自分を晒すことを憶えた。
 そうなると、彼にとっての音楽的仮面であったジャパンが不要となるのも、時間の問題であった。

 そうして完成形を迎えたジャパンは、土屋昌巳を準メンバーにしてのワールド・ツアーを行い、やがて解散に至る。それは全員の見解の一致でもあり、シルヴィアンの見解そのものでもあった。
 そうなると悔しいのはレコード会社で、ヴァージンがいろいろとシングルを出すなら話は解るが、もっと悔しがったのはアリオラだった。移籍前の音源を様々にリミックスなどして、シングルを本当に「乱発」する。これがジャパン・ファンの悩みどころである「別ヴァージョンの雑多な存在」であるのだが、当のジャパンはそれには関与していないため、どこ吹く風で解散後の活動を楽しむのだった。
 やがて91年にはオリジナルにして最終メンバー4人が集まった実質上の再結成ユニットの作品がリリースされたが、それはジャパンではなく「レイン・トゥリー・クロウ」と名付けられたことも記しておこう。もはやシルヴィアンにとっては、ジャパンは過去の仮面のひとつでしかなかったのだから……

 と、駆け足でジャパンの足跡を辿ってみたが、やはりその中心にはシルヴィアンがおり、また彼こそがジャパンであったことを再認識した。その音楽的側面からの反論があっても仕方のないことだが、それを覆せるほど、シルヴィアンの詞はバンド・イメージからバンドの歴史までを覆い尽くしていたことは事実であるのだから。
 そしてその「現実逃避願望」を、今の世だからこそ問いたい。
 うっすらと抱えるだけで、開き直れない現代人達に。
 今こそジャパンとシルヴィアンの詞が再評価され、正当な見地で論ぜられるべき時なのだ。

(KEN)
2006.4

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