FAIR WARNING フェア・ウォーニング


初めて聞くのに懐かしい、あの「メロディアス・ハード」サウンド

フェア・ウォーニングを初めて聞いたとき、どこか懐かしいような、安心できるような感じがして、そのサウンドの中に自然に引き込まれた。コアなファンからは違うと怒られるかもしれないが、この感覚はスコーピオンズを初めて聞いたときの衝撃にも似ている。
それもそのはず、あとで調べてみると、このバンドの前身は、あの初期のスコーピオンズの顔的存在であったウリ・ジョン・ロート(g)の弟ジーノ・ロートが結成したバンド「ZENO」で、リーダーはウリが脱退後結成したバンド「エレクトリック・サン」にも在籍していたウレ・リトゲン(b)、おまけにギタリストのヘルゲはウリから譲りうけたというスカイギターを操っているのだ。これではウリの影響が色濃く反映されてもおかしくない。
また、ヴォーカルのトミーの歌声も、意識的か否かはわからないが、どこかヘヴィ・ロック・ヴォーカルの最高峰クラウス・マイネ(スコーピオンズ/vo)やロニー・ジェイムスディオ(元レインボーDIO/vo)にも似た歌唱法で、オールド・ロック・ファンにも安心感を与える。
似ている、似ている、と言うと、何かコピー・バンドのような印象を与えてしまうかもしれないが、決してそんなことはない。それらのオールド・テイストをエッセンスに、高次元でバランスをとりながら、きちんとしたオリジナリティも持ち合わせているのだ。
言葉で彼らを表現するならば、ジャーマン・メタルの正当な血を受け継いだ後継者とでも言ったらいいだろうか。

ジャーマン・メタルの血統

フェア・ウォーニング結成の経緯を語るとき、どうしてもドイツにおけるロックの歴史も把握しておかねばなるまい。
60年代にイギリスで生まれたロック・ミュージックは、アメリカへ渡るとともに、ヨーロッパの周辺地域へも当然大きな影響を与えた。特にクラシック・ミュージックの聖域、ドイツ、フランス、イタリアなどではプログレを中心としたロック・バンドが次々と現れ、世界レベルに達するバンドも少なくなかった。
しかし、言語の問題などからハード・ロックとなると依然大スターは生まれず、日本の状況とそう変わるものではなかったのだ。
ところが、70年代半ば彗星のごとく現れたドイツの天才ギタリスト、マイケル・シェンカーによってその状況は一変する。ブリティッシュ・ハードの名門バンドUFOに16歳で引き抜かれたマイケルは、その後のジャーマン・メタルの基礎となる、メロディアスな曲と流れるようなギター・フレーズで、世界中のハードロック・ファンから絶大な支持を受けていった。それとほぼ同時期には、マイケルが以前在籍していたスコーピオンズにも脚光が浴びせられるようになり、ある意味マイケルよりさらにドイツらしい、ダークでヘヴィなメロディアス・フレーズの使い手、Uri Jon Rothウリ・ジョン・ロート(当時はウルリッヒ・ロートと名のっていた)の存在もクローズアップされるようになっていった。初期のスコーピオンズのサウンドは=(イコール)ウリ・サウンドとも言える、独特の暗さと叙情的メロディ、そして、ブリティッシュ・ハードの持つ魅力をすべて併せ持つ完成度の高いものであった。
70年代後半になると、ロック界ではギタリスト花形時代も終結し、各バンドはしだいにヴォーカルに比重を置く形態に変わりつつあった。スコーピオンズもこの頃ちょうどウリが脱退し、クラウス(vo)を中心とした体制(サウンドもアメリカナイズされていった)に変貌を遂げた。これが功を奏し、すでに知名度のあったスコーピオンズはアメリカでも人気が爆発。アッという間に世界的スーパースターへと躍進した。それにつづけとばかり、その後アクセプト、ハロウィンといったジャーマン・メタルの精鋭達が続々と現れ、完全にドイツのバンドも世界へ進出できるという道筋を作り上げたのだ。
一方、ウリの方は、エレクトリック・サンという3人組のバンドを結成。サイケ&プログレ色の強いヘヴィ・ロック・サウンドの中で、徹底的にギターの可能性を追求し、ついにはオリジナルのギター"スカイ・ギター"を開発、「ギター仙人」というあだ名までつけられた。そのエレクトリック・サンのベーシストとしてずっとウリと行動を共にしていたのが、ウレ・リトゲンだった。リトゲンはウリの弟Zeno Rothジーノ・ロート(g)と学生時代にバンドを組んでおり、そのへんの絡みから、ロート兄弟とは昔から親交を深めていたようだ。85年のエレクトリック・サンのラスト・アルバムには、ジーノ・ロートも参加し、このへんからリトゲンとジーノ・ロートはZENO結成に向け動き出していった。ZENOのファースト・アルバムは86年にリリースされ、その参加メンバーにはドン・エイリー(元レインボー〜ホワイトスネイク/key)の名前も見つけることができる。89年のセカンド・アルバムをレコーディングする頃には、C.C.ベーレンス(ds)、トミー・ハート(元V2/vo)、ヘルゲ・エンゲルケらもZENOに加入し、アメリカの大手レコード会社、ゲフィンとの契約寸前までこぎ着けた。(このセカンドは95年に日本発売)
ところが、ゲフィン側はヘヴィメタ・ブームにのって一稼ぎしようと、ZENOに対し真面目に取り合わなかったため契約の話は解消。このことにとても失望したジーノ・ロートはそのままZENOを辞めてしまう。
リーダー不在となったZENOの他のメンバー達は、しかたなくリトゲンを中心に活動をつづけ、ジーノの代わりにアンディ・マレツェク(g)を加え、90年にフェア・ウォーニングと名前を変える。こうして92年、アルバム「フェア・ウォーニング」で彼らはデビューしたわけだ。
このようにフェア・ウォーニングというバンドは、初めて世界に認められたジャーマン・メタルの祖「スコーピオンズ初期」の血統を脈々と受け継ぐ、現在のスコーピオンズ以上にドイツらしいバンドだと言える。

日本人好みのマイナー調メロディ

もう一度、フェア・ウォーニングのメンバーを整理しておこう。オリジナル・メンバーは、
Tommy Heart トミー・ハート/リード・ヴォーカル
Helge Engelke ヘルゲ・エンゲルケ/ギター
Andy Malecek
 アンディ・マレツェク/ギター
Ule W.Ritgen ウレ・リトゲン/ベース・ギター
C.C Behrens CC・ベーレンス/ドラムス

ファースト・アルバム「フェア・ウォーニング」は、とにかく曲が良く、日本人好みの何処となく寂しげで繊細なメロディは、多くのメロディアス・ロック・ファン達を虜にした。この中には1曲ジーノ・ロートの曲も含まれており、これもなかなかの名曲だ。
このアルバムは日本でたちまち評判を呼び、93年の「Burrn!」誌のブライテスト・ホープ第1位に輝き、この年行われた初来日公演でも彼らは熱狂的に迎え入れられた。また、この模様を収めた「ライヴ・イン・ジャパン」も同年リリースされている。
しかし、本国ドイツや所属会社WEAの反応は今ひとつで、続くセカンド・アルバムのレコーディングが94年には完了していたものの、更に念入りに曲順や曲数を絞り込んで万全を期した。新人で3年もブランクがあるなど致命的に等しいが、それさえも吹き飛ぶ完成度で、翌95年にセカンド・アルバム「レイン・メーカー」はリリースされた。
このアルバムでは、特にヘルゲ(g)の成長が著しく、スカイ・ギターの特徴であるヴァイオリンのような高音部をうまく使いこなし、絶妙なフレーズで弾きまくっている。これが多重録音によってハーモナイズされたときにはもう・・・感涙ものだ!
日本では、このアルバムも前作以上に好評で、早々とゴールド・ディスクを獲得。この年2回目の来日公演も果たしている。また、ちょうどこの頃流行していたアン・プラグドもののアルバムもこの年リリースと、順調な活動をおくっていた。
ところがこの後、とんでもない事態が待ち受けていた。これまでヘルゲと共にツイン・リードギターとして、ヘルゲに勝るとも劣らないプレイを披露していたアンディ(g)が、突然原因不明の痺れに襲われ、全身麻痺状態に陥ってしまったのだ。もちろんアンディはプレイ不能となり、休養を余儀なくされた。その間にバンドとWEAとの契約も切れ、新たにもっと熱心な日本のレコード会社"ZEROコーポレーション"と契約して再出発することになる。
97年、療養中だったアンディはあまり参加することなくニュー・アルバムは完成。そのリリースに先駆けてトミー、ヘルゲ、リトゲンがプロモーションのため来日した。その間にリリースされたニュー・アルバム「GO!」は、なんと発売5週間にしてゴールド・ディスクという快挙を成し遂げた。
その内容がまた素晴らしい!よくもまあこれだけ次から次へと良い曲が作れるものだ、と感心するほど名曲がぎっちりと詰まり、ヘルゲも1人で2人分の大活躍。トミーのヴォーカルは円熟味を増し、まったくスキがない。2年のブランクと契約問題やアンディ不在というハンディをものともしない傑作に仕上げてきたのだ。
だが、この年、3度目の来日を目前にしてCC・ベーレンス(ds)が音楽的な意見の相違で脱退。この完成されつくしたサウンドと、あまりにも目立ちすぎるヘルゲのスカイ・ギターは、メンバー間に様々な亀裂を生み始めていたのだ。
98年には、前年の日本公演と新曲入りミニ・アルバムをセットにした2枚組アルバム「ライヴ&モア」をリリース。そして、アンディ復活のライヴを日本で行った。
この後彼らはドラムはサポート・メンバーのまま、精力的にツアーをこなし、ニュー・アルバムの制作も開始するが、なんと契約会社のZEROコーポレーションが倒産するという不運に見舞われる。この日本の会社ZEROコーポレーションは他にもメロディック・メタル系の良質バンドを数多くかえていただけに、とても残念でもあるし、結果、こういったセールスに左右されない良質バンド達の可能性をつぶしてしまうのではないかと心配だ。
2000年、またもや3年ぶりというスローペースで、ニューアルバム「4-Four」をリリース。まったく、この人の才能は枯れることがないのかと思うほどのリトゲンが作り出す名曲の数々、すっかり円熟し、余裕すら感じさせるトミーの歌声、ウリ・ジョン譲りのネオ・クラシカル・フレーズまで会得し、すっかりフェア・ウォーニング・サウンドの顔となってしまったヘルゲのギター、個人的にはジャケットがちょっとプアーな感じがするが、内容は文句なくすばらしい!
このアルバムの先行シングル「ハート・オン・ザ・ラン」は日本の洋楽チャートで1位を記録し、2nd.シングル「スティル・アイ・ビリーブ」もドラマの主題歌になるなど、またもや大成功をおさめた。しかし、影が薄くなってしまったアンディは、この年の来日公演を待たずに脱退。5度目の来日公演直後、トミーもアンディの後を追うようにして脱退してしまった。元々アンディをバンドに引き入れたのはトミーであり、バンド内でも一番仲が良かったようだ。加えて、トミー本来の音楽嗜好は、V2時代にもそうだったように、もっとアメリカナイズされたものでり、ストレートなロックなのだ。フェア・ウォーニングのサウンドは本質的には好みのものではなかったのであろう。彼が脱退後結成したソウル・ドクターというバンドは、まだ未聴だが、本来の音楽嗜好を反映させたストレートなロックンロール・サウンドらしい・・・。
アンディの方は、この後カントリー系のバンドで活動中とのことだ。
解体状態になってしまったフェア・ウォーニングは、リーダーのリトゲンがウリ・ジョン・ロートのアルバムへ参加したことで、事実上解散に追い込まれた。
結局残されたヘルゲも脱退し、先に脱退したCC・ベーレンスと合流してニュー・バンド、ドリーム・タイドを結成。早くも2001年にはデビュー・アルバムをリリースし、プロモーション来日公演も果たしている。

ドリーム・タイドのサウンドを聴く限り、フェア・ウォーニングの後継者はこのバンドしかないと思わせるが、ここへきてジーノ・ロートがまた、ZENO再結成へ向け動き出している。もし、フェア・ウォーニングで、ほとんどの曲を作っていたリトゲンが、これに合流するようなことがあれば、むしろこちらの方がジャーマン・メタル継承者の本命になるかもしれない・・・。(HINE)
2002.2

音源提供協力:MSG、YUKAさん



Fair Warning
WEA/ワーナー

Live In Japan
WEAミュージック

Rainmaker
WEA/ワーナー

Live At Home
WEA/ワーナー

ディスコ・グラフィー

1992年 Fair Warning(フェア・ウォーニング)*とにかく曲がすばらしいデビュー・アルバム
1993年 Live In Japan(ライブ・イン・ジャパン)*初来日公演を収めたライブ盤
1995年 Rainmaker(レインメーカー)*ヘルゲがスカイギターを使いこなせるようになり格段に演奏レベルがアップした。名曲「バーニング・ハート」収録
1995年 Live At Home *本国ドイツでのアコースティック・ライブ
1997年 Early Warnings(アーリー・ウォーニングス92-95)*WEA時代のベスト盤
1997年 Go!(ゴー!)*ギターがヘルゲ1人でありながら、それをまったく感じさせない円熟プレイの名作
1998年 Live And More(ライヴ・アンド・モア)
*2枚組。97年渋谷公会堂でのライヴ音源+スタジオ新曲
1998年 Best(ベスト)*日本オリジナル・ベスト
2000年 4-Four(フォー)
*トミー・ハート(vo)とヘルゲ・エンゲルケ(g)の成長著しい、素晴らしい名盤
2001年 Decade Of-Complete Best(ア・ディケイド・オブ・フェアウォーニング)*過去4枚のベストに未発表テイク3曲をプラスしたもの



Early Warnings
WEA/ワーナー

Go!
Zero Co./ビクター

Live And More
Avalon/ビクター

4-Four
Avalon/ビクター