THE RUNAWAYS ランナウェイズ


世界中の男どもを悩殺した16歳の少女ロッカー達

時は1975年、ロサンゼルスでは既に敏腕プロデューサーとして名が通っていた、Kim Fowleyキム・フォーリーという人物によって、この少女ロック集団は生み出された。
フォーリーは、ひょんなことから13歳の有能な詩人Kari Kromeカリ・クロームと出逢い、それを女の子だけのグループに歌わせようと目論むのだった。
一方、スージー・クワトロを見て衝撃を受けたというジョーンは、この頃サンディと後日バングルスで活躍する
Micki Steeleミッキー・スチール(b)と共にバンドを結成した。これに、後日リタとチェリーが加わり5人組の少女ロック・バンドへと発展。しかし、19歳だったミッキーは1人、歳を取りすぎていたためか、その後バンドを脱退。そこでオーディションで選んだジャッキーをメンバーにして、ロス周辺のライブ・ハウスでランナウェイズとして演奏を始めるのだった。この時のメンバーは

Joan Jett ジョーン・ジェット/ギター、ヴォーカル
Sandy West サンディ・ウエスト/ドラムス
Jackie Fox ジャッキー・フォックス/ベース・ギター
Cherie Currie チェリー・カーリー/リード・ヴォーカル、キーボード
Lita Ford リタ・フォード/リード・ギター

76年「スターダスト」というクラブで演奏していた彼女達を発見したフォーリーは、彼女達を一目見て、自分の構想にピッタリだと驚喜し、すぐさま彼女達に支援することを申し入れた。
そして、マーキュリー・レコードと契約を交わしてきたフォーリーは、自らも曲作りに参加するなど、彼女達を全面的にサポートし始めたのである。
こうして同年アルバム「悩殺爆弾〜禁断のロックンロール・クイーン」でランナウェイズとしてデビューすると、たちまち彼女達は“平均年齢16歳”“チェリーの過激コスチューム”などで話題となり、ライブには、なんとツェッペリンのロバート・プラント(vo)やシルヴァーヘッドのマイケル・デ・バレス(vo)なども見に来るほどでになった。
このファースト・アルバム、当時は話題ばかりが先行し、ヒット曲の「Cherry Bomb」以外まともに聞いていなかったのだが、今聞き返してみると、聞き所がたくさんある。
演奏は確かに上手いとは言えないが、既にジョーンの作曲能力やリタのブルースを基本にしたギター・フレーズなどは開花しており、ただの操り人形ではなかったことを、はじめから予感させるものがある。
77年になるとセカンド・アルバム「クイーン・オブ・ノイズ」を発表し、その直後来日も果たしている。この来日の模様は「ライブ・イン・ジャパン」としてアルバムにもなっている。
ところが、この人気絶頂期にチェリーとジャッキーが相次いで脱退。特に看板ヴォーカルであるチェリーが抜けたことは、バンドにとって大きな痛手となった。後任には新たに
Vicki Blueヴィッキー・ブルー(b)を加え、リード・ヴォーカルはジョーンがとるという形でこのピンチを乗りきった。
しかし、やはりバンドとしての勢いは下降を免れず、2枚のアルバムをリリースするもまったく成功は収められなかった。
また、この頃からサウンド的にもしだいにメンバーそれぞれの個性が表れるようになり、ジョーンはパンク色が強く、リタとサンディはハードロック好きという傾向が鮮明になってきた。バンド末期リタも曲作りやヴォーカルに参加するようになると、ますますバラバラ感が強くなり、そういったことも、ランナウェイズの場合、悪い方向へと作用した。
79年には後から参加したヴィッキーも脱退し、
Laurie McAllisterローリー・マカリスター(b)に交代するが、この直後リーダーであるジョーンも脱退を表明し、同年ランナウェイズはロック界から姿を消した。

ランナウェイズ解散後

Joan Jett

Cherie Currie

Sandy West & Marie Currie

Jackie Fox

Lita Ford


チェリー・カーリーはすでに脱退後の78年にソロアルバムをリリースし、この時そっくりな双子の妹マリー・カーリーとヴォーカルで共演し話題になった。(尚、日本では「Cherie」の読み方をこの時から「シュリー」と改めていたが、本当の読み方はこちらだそうだ。チェリーはあだ名で、現在はまたチェリーと呼ばれている。)
しかし、話題のわりにセールス的に大きな成功は得られず、その後78年にイエスタデイ&トゥデイのセカンド・アルバム「ストラック・ダウン」にバック・ヴォーカルで参加したり、一時女優としても活動することになる。
80年にはマリーが当時つきあっていたというスティーヴ・ルカサー(g)らTOTOの面々から強力なサポートを受け、シェリー&マリー名義でニューアルバムをリリースする。その傍ら、チェリーは同年「フォクシー・レディ」という映画で、大女優ジョディ・フォスターとの共演も果たしている。
その後は、しばらく音沙汰がなかったが、92年に元ランナウェイズでいっしょだったドラムのサンディとともに来日し、日本の少女バンド“プリンセス・プリンセス”と共演ライブを披露した。
その他96年にハリウッドでアコースティック・ライブを行うなど、地道に音楽活動をしながら絵画などの芸術活動、女優としてもまだまだ現役で活躍している。2000年に再び来日し、単独でライブを行い、最後に「Cherry Bom」を披露したのも記憶に新しい。

チェリーと同時期脱退したジャッキー・フォックスは、その後音楽界から遠ざかり、結婚、出産と普通の家庭生活を送っている。彼女の最近の様子はホーム・ページで見ることができる。

サンディ・ウエストは最初から最後までランナウェイズに関わった1人だが、ジョーンとは音楽的に合わず、むしろ脱退したチェリーや同じハード路線が好きなリタと仲が良かったようだ。ランナウェイズ解散後は1枚シングルをリリースしているが詳細は不明。92年チェリーとともに来日した後、彼女と行動を共にしているようだ。ホームページで現在の彼女の様子を確認すると、相変わらず筋肉隆々の元気な姿を見ることができる。

解散後、最も成功したジョーンは単身イギリスに渡り、元セックス・ピストルズの面々らと親交を深め、本場のロンドン・パンクに触れて81年に帰国。ロスへ戻ったジョーンはすぐにゲーリー・ライアン(b)、リー・クリスタル(ds)、リッキー・バード(g)の3人からなるブラック・ハーツを率いて活動を始め、アルバム「アイ・ラブ・ロックン・ロール」を発表。
この中のアローズのカヴァー曲でもあるタイトル曲は、シングル・カットされると突然爆発的にヒット。なんと全米No.1に輝き7週間もその座に居座った。続くシングル「クリムソンとクローヴァー」もトップ10入りし、アルバム自体も全米2位と素晴らしい記録をうち立てた。
その後もコンスタントに出すアルバムは好セールスを記録し、シングル・ヒットとしては88年にも「I Hate Myself for Loving You」が全米8位を記録している。しかし、その後さらにパンク色を強めていった結果、コアなファン以外はついていけないような状況に陥り、セックス・ピストルズとのセッションや女性パンク集団L7とのライブ共演、93年にレイプ殺人事件の被害者となった故ミア・ザパタ(vo)が在籍していたパンク・バンド、ザ・ギッツとともにアルバム製作し、印税すべてを捜査資金に寄付したりといった話題はあったものの、ヒット・チャートの表舞台に出るようなことはなくなった。

ランナウェイズ解散後、最も変貌を遂げたのはリタ・フォードではないだろうか。解散してから3年後、突然それまでとはまったく別人とも思える容姿となって、再びロック・シーンへと舞い戻った。ランナウェイズ時代から元ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアとつき合っていると噂されていた彼女は、リッチーおじさん直伝のギター奏法にますます磨きをかけ、完全にヘヴィ・メタル路線へ移行。
ソロ・デビュー当時こそ、“往年のチェリー”顔負けのセクシーなコスチュームの方ばかりが話題となって正当評価されなかったが、ヴォーカルもアルバムを追うごとに上手くなり、セカンド・ソロ・アルバムは全米66位とまずまずのセールスを記録するようになった。
そして、88年にリリースしたアルバム「LITA」からついにビッグ・ヒットが生まれる。ここからのシングル「Kiss Me Deadly」が全米12位、さらにオジー・オズボーン(元ブラック・サバス/vo)とのデュエット「Close My Eyes Forever」が10位の大ヒットを記録した。
彼女はこの少し後にヘヴィメタル・バンドW.A.S.P.のギタリスト、クリス・ホルムスと結婚し、まさに幸せの絶頂。勢いでヘヴィ度を増した渾身の作品を次々と生み出して行くが、冷酷にも「LITA」以降はぱったりと売れなくなってしまった。
この結果にとても落胆した彼女は、所属会社も辞めてしまい、それからは静かにマイペースな活動をしている。

チェリーの活動が活発になってきた昨今、再びランナウェイズが動き出すことを期待してしまうが、なにしろリーダーであるジョーンは上の写真のような感じで、かなりイっちゃっている(^_^; 
“ランナウェイズ”を名乗るには彼女の参加が不可欠、ジョーンが1日も早くメジャー・シーンにカンバックしてくれることを願う。(HINE)
 2001.11更新



The Runaways
touchwood/マーキュリー

Queen Of Noise
touchwood//マーキュリー

Live In Japan
Mercury/フォノグラム

Waitin' For The Night
Mercury/フォノグラム

And Now The Runaways
Cherry Red/テイチク

Little Lost Girl
Rhino

The Best Of Runaways
Mercury

Neon Angels
Spm

ディスコ・グラフィー

1976年 The Runaways(悩殺爆弾〜禁断のロックン・ロール・クイーン)*衝撃のデビュー作「Chery Bomb」が大ヒット
1977年 Queen Of Noise(クイーン・オブ・ノイズ)
*来日も決まり人気絶頂だった時にリリースされたセカンド
1977年 Live In Japan(ライヴ・イン・ジャパン)
*アメリカではレア盤になっていたオリジナル・メンバー唯一のライブ・アルバム
1977年 Waitin' For The Night(ウェイティン・フォー・ザ・ナイト)
*チェリーとジャッキー脱退後ヴィッキーを迎えての作品
1978年 And Now The Runaways(クレイジー・ナウ)*US盤では初めMama Weer All Crazee Nowというタイトルだったが80年に再発
1980年 Flamin'Scoolgirls *オリジナル・メンバー時代のものだが、詳細は不明。日本未発売
1981年 Little Lost Girl 
*「クレイジー・ナウ」と同じ内容のジャケット&曲順違いらしい
1987年 The Best Of Runaways 
*今も出回っているベスト盤
1991年 Neon Angels 
*チェリー脱退後のライブ音源
1998年 Born To Be Bad *75年に録音された公式デビュー前の音源で、ミッキー・スティールとジョーン、サンディのトリオ編成時代のもの

<Cherie Currie>

1978年 Beauty's Only Skin Deep *ソロになって「シュリー」と日本語読みが改められていた。そっくりな妹マリーも参加
1980年 Messin' With The Boys
<Cherie & Marie Currie> *TOTOのメンバー達をゲストに迎えた妹マリーとの共作
1996年 Unplugged In Hollywood 1996
<Cherie Currie & Friend> *アコースティック・ライブもの。公式販売はしていません
1998年 Young & Wild
<Cherie & Marie Currie> *Beauty's Only〜とMessin With〜をまとめて編集したアルバム

<Joan Jett & The Blackhearts>

1980年 Joan Jett[Bad Reputation](バッド・レピュテーション)*本国アメリカでは翌年になってBad Reputationというタイトルで発売
1981年 I Love Rock & Roll(アイ・ラヴ・ロックンロール)*タイトル曲は全米7週間1位という超ビッグ・ヒットを記録。アルバムは全米2位
1983年 Album(アルバム)*全米20位のスマッシュ・ヒットを記録したアルバム
1984年 Glorious Results of a Misspent Youth(誘惑のブラック・ハート)
1986年 Good Music(グッド・ミュージック)
*ビリーアイドル・バンドのトミー・プライスと元ユートピアのカシム・サルトンがゲスト参加
1988年 Up Your Alley(アップ・ユア・アレイ)*シングル「I Hate Myself for Loving You」が全米8位の大ヒット。ミック・テイラー(g)がゲスト参加
1990年 The Hit List(雨をみたかい)
*カヴァー曲を集めた圭作。全米36位
1991年 Notorious(ノトリアス)
*リプレイスメンツのポール・ウェスタンバーグをゲストに迎えたアルバム
1993年 Flashback(フラッシュ・バック)
*Sex Pistolsと共演した「I Love Rock & Roll」やL7(女性パンク集団)との共演曲などを収録した裏のベスト
1994年 Pure and Simple(ピュア・アンド・シンプル)
*完全にパンクにいっちゃってます
1995年 Evil Stig(イーヴル・スティッグ)*殺人事件に巻き込まれたパンク・バンドと共演したアルバムで、印税はすべて捜査資金に寄付した
1996年 1979
 *1979年に録音されていた彼女の未発表曲を編集したアルバム
1997年 Fit To Be Tied
 *未発表曲や未発表テイクを含むソロになってからのベスト盤
1999年 Fetish *Blackheartsを再編成して再スタートしたアルバム

<Lita Ford>

1983年 Out for Blood *チェリー顔負けのコスチュームでソロデビュー(^_^;。3年の間に容姿が激変!ダイエットしたんでしょうか?(笑)
1984年 Dancin' on the Edge *全米66位のスマッシュ・ヒットを記録したセカンド・アルバム
19??年 The Bride Wore Black
1988年 Lita
 *ここからのシングル「Kiss Me Deadly」が全米12位、オジー・オズボーンとのデュエット「Close My Eyes Forever」が10位の大ヒット
1990年 Stiletto *結婚後もなんのその、よりヘヴィなサウンドにパワーアップ
1991年 Dangerous Curves *リタ入魂のこのアルバムがまったく売れなかったため落胆し、所属会社を辞めてしまうことに・・・
1992年 The Best Of Lita Ford *ソロになってからのベスト盤
1993年 Greatest Hits *RCAからリリースされたベスト盤
1995年 Black *ヒット・メーカーになることに疲れ、1人で気ままに作ったポップ・ロック・アルバム
2000年 Greatest Hits Live
 *5年ぶりにリリースされたライブ・テイクのベスト・アルバム



Born To Be Bad
Marilyn

Cherie&Marie Currie
/
The Bends
Captol

Cherie&Marie Currie
/Young & Wild
Raven

Cherie Currie
/Unplugged In Hollywood 1996
Rocket

Joan Jett&The Blackhearts
/I Love Rock & Roll

Blackheart/ビクター

Joan Jett&The Blackhearts
/Fetish
Blackheart

Lita Ford
/Lita
Dreamland

Lita Ford
/Greatest Hits Live
Dead Line