真のサザンロッカー達
アメリカ南部特有のロック“サザン・ロック”といえば、真っ先に思い出されるのはオールマン・ブラザーズ・バンドかもしれない。
しかし、今改めてオールマン〜を聞いてみると、何故だか「これって、サザン・ロック?」という印象を受ける。それはマーシャル・タッカー・バンドを聞いても同じだった。
彼らのサウンドがジャズやカントリー色が強いせいなのだろうか?・・・いや、それは本来サザン・ロックが持っている特徴なはずであり、きっとそのせいではないのだ。
それは彼らの後出現したレーナード・スキナードが、あまりにも強烈なインパクトで、レーナードサウンド=サザン・ロックというイメージを植え付けてしまったからであろう。それほど彼らの代表曲「スウィート・ホーム・アラバマ」や「サタディ・ナイト・スペシャル」は強烈だった。
もちろん、レーナードサウンドにも根底にはブルース、カントリー、ジャズ、スワンプ・ミュージックといった南部サウンド独特のものがある。しかし、それを見事なまでに消化しきって、独自の世界を築いていった。
また他のどのバンドよりも、「南部の荒くれ者」というイメージがメンバー全体に漂っているのも、サザン・ロックの代表として相応しい。
Ronnie Van Zant ロニー・ヴァン・ザント/ヴォーカル
Gary Rossington ゲイリー・ロッシントン/ギター
Allen Collins アレン・コリンズ/ギター
Ed King エド・キング/ギター
Billy Powell ビリー・パウエル/キーボード
Leon Wilkeson レオン・ウィルクソン/ベース・ギター
Bob Burns ボブ・バーンズ/ドラムス *ロバート・バーンズから改名
1964年米フロリダ州のハイ・スクールに通っていたロニー、アレン、ゲイリーの3人が結成したバンドが母胎となるレーナード・スキナードのバンド名の由来は、事あるごとに彼らを呼びつけ「髪を切れ!」とうるさく言っていた体育教師Leonard
Skinner先生の名前をもじりLynayrd Skynyrdとしたという。
最初は地元南部のクラブを中心に活動していた彼らであったが、その後他のメンバーも加えバンドが軌道に乗ると活動の場をアトランタへ移した。
そこで思いがけず、スーパー・セッションでお馴染みアル・クーパー(kb、プロデューサー)と出逢ったことから、長い下積み生活を送っていた彼らの運命は大きく変わっていったのであった。
73年たまたま南部のサウンドに興味を持ちアトランタへ訪れていたアル・クーパーは、彼らのライブを見て気に入り、構想中であった自らのレーベルの2番目の契約アーチストとして迎え入れることにした。
アル・クーパーは、既に67年全米No.1ヒットを放ったこともあるストベリー・アラーム・クロックというバンドにいたエド・キング(g)を彼らに会わせ、正式メンバーとしてバンドに無理やり加入させると、さっそく自らがプロデュースしてファースト・アルバムを制作させた。
73年中に発表されたこのデビュー・アルバムは、シングル・ヒットさえ出なかったものの、「フリー・バード」などの名曲が収録された新人らしからぬスケールの大きなサウンドで、全米27位まで上がるスマッシュ・ヒットを記録した。
74年にはつづくセカンド・アルバム「セカンド・ヘルピング」を同じ体制のまま制作し、ほぼそれ以降の彼らのサウンドのベースを創り上げた。
このアルバムからのシングル「スウィート・ホーム・アラバマ」は非の打ち所がない素晴らしい名曲で、この1曲で彼らの今の名声は築かれたといっても過言ではない。全米チャートでも8位まで上がる彼ら最大のヒットとなり、レーナード・スキナードの名は一躍世界中に知れ渡った。実はこの曲、ニール・ヤングが南部男を皮肉った曲「サザーン・マン」に対するアンサー・ソングであったというエピソードもある。
アルバム自体もこのセカンドは全米12位の大ヒットを記録し、いよいよオールマン・ブラザーズの後釜との評判が増していくのであった。またこの年、ファースト・アルバムで人気の高かった「フリー・バード」もシングル・カットされ、全米19位のヒットを記録している。
75年になるとドラムのボブが脱退し、代わりにArtimus Pyleアーティマス・パイルを迎え、サード・アルバム「ロック魂」をリリース。このアルバムではサザン・ロックの後継者ZZトップなどのサウンドにもつながるハード路線へと移行した。
そしてここからは、映画「ロンゲスト・ヤード」の挿入歌ともなった「サタデー・ナイト・スペシャル」がヒットし、アルバムは初のトップ10入りを果たした。
また、このアルバムリリース後に彼らの生みの親アル・クーパーが突然アトランタを離れ、エド・キングも脱退してしまうが、翌76年にはプロデュースにトム・ダウト(クラプトンやオールマン・ブラザーズの仕事で有名)を迎え6人組のまま、アルバム「不屈の魂」を、同年、新ギタリストにSteve Gainesスティーヴ・ゲインズを迎えライブ・アルバム「レーナード・スキナード・ライブ」をリリースし、共に成功を収め順調に活動をつづけていった。
77年になると来日も果たし、つづくアルバム「ストリート・サバイバーズ」を発表。しかしその直後に悲劇は起こった。
なんとメンバーとクルー総勢26人を載せた自家用飛行機が移動中に墜落し6名が死亡。その犠牲者の中には、ロニーとスティーブ、そしてスティーブの妹でバック・ヴォーカルをつとめていたキャシーがいたのである。このニュースは日本でも大きく報じられ、彼らのファンのみならず、ロック界全体に大きなショックを与えた。
ロニーを失った彼らは、もはや活動を再開できずにそのまま解散。ゲイリーとアレンはロッシントン・コリンズ・バンドを結成するなど、メンバーはちりぢりに分かれていった。
そして10年後・・・
88年元レーナード・スキナードのメンバー達は、突然ロニーの弟Jonnie Van Zantジョニー・ヴァン・ザント(もう1人の弟ドニーは38スペシャルというバンドで活躍)をヴォーカルにたて、ギターにはRandall Hallランドル・ホールを加えてトリビュート・ツアーを開始した。
このツアーは全米で熱狂的に支持され、翌88年にはライブ・アルバムとしてもリリースされた。
これに気をよくした彼らは、91年になるとドラムにもう1人Kurt Custerカート・カスターも加えた8人編成とし、いよいよ新生レーナード・スキナードとしての活動を正式に開始してアルバム「レーナード・スキナード1991」をリリースした。同年このメンバーで来日も果たしている。
その後も2〜3年に1枚アルバムをリリースし、メンバーチェンジを繰り返しながらも着実に活動をつづけている。
最近ではジョニー・ヴァン・ザントも独自カラーを打ち出しながら、すっかりロニーの穴を埋める働きをしている。99年時点でのメンバーを最後に付け加えておこう。
Johnny Van Zant ジョニー・ヴァン・ザント/ヴォーカル
Gary Rossington ゲイリー・ロッシントン/ギター
Billy Powell ビリー・パウエル/キーボード
Leon Wilkeson レオン・ウィルクソン/ベース・ギター
Rickey Medlocke /ギター
Hughie Thomasson /ギター
Michael Cartellone /ドラムス
参考資料&協力:moto「The
LUCKY STAR」 (HINE) 2001.5
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