アメリカンロックの礎を築いた男達
1960年代初頭、ビートルズの登場と時を同じくして、アメリカではボブ・ディランによって、フォークやカントリー・ミュージックにエレクトリック・ギターを持ち込む手法が試みられた。
それを一歩進め、現在のアメリカンロックの基礎を作ったのが、フォーク・ロックの“バーズ”、カントリー・ロックの“ニッティ・グリッティ・ダート・バンド”、そしてその中間サウンドをいくこの“バッファロー・スプリングフィールド”達であった。
彼らは、たった2年間の活動で3枚の正式アルバムしか残していないにも関わらず、メンバー達の強烈な個性によって、フォークやカントリーの他、サイケデリックやR&Bなど幅広いサウンドを生み出し、後世に多大な影響を残した。バッファローはまた現役での活動期よりもむしろ解散後に評価を得たバンドでもあった。
バッファロー・スプリングフィールド結成の経緯は、ニューヨークのカフェ・ア・ゴー・ゴー・シンガーズにいたスティルスとフューレイが、ロスでカナダ出身のフォーク・シンガー、ヤングとパーマーに出逢うことから始まった。
これにディーラーズというバンドにいたマーティンを加えHerdハードというグループをまず結成、後にバッファロー・スプリングフィールドと改名して、1966年ロスのウイスキー・ア・ゴー・ゴーで専属バンド契約を結ぶ。
そして、ちょうど同時期に出てきた“バーズ”と共にツアーを行い、アトランティックの子会社と契約。同年12月にアルバム「バッファロー・スプリングフィールド1」でデビューした。オリジナルメンバーは、
NEIL YOUNG ニール・ヤング/vo,g
STEPHEN STILLS スティーブン・スティルス/vo,g
RICHIE FURAY リッチー・フューレイ/vo,g
DEWEY MARTIN デューイ・マーティン/vo,dr
BRUCE PALMER ブルース・パーマー/b
このデビュー・アルバムは、すでにスティルスがソロで全米7位の大ヒットを記録していた「フォー・ホワット・イッツ・ワース」を収録していたが、80位に終わっている。また、この直後ドラッグで体を壊したパーマーはカナダへ帰ってしまったため、JIM FIELDERジム・フィルダー(b/後ブラッド・スエット&ティアーズ)がバンドに加わった。2枚目に予定されていた幻のセッション・アルバム「スタンピード」で彼のプレイを聞くことができるが、このアルバムは理由は不明だが、発売が取りやめとなり後に海賊版として出回った。
正式なセカンド・アルバムは同67年にリリースされた「バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン」。このアルバムは全米44位にとどまったものの、評論家達の間では、ビートルズの「サージェント・ペパー〜」に対するアメリカの返答だとして高い評価を受けた。
67年末、レコーディング中時々代わりにベースを弾き、プロデューサーでもあったJIM MESSINAジム・メッシーナ(b/後ポコ、ロギンス&メッシーナ)が正式にメンバーとして加わったが、スティルスとの口論の末ついにキレてしまったヤングがバンドを飛び出してしまったことで、バンドは68年に解散に追い込まれてしまう。
その直前、バンドは実質上解体状態にある最中、メッシーナが「スタンピード」に収録されるはずだった曲やメンバーが個々に録音していた曲などを寄せ集めて、なんとかサード・アルバムをリリースした。しかし、これがラスト・アルバムとなってしまい、スティルスはクロスビー・スティルス&ナッシュ(CS&N)へ、メッシーナとフューレイはポコへ、マーティンはメディシン・ポールというバンドへとバラバラに散っていった。尚、ヤングはその後、スティルスと仲直りしてCSN&Yとして活動を共にしていることから、バッファロー結成当時から絶えなかったスティルスとの喧嘩は音楽的な意見の食い違いであり、お互いの才能は認め合っていたことがわかる。(HINE) 2000.10
|