ALLMAN BROTHERS BAND オールマン・ブラザーズ・バンド


“サザンロックの雄”誕生

「ママ、僕はヒット・レコードなんか作るつもりはないよ。どこへ行っても同じ曲を演奏しなきゃならないなんていやだ。有名になんかなりたくない。お金も欲しくない。毎日ハラいっぱいの食べ物があって、ギターをかきならすことができるんだったら、それで満足だよ」
・・・とは、南部のローカル・バンドでクラブ回りをしていた17歳の頃にデュアンが母親に言った言葉。
この言葉こそが何よりもオールマン・ブラザーズのバンドとしてのあり方の原点だ。

グレッグと兄デュアンはまだローカル・バンドで、セントルイスのクラブに出演していた頃、たまたまコンサートでやってきたニッティ・グリッティ・ダート・バンド(彼らも1曲ヒットを放っていたが、まだまだ無名であった)のマネージャーに気に入られ、ロサンゼルスに渡り、アワーグラスというバンド名で1967年にアルバムをリリースした。
このバンドはまったく売れなかったが、当時バッファロー・スプリングスフィールドのメンバーであったスティーブン・スティルスニール・ヤングから賞賛の声を浴びるほど、ミュージシャン仲間からは高評価を受けた。
しかし、ポップなサウンドで売り込もうとするレコード会社と自分たちの音楽を追究したい彼らの意見がまったく合わず、2枚のアルバムのみでこのバンドは解散。都会の生活に疲れ切ったオールマン兄弟は故郷のデイトナに戻り、またローカル・バンドを結成するのであった。
この時のメンバーに
ブッチ・トラックや後にCOWBOYというバンドで活躍するスコット・ボイヤー(g/vo)もいた。(COWBOYの音源はポリドールから出ているベスト・オブ・カウボーイがあり、マーシャル・タッカー・バンドのトイ・コールドウェル(g)らといっしょにデュアンも名を連ねている)
また、この頃からデュアンはセッション・ミュージシャンとしても活躍し出し、ウィルソン・ピケット、アレサ・フランクリン、ボズ・スキャッグス、デラニー&ボニー等、数多くの有名ミュージシャンと共演し、メキメキとギターの腕を上げた。
そんな中デュアンは1969年、ニュー・レーベル発足(キャプリコーン)の準備をしていた故オーティス・レディングのマネージャーから、第1号のミュージシャンとして誘われ、バンド・メンバーまで紹介された。その推薦メンバーこそ
ベリー・オークレーであったのだ。
オークレーは以前のバンド仲間
デッキー・ベッツジェイ・ジョニー・ジョンソンを連れてやってきた。デュアンもその後ロスで作曲家として働いていたグレッグを引き戻し、ここで6人は顔を揃えることになる。オリジナル・メンバーを整理しておくと、
Duane Allman
 デュアン・オールマン/ギター
Gregg Allman
 グレッグ・オールマン/キーボード、ヴォーカル
Dickie' Betts ディッキー・ベッツ/ギター、ヴォーカル
Berry Oakley ベリー・オークレー/ベース・ギター
Butch Trucks ブッチ・トラックス/ドラムス
Jai Johanny Johanson ジェイ・ジョニー・ジョンソン(ジェイモ)/ドラムス
というラインアップだ。
こうして同年設立されたばかりのキャプリコーンからオールマン・ブラザーズ・バンドとしてアルバム・デビューした。
このアルバムは南部を中心に“スワンプ・ロック”と呼ばれ評判にはなったが、ツー好みの彼らのサウンドは一般には受け入れられるものではなかった。
そして70年に彼らのセカンド・アルバムのリリースと時を同じくして、デュアンはエリック・クラプトン率いるデレク&ドミノスとのレイラ・セッションに参加し、この時の模様がアルバム「愛しのレイラ」として発売された。
これが一夜にしてオールマン・ブラザーズをロック界の大スターに押し上げることになろうとは、あえてヒット曲を作ってこなかった彼ら自身、夢にも思わなかっただろう。
クラプトンもまた、このセッションによって、その後の音楽人生までも大きく左右されることになる。クラプトン自身後でこの時のことを次のように語っている。
「僕の人生には沢山の複雑なことがあった。そんなことを僕は曲にしている訳だけど、その一方で計り知れない絆が生まれたりしたんだ。Duaneと出会ったこともそう。僕が彼をバンドに引き抜こうとしていたことは知ってるかい?彼はDerek&Dominosといっしょにツアーしてたんだ。つまり、僕は彼を盗んでしまおうとした訳だ。デュアンのスライドギターが及ぼした影響は多くはないよ。何故なら、僕は単に吸収することができなかったから。彼はスタンダード・チューニングでもボトルネックで弾いていた。いつもduaneはあの7thの音を出しててね、でも僕はそれを認めていなかったんだ。僕は今までの伝統に習って演奏するべきだと思っていたからね。だけどそんな考えは、彼がインプロバイザーだという事実がもの凄く好きだったから、 吹っ飛んでしまったよ。知っての通り、彼は素晴らしく才能に溢れていたよ。」この内容でもわかるとおり、クラプトンにとっても他の多くのロック・ギタリスト達にとっても、デュアンの出現はとても衝撃だったのだ。そして、彼のスライド・ギター奏法はボトル・ネック奏法と呼ばれ、当時ギターをやっていた者なら誰もが彼をマネて、金属のパイプの中に指を入れて弾いてみたものだ・・・。
このデュアンのデレク&ドミノスのアルバムでの歴史に残る名演とシングル曲「愛しのレイラ」のビッグ・ヒットによって、デュアン・オールマンとオールマン・ブラザーズ・バンドの名は一躍世界中に知れ渡った。
そして、翌年彼らはレコード会社の反対を押し切って2枚組のライブ・アルバム「フィルモア・イースト・ライヴ」をリリースし、これも全米15位の大成功を収める。このアルバムは2枚組でありながら全7曲と、長時間のインプロヴィゼイションを中心とした異色のアルバムであったが、ライブで真価を発揮する彼らの魅力が充分に伝わる名作であった。
この頃すべてがうまくいっているように見えた彼らであったが、その直後に悲劇は起こった。
71年10月ニュー・アルバムのレコーディング中の休暇に愛用のバイクに乗ったデュアンがトラックを避け損なって横転。わずか24年の短い生涯を閉じてしまったのである。自己の音楽に対する信念を貫き通したまま、やっと成功を収め、まさにこれからという時に・・・。

悲運と引き替えの名声

リーダーがいなくなったバンドは、もはや解散かと思われたが、ブラザーとしての結束は堅く、デュアンの意志を継いですぐに活動を再開した。
そして、72年既にデュアンの生前録音してあった3曲と新曲、未発表ライブを組み合わせたアルバム「イート・ア・ピーチ」をリリース。これが全米4位までまであがる大ヒットとなった。
しかし、さらに悲劇はつづくのである・・・。
なんとデュアンの死を誰よりも悲しんでいたベリー・オークレーが、この年デュアンが事故にあったすぐ近くで同じようにバイクで事故を起こし他界した。デュアンの命日と同じ10月のことであった・・・・。
この後、新メンバーに
Lamar Williamsラマー・ウィリアムズ(b)とChuck Leavellチャック・リーヴェル(kb)を迎え、73年さらにレス・デューディック(g)をゲストにアルバム「ブラザーズ&シスターズ」を発表。ディッキー・ベッツ色が強くなったこのアルバムは「ランブリング・マン」の大シングル・ヒットを生み、アルバムも全米1位まで上り詰めた。
だが、この頃からメンバー間で音楽的な意見が食い違うようになり、バンドの活動と平行して、グレッグとディッキーがそれぞれソロ・アルバムを出すという事態に発展した。
さらに76年には麻薬問題でグレッグが自分が捕まるのを恐れてバンドのロード・マネージャーを検察に売ったとして、メンバー全員が共にプレイすることを拒否したため、バンドの解散は決定的となった。
それ以降、グレッグはソロで、当時彼の妻だったシェール(超セクシー女性ロッカーとしても有名)と共にアルバムをリリースしたり、ツアーを行ったりしていた。この時2人で来日も果たしている。
一方、ディッキーも「グレイト・サザーン」というバンドを結成。ラマーとジェイモとチャックはフュージョン・バンド「シーレベル」を結成。残るブッチは大学へ通ったあと「トラックス」を結成とそれぞれの道を歩んでいった。
ところが、79年グレッグ、ディッキー、ジェイモ、ブッチに元グレイト・サザーンのドン・トーラー(g)とルーク・ゴールドフライズ(b)を加えて突然オールマン・ブラザーズ・バンドとして復活。しかし、キャプリコーン・レーベルの倒産などもあり、バンドは軌道に乗らぬまま81年に再び解散した。
しかし、89年になると、今度は本格的に復活し、トム・ダウトをプロデューサーに迎えてアルバムをリリースしたり、ウッド・ストック'94へ参加するなど精力的な活動をつづけている。2度目の再結成メンバーは、
Gregg Allman グレッグ・オールマン/ヴォーカル、オルガン
Dickie' Betts ディッキー・ベッツ/ギター、ヴォーカル
Butch Trucks ブッチ・トラックス/ドラムス
Jai Johanny Johanson ジェイ・ジョニー・ジョンソン/ドラムス
Warren Haynes ウォーレン・ヘイズ/ヴォーカル、ギター
Allen Woody アレン・ウッディ/ベース・ギター
Johnny Neel ジョニー・ニール/キーボード

その後さらに
Mark Quinones(パーカッション)を加え、ウォ−レンは脱退。Jimmy Herringがメンバーとなっている。そしてなんとディッキーがクビになってしまったという話も最近聞かれるが・・・真相は!?。
また彼らは95年、見事ロックンロール殿堂入りも果たしている。

デュアン・オールマンが一躍脚光を浴びるようになった当時、まだ小学生高学年で、ちょうど「愛しのレイラ」を聞いてロックに目覚めた頃だった。子供心にもデュアンのボトルネック奏法はカッコイイな〜と思えたが、オールマン・ブラザーズ・バンドの大人っぽいサウンドは当然理解できるはずもなく、近頃聞き返してみて、改めてその凄さを発見した。
今聞いても、ギタリストとして絶頂期のクラプトンと互角に渡り合える腕前を持っていたデュアンと並のギタリスト、ディッキーでは、腕の差が歴然だが、サウンド・クリエーターとしてのディッキーには素晴らしいモノがあった。常にデュアンやグレッグの影に隠れて見逃しがちだが、名曲「エリザベス・リードの追憶」などは彼の作品であり、あのフュージョン・サウンドを70年代初頭に作っていたというのは驚きだ。またカントリー調の曲も得意で、大ヒットした「ランブリン・マン」も彼が生み出した名曲だ。デュアン亡き後はグレッグよりもむしろディッキーこそがバンドのサウンド・リーダーであり、彼の作り出した曲はデュアンのギターと同じように今も尚、色褪せることなく輝いている。(HINE) 
2001.3




The Allman Brothers Band
Atco/PolyGram

Live At Fillmore East
Capricorn/PolyGram

Eat A Peach
Capricorn/PolyGram

Brothers And Sisters
Capricorn/PolyGram

Win, Lose, Or Draw
Polydor/PolyGram

Wipe The Windows-Check The Oil-Dollar Gas
Polydor/PolyGram

Enlightened Rogues
Polydor/PolyGram

ディスコ・グラフィー

1969年 The Allman Brothers Band (オールマン・ブラザーズ・バンド)*カプリコーン・レーベル第1号となったデビュー作
1970年 Idlewild South(アイドルワイルド・サウス)
*名曲「エリザベス・リードの追憶」を収録
1971年 Live At Fillmore East(フィルモア・イースト・ライブ)
*デュアンのカリスマ的ギターが炸裂した彼らの代表作
1972年 Eat A Peach(イート・ア・ピーチ)
*デュアンの追悼盤になってしまった名盤。「Melissa」はデュアンへ捧げられたもの
1973年 Brothers And Sisters(ブラザーズ&シスターズ)
*第2のデュアンと名高いレス・デューディックが参加。名曲「ジェシカ」収録
1975年 Win, Lose, Or Draw(ウイン・ルーズ・オア・ドロウ)*ディッキーのインストゥルメンタル名曲「ハイ・フォールズ」収録
1975年 The Road Goes On Forever(栄光への道のり)
*おそらくベスト盤でしょう・・・?
1976年 Wipe The Windows-Check The Oil-Dollar Gas(熱風)
*デュアンとオークレー亡き後のライブ盤
1979年 Enlightened Rogues(いま、再び…)
*再結成後にリリースされ、トップ10入りを果たすが、その直後にカプリコーンが倒産
1980年 Reach For The Sky(リーチ・フォー・ザ・スカイ)
*Aristaに移籍しての初作品
1981年 Brothers Of The Road(ブラザーズ・オン・ザ・ロード)
*これもアリスタ時代の作品だがセールス的に伸び悩みんだ
1981年 Best Of Allman Brothers Band 
*ポリドールからのベスト盤
1990年 Seven Turns(セブン・ターンズ)
*再々結成後トム・ダウトをプロデューサーに迎えての意欲作
1991年 A Decade Of Hits 1969-1979 
*再結成以前のベスト盤
1992年 Shades Of Two Worlds(シェイズ・オブ・トゥ・ワールド)
*アコースティック・サウンドも取り入れられた
1992年 The Fillmore Concerts 
*イート・ア・ピーチに入っていた未発表曲などを追加し完全版にしたフィルモア・イースト・ライブ
1992年 An Evening With The Allman Brothers-1st Set(ファースト・セット)
*91年〜92年に行われたライブ音源
1994年 Where It All Begins(ホエア・イット・オール・ビギンズ)
*再結成後の最高傑作と囁かれる名作。
1994年 Hell & High Water: The Best Of The Arista Years 
*文字通りアリスタ時代のベスト
1995年 Legendary Hits 
*スタジオとライブごちゃ混ぜのベスト
1995年 2nd Set(セカンド・セット)
*92年〜96年に行われたライブ音源。「エリザベス・リード〜」のアコースティック・ヴァージョンは必聴
1996年 Back To Back: At Their Best 
*アルバム未収録曲を含むベスト盤
1997年 Fillmore East 2/70 
*グレイトフル・デッドのレーベルから発売されているデュアン時代のライブ盤
1998年 Mycology: An Anthology 
*再結成後のベスト盤だが、デュアン時代の未発表ライブも入っている
2000年 Still Rockin'
2000年 Peakin' At The Beacon 
*Beacon 2000ツアーからのライブ音源



Reach For The Sky
Arista/BMG

Brothers Of The Road
Arista/BMG

Seven Turns
Epic/Sony

Shades Of Two Worlds
Epic/Sony

An Evening With The Allman Brothers-1st Set
Epic/Sony

Where It All Begins
Epic/Sony

Peakin' At The Beacon
Epic/Sony


◆◆◆ 名盤PICK UP ◆◆◆

アイドルワイルド・サウス
Idlewild South

オールマン・ブラザーズ・バンド
The Allman Brothers Band



1970年 Capricorn/PolyGram

1.リヴァイヴァル
 Revival

2.キープ・ミー・ワンダリン
 Don't Keep Me Wonderin'

3.ミッドナイト・ライダー
 Midnight Rider

4.エリザベス・リードの追憶
 In Memory Of Elizabeth Reed

5.フーチー・クーチー・マン
 Hoochie Coochie Man

6.プリーズ・コール・ホーム
 Please Call Home

7.マイ・ブルース・アット・ホーム
 Leave My Blues At Home

アメリカ版ウイッシュボーン・アッシュとでも言いたくなるような、ツイン・リードが印象的な1曲目のイントロ。その後をソウルフルなグレッグのヴォーカルとR&B調のリズムが追う。1970年というロックの草創期にこれだけのクロスオーヴァー・サウンドをやっていたとは驚くべきことだ。また、ファースト・アルバムから、このセカンドのレコーディングの間まで、メンバー達はドラムのジェイモの影響でみなジャズを聴きだし、早くもそのフィーリングを取り入れることに成功している。名曲「エリザベス・リードの追憶」などは、今聞くとどうみてもフュージョンだ。
一般的にABBの代表作というと、「フィルモア・イースト・ライヴ」や「イート・ア・ピーチ」をあげる人も多いであろう。確かにデュアン・オールマンの凄さが分かるのはライヴであり、その2枚のアルバムで聴けるデュアンのプレイは実にすばらしい。しかし、ひとつのアルバムとして見た場合、このアルバムの方が断然完成度が高い。
ここでの彼らは最初にも触れたR&Bやジャズの他に、持って生まれたカントリーやブルース、はたまた南部のスワンプ・ミュージック(土着音楽)などの基礎があり、すでに驚くべき高い音楽性を発揮している。それでいて、どれも一生懸命学んだというよりは、知らずに身に付いていたという感じで、とても自然体なのだ。これには、さしものクラプトンも衝撃を受けずにはいられなかったというのも頷ける。また、このアルバムからディッキー・ベッツも曲作りに参加し、さっそく2曲を提供しているが、早くもコンポーザーとしての高い資質を覗かせている。1.と4.は彼のペンによるものだ。3.はグレッグの曲で、後にソロ・アルバムでも再録音し全米19位を記録。ウィリー・ネルソンもこの曲をカヴァーし、カントリー・チャートで6位のヒットを記録している名曲だ。5.は唯一ベリー・オークレーがヴォーカルをとる、ブルースの巨匠マディ・ウォーターズの曲で、ボトルネックをはめたままスライドと通常の弾き方を併用するデュアンのスーパー・プレイが光る。これは、クラプトンも驚いた、ノーマル・チューニングのままボトルネックを使いこなしているからこそ出来る技だ。6.はグレッグの枯れた味わいのヴォーカルがなんともいい感じだ。しかし、デュアンという男は・・・普通これだけ有名なギタリストであれば、常に前面に出たがり、ギターを弾きまくりそうなものだが、ちゃんと曲のバランスを考えながら、グレッグの声が引き立つように弾いている。さすがにセッションマンとしても数々の名演を残してきただけのことはある。本当に感心させられる。
全7曲、まったく無駄がない名盤。また、これだけバラエティに富んだサウンドを違和感無く1つのアルバムに仕上げた名プロデューサー、トム・ダウドの仕事ぶりも見逃すことは出来ない。(HINE)