Creedence Clearwater Revival クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル

Written by 鷹&虎


 ミュージック・シーンに於いて、アメリカとヨーロッパの両方で認められるというのはそう容易い事ではない様で、一方でビッグ・ネームとなったミュージシャンがもう一方で認められたいが為にその音楽スタイルを変えてまで「敵地」に乗り込む、という事は決して珍しい事ではない。そして、結果が望み通りではない事もまた、しばしばである。然し、カリフォルニアから1968年にデビューしたクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(以下CCR)は、数あるロック・バンドの中にあって、そのスタイルを変えずに両者を魅了した稀有なバンドと云える。アメリカはベトナム戦争やキング牧師暗殺に揺れ、東欧ではソ連によるチェコスロヴァキア侵攻が行われた時代・・・。そんな中彼等の音楽は、数年前に新幹線が開通し、東京でオリンピックを開催、GNP世界第2位となって「エコノミック・アニマル」と呼ばれ、大阪万博へと雪崩れ込んで行く高度成長の絶頂にあった我が国にも、当然の如くやって来たのである。
 だが、CCRの音楽は本国でのアルバム・デビューを受けて、素直に極東の日出ずる邦に届けられた訳ではない。日本で最初に発売されたCCRのアルバムは彼等のセカンド・アルバムであり、その発売時期はアメリカでのデビューから、実に9ヶ月を待たなくてはならなかった。これは当時ニュー・ロック、アート・ロック等と称されていたムーヴメントがマーケットを席巻し、それまでのミュージック・シーンとは異質の音楽であるLED ZEPPELINPINK FLOYD、THE NICE、或いはBS&T、翌年にはCHICAGOが登場して来る時代にあって、CCRのそれがあまりにシンプルであった事が一因かと思われる。
 確かに、CCRのデビュー・シングル「SUZIE Q」はCASH BOX誌で最高位9位を記録するが、2曲目の「I PUT A SPELL ON YOU」は同58位止まりで、決して派手なデビューとは云えなかった。従って、この時点では単なる「イチ」ローカルバンドという評価を超える事はなかった。然し、次のシングル「PROUD MARY」が'69年3月に同2位になると、俄然話しは変わって来る。日本側が慌てて6月にセカンド・アルバム「BAYOU COUNTRY」(邦題:クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル登場)を初リリースする所から、驚異的なペースでシングル、そしてアルバムをリリースするCCRとの追いかけっこが始まるのである。その後、本国のリリースから日本発売までのタイム・ラグが1ヶ月に縮まるのに半年を要している。この間、日本でのデビュー・シングル「PROUD MARY」が国内で大ヒットしていた頃に、本国では9曲目(シングル盤としては6枚目)の「DOWN ON THE CORNER」がチャート・インという時期のズレもあった程だ。現代社会を想う時、この時間差は隔世の感がある。

CCR以前

Tom Fogerty(トム・フォガティ)/リズム・ギター、ヴォーカル
John Fogerty(ジョン・フォガティ)/リード・ギター、ピアノ、リード・ヴォーカル、他
Stuart Cook(ステュアート・クック)/ベース、ヴォーカル
Douglas Clifford(ダグラス・レイ・クリフォード)/ドラム、ヴォーカル

 CCRのメンバーは上記の4人である。が、彼等の歴史はこのメンバーのまま、CCRとしてのデビューより10年近く遡る事が出来る。
 元々はジョンの兄であるトムを除く3人が中学の同級生で、ジョンと後の2人は別々にバンドを組んでいた。その後、このふたつがジョンの統率の下ひとつになり、やがて既にセミ・プロとして活動していたトムを巻き込み、1960年頃から「TOM FOGERTY & THE BLUE VELVETS」として活動して行く事になる。この時期はバンド名からも明らかな様に、ジョン以下の3人より4歳年上のトムが主導権を握っており、トムとジョンの兄弟が幼い頃よりローカルラジオ局から流れて来るR&Bを聴いて育っていた事で、主に「ロックン・ロールではなくブルースを演奏していた」(ジョン・フォガティ談)。ここで培われた土壌は、CCRの特に初期の作品に色濃く反映されている。この頃に数枚のシングルを録音しているが、地元のラジオ局等で多少流された程度でヒットには至っていない。
 その後1964年にファンタジー・レコードと契約を結び、レコード会社の専属バンドとしてプロの道を歩み出す彼等だが、バンド名をGOLLIWOGSに変えさせられる。変更するバンド名候補を他に持っていた彼等にとって、この名前(「コワモテな奴等」といった意味らしい)は寝耳に水だったらしく、一説にはレコードが出来上がって初めて知った、とも云われている。この頃からジョンがその頭角を現し始め、リード・ギター、リード・ヴォーカル、そしてコンポーザーと、バンド・リーダーとしての位置付けを確固たるものにする様になる。然し、仕事としては会社所属歌手のバック演奏等が多かったようだ。それでもやはりバンドのサウンドはR&Bがベースになっており、CCRになってからレコーディングされる事になる曲の幾つかも、アレンジこそ違うがこの頃既に録音されている。因みにGOLLIWOGS名義でリリースされた7枚のシングル(14曲)は、1975年に発売された「THE GOLLIWOGS〜PRE−CREEDENCE」というアルバムで聴く事が出来る。収録曲「BROWN−EYED GIRL」は'65年当時1万枚売れた事が記録されている。
 然し、当時のファンタジー・レコードがジャズ主体であった事や、ジョンとダグの2人が予備役訓練に徴兵されたりして活動にブランクが生じる等、状況は決して彼等に風が吹いていたとは云い難いものであった。ところが、サウル・ザエンツなる人物がファンタジー・レコードの社長に就任する事で、その風向きが変わる……。

駆け抜けた4年間

 他の投資家と共に32万5千ドルでファンタジー・レコードを買収したサウル・ザエンツは、メンバーと旧知の中であったとも云われている。彼等は再スタートを切る事になり、バンド名を正式にCREEDENCE CLEARWATR REVIVALとする。その由来については、CREEDENCEがメンバー共通の友人の名前、CLEARWATERは当時TV放映されていたオリンピア・ビール(清涼飲料水との説もあり)のCMキャッチ・コピー、そして再生を意味するREVIVALを繋げたと云われているが、真偽の程は定かではない。然し、ファンタジー・レコードの全面的なバック・アップを受けた事もあり、改名を機にCCRの快進撃は始まる。デビュー・シングル「SUZIE Q」をリリースしてから、1972年10月に解散を表明するまでを時間軸で追ってみる。

1968年 9月
10月


11月

12月
1969年 1月
3月
4月
6月
7月


8月

9月
10月

11月
12月

1970年 1月

2月
3月
4月

5月

7月

8月
9月
10月

12月
1971年 1月



3月
7月
7〜8月
8月
9月
1972年 2月

4月
4〜5月
5月


6月
10月
シングル「SUZIE Q」発売
アルバム「SUZIE Q」発売
シングル「SUZIE Q」Cash Box誌最高位9位
アルバム「SUZIE Q」CB誌最高位11位
シングル「I PUT A SPELL ON YOU」発売
同シングルCB誌最高位58位
シングル「PROUD MARY」発売
セカンド・アルバム「BAYOU COUNTRY」発売
シングル「PROUD MARY」CB誌最高位2位
シングル「BAD MOON RISING」発売
同シングルCB誌最高位2位
アルバム「BAYOU COUNTRY」(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル登場)日本発売
3rd.アルバム「GREEN RIVER」発売
シングル「GREEN RIVER」発売
アルバム「SUZIE Q」日本発売
ウッドストック出演
シングル「GREEN RIVER」CB誌最高位3位
アルバム「GREEN RIVER」CB誌最高位2位
シングル「DOWN ON THE CORNER」発売
アルバム「GREEN RIVER」日本発売
シングル「DOWN ON THE CORNER」CB誌最高位10位
4th.アルバム「WILLY & THE POOR BOYS」発売
シングル「TRAVELIN' BAND」発売
アルバム「WILLY & THE POOR BOYS」CB誌最高位3位
アルバム「WILLY & THE POOR BOYS」(クリーデンス・ロカビリー・リバイバル)日本発売
シングル「TRAVELIN' BAND」CB誌最高位5位
シングル「UP AROUND THE BEND」発売
ヨーロッパ公演
アメリカ国内公演
シングル「UP AROUND THE BEND」CB誌最高位2位
5th.アルバム「COSMO'S FACTORY」発売
シングル「LOOKIN' OUT MY BACK DOOR」発売
アルバム「COSMO'S FACTORY」CB誌最高位1位
アルバム「COSMO'S FACTORY」日本発売
シングル「LOOKIN' OUT MY BACK DOOR」CB誌最高位1位
この間、7月〜10月までアメリカ国内公演
6th.アルバム「PENDULUM」発売
シングル「HAVE YOU EVER SEEN THE RAIN」発売
アルバム「PENDULUM」CB誌最高位2位
アルバム「PENDULUM」日本発売
トム・フォガティ脱退
シングル「HAVE YOU EVER SEEN THE RAIN」CB誌最高位3位
シングル「SWEET HITCH-HIKER」発売
アメリカ国内公演(19都市)
シングル「SWEET HITCH-HIKER」CB誌最高位5位
ヨーロッパ公演
オーストラリア・ニュージーランド公演
来日公演
7th.アルバム「MARDI GRAS」発売
アメリカ国内公演(20都市)
アルバム「MARDI GRAS」日本発売
シングル「SOMEDAY NEVER COMES」発売
アルバム「MARDI GRAS」CB誌最高位12位
シングル「SOMEDAY NEVER COMES」CB誌最高位25位
CCR解散発表

 この4年間でオリジナル・アルバム7枚、シングル盤12枚をリリース、そしてチャートに送り込んだヒット曲は15曲。然し、CCRのシングル盤は「プラウド・メアリー」から「雨を見たかい」までの8枚が全てA・B両面チャートインしているのだが、「ダウン・オン・ザ・コーナー」以降「雨を見たかい」までの5枚については途中でCB誌のカウント方法が変わり、両面ヒットも1枚のカウントになっているので、実質的にチャートインした曲は実に20曲に昇る(ここではB面のチャート及び一部最高位月の確認出来ないものは割愛した)。
 1969年など1年間にアルバムを3枚リリースしており、これは当時にあっても驚異的なハイペースと云わざるを得ない。時代は次第に重厚長大へと向かい、「1年1作主義」なんかが持て囃される方向にあった時に、まるで何かに憑かれた様に作品を世に送り出したCCR。その中で、全米公演や2度に亘るヨーロッパ公演も成功させ、ライヴ・バンドとしての名声も揺るぎない物にして行く。だが・・・。
 演奏面は勿論の事、曲作り・アレンジ・プロデュース等の全てをジョンの才能が負っていたこのバンドに、やはり確執は起こる。ファンタジー・レコードの新社屋への移転もCCRのおかげ、と云われる程ビッグ・ネームになって行く中で、脚光を浴びる事なく黒子に徹していたトムが脱退を宣言する。6枚目のアルバム、「Pendulum」リリース直後の事だ。音楽的イニシアチヴだけでなく、あらゆる面で「ジョンありき」である事に嫌気がさしたという事だった様だ。後の「ブルー・リッジ・レインジャーズ」に代表されるジョンの音楽活動を見ても判る様に、彼のマルチ・プレーヤー振りは評価の高い所であり、CCR周辺でトムの存在があまり重要視されていなかったであろう事は想像に難くない。
 そして1年後の1972年2月、トリオになったCCRは多くのファンが待ち望んでいた来日を果たす。ジョンは、トレード・マークであったタータンチェックのシャツではなかったがテンガロン・ハットを被り、笑顔が印象的なステュ、髭面のダグと共に、名古屋(愛知県体育館)・大阪(大阪厚生年金会館)・東京(日本武道館)と、1週間かけて各地のファンを熱狂させた。因みにこの頃はロック・アーティストの来日公演が相次いでいた時期で、前年の'71年にはGFRの「嵐の後楽園球場」、翌年の'73年には「Live In Japan」をリリースすることになるDeep Purpleが、そしてこの'72年にはLed Zeppelin 、EL&P 、Pink Floyd 、Free 等がやって来ている。
 そして離日から1ヶ月後、スマッシュ・ヒットさせた「SWEET HITCH-HIKER」を収録したアルバム「MARDI GRAS」を本国でリリースし、CCRは健在振りを示した……筈だった。然し、このアルバムに多くのファンは戸惑う事になる。全10曲中ジョンのオリジナル曲は僅かに3曲、ステュの曲が3曲、ダグの曲が2曲、ステュとダグの共作が1曲、カヴァー曲(ハロー・メリー・ルー)が1曲という具合で、リード・ヴォーカルもそれぞれのコンポーザーが担当しているのだ。ジョン・フォガティが先頭に立ち、ジョン・フォガティが牽引して来たCCRのアルバムで、彼が4曲しか歌っていない事はやはり憶測を生む事になる。一部ではトムの脱退を受けてジョンが他のメンバーも注目される様に一歩引いた等と云われもしたが、直後にダグのソロアルバムが発表されたり、ジョンの謎のバンド「ブルー・リッジ・レインジャーズ」(後に、ジャケットの5人のシルエットは全てジョンで、彼のワンマン・バンドであるという事が判る)の存在が明らかになったりしたという事から、この時既にCCRは終わっていたと思われる。7枚のアルバム全てがミリオン・セラー、シングル8枚がゴールド・ディスクという航跡を残して、プラウド・メアリー号はその姿を水面の彼方に消す。CCRがバークレーの「コスモズ・ファクトリー」で正式に解散を発表するのは、「MARDI GRAS」のリリースから半年後の事である。(鷹&虎)2005.6

CCR アルバムレヴュー