TOTO(トト)

「完璧」という個性

 「TOTO」とはラテン語で「すべて、全部」という意味らしい。その名の通り彼らは幅広い音楽性と職人的な演奏技術、優れた作曲能力、すべてを兼ね備え、まったくスキのない完璧なサウンドを生み出す音楽エリート集団だ。
文字で「完璧」と書くと、冷たく、ロボットが演奏しているようなデジタル・サウンドを想像するかもしれないが、そんなことはない、彼らはあくまで「人間」ができる最高の歌と演奏を目指しているのだ。

オリジナル・メンバー
David Paich デヴィッド・ペイチ/キーボード、ヴォーカル
Steve Porcaro スティーヴ・ポーカロ/キーボード
Jeff Porcaro ジェフ・ポーカロ/ドラムス
Bobby Kimball ボビー・キンボール/ヴォーカル
David Hungate デヴィッド・ハンゲイト/ベース・ギター
Steve Lukather スティーヴ・ルカサー/ギター、ヴォーカル

 TOTO結成直接のきっかけは、ボズ・スキャッグスのアルバムへメンバー達が共にセッション・マンとして参加し意気投合したということだが、実は彼らの交流はもっと古くからあったようだ。
 ハイスクール時代、映画音楽の作曲家を父に持つデヴィッド・ペイチとジャズ・パーカッショニストを父に持つジェフ・ポーカロがルーアラル・スティル・ライフというバンドを結成したことからTOTOの歴史ははじまる。このバンドは2人の卒業後、スティーヴ・ルカサーとジェフの弟スティーヴ・ポーカロによって再編成され受け継がれたという。
 一方ジェフ・ポーカロは卒業後、すでに当時セッション・プレイヤーとして活躍し、ソニー&シェールのバック・バンドいたデヴィッド・ハンゲイトの紹介で、ドラマーとして同バンドのツアーへ同行することになった。この時の共演がきっかけとなり2人はその後も親交を深め、ジェフもセッションマンとして腕を磨いていった。そしてなんとジェフは1975年スティーリー・ダンの正式メンバーとして迎えられている。スティーリー・ダンといえば、世界最高レベルのミュージシャンの集合体だ。ここへ迎えられるということは、この時点でジェフはもう相当な腕利きドラマーに成長していたということだろう。この頃、ペイチもまたスティーリー・ダンをはじめ、フォリナー、ドゥービー・ブラザーズ、ニール・ダイヤモンドなどのアルバムへ参加する売れっ子セッション・マンとなっていた。
 そして運命は、1976年に発表するボズ・スキャッグスの出世作「シルク・ディグリーズ」のレコーディングへと3人を導いた。このセッションで意気投合したジェフ、ペイチ、ハンゲイトの3人は、自分たちのバンドを作ることを決意し、ボズの次作「ダウン・トゥ・ゼン・レフト」でいっしょになったルカサーも引き入れデモ・テープを作るまでになっていた。その後ジェフの弟スティーヴと、SSフールズというバンドにいたボビー・キンボールも加えCBSコロムビアと契約。こうして78年にTOTOは誕生した。「TOTO」というバンド名はキンボールの本名「ロバート・トトーズ(Toteaux)」を簡略したものと、映画「オズの魔法使い」に出てくる犬の呼び名からとられたらしいが、冒頭で述べたラテン語の意味ももちろんある。
 彼らはデビューするや否や、超A級セッションマンの集団ということでかなり話題となり、デビュー・アルバム「TOTO〜宇宙の騎士」(1978年)でも、個々が経験し培ってきた豊富な知識とテクニックを思う存分に発揮し、新人らしからぬ完成度で周囲をあっと言わせた。
 このデビュー・アルバムは瞬く間に全米チャートを駆け上り最高9位を記録。シングル「ホールド・ザ・ライン」は5位まで上がる大ヒットとなった。またこのアルバムでは、映画音楽作曲家を父に持つペイチの壮大なオーケストレーション・アレンジや、パーカッシニストを父に持つジェフ・ポーカロのファンキーなアプローチが目立ち、2人がサウンド・リーダーとしてバンドを牽引していることもはっきりと表れていた。
 翌79年には、セカンド・アルバム「ハイドラ」も発表。ギリシャ神話の怪蛇獣ヒュドラ(ハイドラ)をモチーフにしたコンセプトアルバムで、プログレやジャズ的な要素を強め、ほぼ後のTOTOサウンドにつながるサウンド・アプローチを完成させた。このアルバムからも名曲シングル「99」が生まれ、全米26位のスマッシュ・ヒットを記録してる。なおこの後80年には初来日も果たす。
 つづくサード・アルバム「ターン・バック」(81年)では、少しハード・ロック寄りのアレンジを意識して行い、ルカサーのギターを前面に出していた。中でも「グッバイ・エリノア」のようなハードでかっこいい曲は、ハードロック・ファンの心をもつかみ、アルバムのセールス以上に新たなファン層を拡大する成果もたらした。また、このアルバムからルカサーが単独で曲もかくようになり、バンド内での存在感もペイチとジェフに並ぶものとなっていった。
 そして翌82年、それまでのサウンド集大成的なアルバム「TOTO IV〜聖なる剣」で、ついに全米チャートの頂点に立つことになる。このアルバムはレコーディングに9ヶ月もかけ、どの曲もかなり高度な技術を駆使し念入りに作り込まれていながらも、楽器の音1つ1つがとてもクリアな音で、肩の力が抜けたようなリラックス感が全体的に漂っている。おそらく曲作りやアレンジに大半の時間を割き、演奏自体は一発録りに近いのではなかろうか。そんなことができるのも、彼らが超A級の演奏技術を身につけているからに他ならない。
 ここからのファースト・シングル「ロザーナ」は全米2位(5週間)、つづく「メイク・ビリーヴ」30位、そして「アフリカ」でついに全米No.1、「ホールド・ユー・バック」も10位とヒット曲のオンパレード、アルバム自体も全米4位のトリプルプラチナムに輝くという快挙を成し遂げた。さらには翌年のグラミー賞でレコード・オブ・ジ・イヤー(ロザーナ)、アルバム・オブ・ジ・イヤーなど主要6部門を独占。おまけにルカサーがジョージ・ベンソンのために書いた「ターン・ユア・ラヴ」までR&B部門の作曲賞を受賞するという、ものすごい勢いであった。
 しかし、この大成功の陰ではいくつかの問題も生じていた。まず1つ目は、ハンゲイトとキンボールの脱退。ハンゲイトについては家族のためという脱退理由らしいが(83年脱退)、キンボールは次アルバムのレコーディング中(84年)という穏やかならざる辞め方をしている。
 TOTOはもともと専任ヴォーカリストのキンボールがいるにも関わらず、デビュー当時からペイチやルカサーが交代でリード・ヴォーカルをとっていた。それがだんだんエスカレートし、「TOTO IV」ではなんと10曲中4曲しかキンボールがリードをとっておらず、代表曲はみなキンボール以外が歌っていたのだ。一応脱退理由は音楽的な方向性の相違ということにはなっているが、出番があまりなくなったということがキンボールを脱退へと追い込んだのは明らかだ。一説によると、キンボールは当時ひどいドラックとアルコール中毒に陥っていたとも伝えられている。
 たとえ出番が少なくともキンボールのソウルフルなヴォーカルは存在感があったし、ハンゲイトのファンキーなノリも大きな魅力だった。立て続けに彼らを失ったことはバンドにとってかなりのダメージとなり後々まで影響を及ぼすことになる。
 もう1つの問題は、TOTOサウンドの蔓延化。TOTOが大成功したことで、方々の有名アーチストからお呼びがかかり、メンバー達のセッション・ワークは一段と忙しくなった。時にはメンバーのうち3人までが同じセッションに参加することさえあった。そのためヒットチャート上位には常にTOTOと同じようなサウンドが蔓延し、終いには「またか…」という風に飽きられてしまったのだ。それに輪をかけてTOTO自身もその後ヴォーカリストをコロコロ換えたので、もうどれが本物のTOTOなのかよく分からない状態になってしまい、自分たちの首をさらに絞める結果を招いてしまったのだ。
 84年にリリースされたアルバム「アイソレーション」では、その昔スティックスのトミー・ショウ(g,vo)の後釜としてMS Funkで活動し、プログレ・ハード・バンドのトリリオンにも在籍していた
Dennis "Fergie" Frederiksenファギー・フレデリクセン(vo 右写真)とジェフ・ポーカロの弟Mike Porcaroマイク・ポーカロ(b)が新たに加入。特にキンボールとはまったく違うタイプのフレデリクセンの声は強烈で、TOTOのイメージをがらっと変え賛否両論を巻き起こした。サウンド的にもフレデリクセンの声質に合わせ、よりハードな路線へと変貌を遂げていたが、それが裏目に出てチャート・アクション的には最高位42位と不本意な結果に終わっている。しかしながら個人的にはこの時期のTOTOもロック・バンド然としていてとても好きだ。
 だが、この結果の原因をヴォーカルにあると考えた他のメンバーたちとフレデリクセンの仲は険悪となり、フレデリクセンは1枚のアルバムとそのフォロー・ツアーだけで脱退、新ヴォーカリストには、なんと映画音楽の巨匠ジョン・ウイリアムスの息子
Joseph Williamsジョセフ・ウイリアムス(左写真)を加入させた。そして86年にはそのメンバーにマイルス・デイヴィス、デヴィッド・サンボーン、ドン・ヘンリー、マイケル・マクドナルドなど多彩なゲストを迎えた力作アルバム「ファーレンハイト」も完成させた。新加入のジョセフはとても柔軟性のあるヴォーカリストで、ハードな曲もしっとりとしたバラード曲も器用に歌いこなし、早くも多くの曲作りに参加するなど、その持てる才能をこのアルバムで一気に爆発させていた。また、このアルバムはTOTOの歴史の中でも屈指の名曲「アイル・ビー・オーヴァー・ユー」をはじめ、全曲共にすばらしく「TOTO IV」に肉薄するほどの仕上がりを見せている。しかし、結果的には全米40位と、前作とあまり変わらないセールスしか記録できなかった。これは決してこのアルバムの内容が悪いわけではなく、先にも挙げた問題「TOTOサウンドの蔓延」が自らを追い込んでしまった結果なのだろう。
 88年、またもリンダ・ロンシュタット、パティ・オースティンなど多くのゲストを迎え、同メンバーでレコーディングされた次作「ザ・セブンス・ワン〜第7の剣」も、「パメラ」が22位のスマッシュ・ヒットを記録するものの、アルバム自体は64位とまったくふるわなかった。少々AOR寄りの曲が多いというのも時代の波(ヘヴィメタルやヒップホップ全盛期)からはズレていたのだろう。ちなみにこの88年彼らは5度目の来日も果たしている。
 このあたりからメンバー間の結束も揺らぎはじめ、スティーヴ・ポーカロが「ザ・セブンス・ワン」のレコーディング終了と共に脱退。ジョセフも来日公演を最後に脱退。ルカサーまでも89年にソロ・アルバムをリリースするありさまであった。ジョセフの後任には、脱退後ファー・コーポレーションへの参加以外たいした活躍もしていなかったキンボールを一時引き戻したが(この時レコーディングされた音源は後に「TOTO XX」に収録」)、レコード会社から反対され、逆に
Jean-Michel Byronジャン・ミシェル・バイロンというヴォーカリストを紹介されるままバンドへ加入させた。このメンバーでは90年に「グレイテストヒッツ」用の新曲を4曲をレコーディングし、6度目の来日公演も行うが、その後すぐにジャンを解雇している。
 だが、彼らはもう新しいヴォーカリストを捜す気力も無く、ルカサーをヴォーカリスト兼任として活動をしていく決意をした。その結果、92年に完成した「キング・オブ・ディザイア〜欲望の王国」では、ほとんどルカサー・バンドと化し、それまでときどき綺麗な歌声を聞かせていたルカサー自身もすっかりヘヴィメタル系ノリのヴォーカル・スタイルに転じてTOTOの魅力は極端に失われていた。また、このアルバムがリリースされる直前に信じられないニュースまで伝わってきた。TOTOの創始者にしてバンドの中心人物でもあったジェフ・ポーカロが8月5日自宅の庭で殺虫剤を散布中に倒れ、病院に運ばれたがそのまま息をひきとったというものである。享年38歳、あまりにも早い最期だった。
 誰もがこれでTOTOも解散だろうと予想したし、実際彼ら自身も'92〜'93の世界ツアー(93年にAbsolutery Liveとして発表)で、「毎晩、追悼コンサートだ。すべて最後のコンサートになる」などと発言していた。ところがこのツアーでジェフの代役を務めた名セッション・ドラマー
Simon Phillipsサイモン・フィリップス(右写真)と他のメンバーたちが意気投合、さらにこの頃リリースされたTOTOのバラード曲集がヨーロッパで異常な人気を示していたことから解散は思いとどまり、サイモンを正式メンバーに加えることで再出発をはかることにした。
 95年にはその第1弾としてアルバム「タンブ」を発表。このアルバム、サウンド的には前作より本来のTOTOサウンドに近い多彩な内容のものになってはいたが、やはりルカサーがヴォーカル兼任ということもあって、あまりパッとしなかった。
 翌96年には、サイモンを加えた編成でも来日したが、その後音沙汰もなく、TOTO自体日本ではほとんど忘れかけられた存在となっていたに等しい。だが、バンドのデビュー20周年にあたる98年、ファンの前に突然すばらしい贈り物をしてくれた。それは「TOTO XX」と題された過去の未発表音源に多少手を加えまとめたアルバムだ。お蔵入り音源集とはいえ、このアルバムに入っている曲はどれも佳作揃いで、いかに往年のTOTOが選りすぐりの曲だけをアルバムに収めていたかが伺い知れる。十分今でも通用し、ルカサー体制後の新曲より数段いい(ハンゲイトのファンキーなベースも懐かしい)。このアルバムの発表に当たり、昔のメンバーたちとも再び連絡を取り合うようになった彼らは、次のアルバムへ昔のメンバーたちも参加するようなことをほのめかしていたが、その予告通り、99年発表の「マンズフィールズ」では、初代ヴォーカリストのキンボールが復帰、ライヴ盤を挟み、2002年には彼ら初のオール・カヴァー・アルバム「スルー・ザ・ルッキング・グラス」でスティーヴ・ポーカロも復帰している。ここでの演奏も見事だが、早くも次のオリジナル作が待ち遠しい。同時に、せっかくの再会を無意味なものにしないためにも、十分に練りこまれたすばらしいアルバムを発表してほしいとも願っている。

追記:2001年TOTOの2代目ヴォーカリストのフレデリクセンとオリジナル・ベーシストのハンゲイトがMECCAというバンドを結成しアルバムも発表。日本でも2002年に同名タイトルでリリースされている。ジョセフ・ウイリアムズはソロに戻り、その後3枚のアルバムをリリースしている。また彼のTOTOに加入前('82)の作品「Joseph Williams」も2002年にデジタル・リマスター紙ジャケ盤で再発されている。(HINE)2004.2




TOTO
CBS/Sony

Hydra
CBS/Sony

Turn Back
CBS/Sony

Isolation
CBS/Sony

Fahrenheit
CBS/Sony

ディスコ・グラフィー

1978年 TOTO(宇宙の騎士)*いきなりハイレベルな音楽性と演奏に話題騒然となったデビュー作
1979年 Hydra(ハイドラ)*名曲「99」収録。唯一のコンセプト・アルバムでもある。
1981年 Turn Back(ターン・バック)*ルカサーが才能を開花させ、ハードなサウンドに変貌。「グッバイ・エリノア」収録
1982年 TOTO IV (TOTO IV〜聖なる剣)*グラミー賞6部門受賞、トリプル・プラチナムに輝く名作
1984年 Isolation(アイソレーション)
*ヴォーカルがフレデリクセンに替わり賛否両論のハード・ロック路線アルバム
1986年 Fahrenheit(ファーレンハイト)*ヴォーカルがジョセフ・ウイリアムスに替わり、幅広い音楽性に対応。ゲストも多数参加
1988年 The Seventh One(ザ・セヴンス・ワン〜第7の剣〜)
*「パメラ」がスマッシュヒットするも勢いは下降
1990年 Greatest Hits(グレイテスト・ヒッツ)*新ヴォーカルで新曲を4曲追加したベスト盤
1992年 King Of Desire(キング・オブ・デザイア〜欲望の王国 )
*ルカサーがリード・ヴォーカルを兼任。
1993年 Absolutely Live(LIVE)*'92〜'93のジェフ・ポーカロ追悼ツアーを収めたCD2枚組のライヴ盤
1995年 Tambu(タンブ)
*サイモン・フィリップス(b)を正式に迎えての第1弾
1995年 TOTO The Ballade(TOTOザ・バラード)*ドイツで編集されヨーロパで異常な人気をよんだ企画もの
1998年 TOTO XX<1977-1997>(TOTO XX)
*過去の未発表音源に少々手を加えたデビュー20周年記念盤
1999年 Mindfields(マインドフィールズ)*初代ボーカリストのボビー・キンボールが復帰
1999年 Livefields(ライヴフィールズ)
*キンボール復帰後のライヴ盤
1999年 Premium Best(プレミアム・ベスト)
2001年 Super Hits

2002年 Through The Looking Glass(スルー・ザ・ルッキング・グラス)*彼ら初のフル・カヴァー・アルバム
2003年 25th Anniversary: Live in Amsterdam*25周年記念ライヴ盤



The Seventh One
CBS/Sony

King Of Desire
CBS/Sony

Tambu
CBS/Sony

TOTO XX<1977-1997>
CBS/Sony

Mindfields
Sony


◆◆◆名盤PICK UP◆◆◆

TOTO IV〜聖なる剣
TOTO IV

TOTO


1982年 CBS/Sony

1 . ロザーナ  Rosanna

2 . メイク・ビリーヴ  Make Believe

3 . ホールド・ユー・バック  I Won't Hold You Back

4 . グッド・フォー・ユー  Good For You

5 . イッツ・ア・フィーリング  It's A Feeling

6 . アフレイド・オブ・ラヴ  Afraide Of Love

7 . ラヴァーズ・イン・ザ・ナイト  Lovers In The Night

8 . ウイ・メイド・イット  We Made It

9 . ユア・ラヴ  Waiting For Your Love

10.アフリカ  Africa

ロック・アルバムにおける「完璧」とは、まさにこのアルバムを指すのであろう。もちろん完璧すぎて面白みがないという人も中にはいるかもしれないが、曲、演奏、ヴォーカル&ハーモニー、アレンジ、プロデュースまでまったくスキがない。
また、メンバー達は皆スゴ腕のセッション・プレイヤーでもあるのだが、1人1人にすごい個性が備わっているわけではない。しかし、集まると「パーフェクト」という個性が生まれ、これこそがTOTOサウンドの基本になるのだ。しかたがって、オリジナル・メンバーの1人が欠けても、残念ながらこの個性が弱まってしまう。
このアルバムは、TOTOのオリジナル・メンバーが揃った最後の作品にして最高傑作でもある。以前の3枚のアルバムもみな甲乙付けがたいほど素晴らしかったが、それらをも超越し、もう何びとも踏み込めないようなレベルの領域、「音楽の聖域」にまで達している。まるでこのジャケットに描かれた聖剣のように・・・。
まず、アルバムの「つかみ」部分とも言える1曲目には、いきなり全米No.1を記録した名曲「ロザーナ」で幕を開ける。出だしはジェフ・ポーカロ(ds)が正確なリズムを刻みながら静かに始まる。そこへピアノ、ベース、ギターが同時に入り、つづいてヴォーカルが後を追う・・・これだけでも、もうたまらなくお洒落でカッコイイのだが、ヴォーカルがキンボールへ移行し、キーが一段上がったあたりから徐々に各パートに熱が入り、極めつけに、サビの部分ではホーンを大胆に取り入れたジャズっぽいセンスもチラつかせる・・・もう完全にノックアウトだ!複雑なリズム・パターンを使っていながらも、それをさらりとやってのけるメンバー全員の力量もすごい!これぞTOTOサウンドという代表曲だろう。
2曲目は、出だし部分からヴォーカルのハーモニーが印象的な、シンプルだが味わいのある曲。ピアノを効果的に使ったアレンジはジャーニー・サウンドにも通じるものがある。途中から絡むドライヴのかかったルカサーのギター・ハーモニーもさすがだ。
3.は文句無くすばらしいバラード曲。オーケストレーションの導入によってスケール感もある。問題は、ルカサーが作曲し自らヴォーカルもとり、おまけに泣きのギターまで披露して1人舞台になっているところだ。よく見れば、アルバム中キンボールがリードヴォーカルをとっているのはたったの4曲で、大ヒットした「ロザーナ」と「アフリカ」でもリードをとっていない。このあたりがキンボールの脱退、さらにはTOTOの崩壊につながっていった要因にもなっているのだろう。
6.〜7.はメドレーになっていて、アルバム中もっともハードな2曲だ。ここまで5、6、7とスティーヴ・ポーカロ、ルカサー、ペイチが代わる代わるヴォーカルをとっていたので、8、9でのキンボールの声が、とてもなつかしく感じられる。特に、9.のリー・リトナーが演りそうなフュージョン風の曲では、シンプルな曲調なだけに、ひときわキンボールの声が栄え、リード・ヴォーカリストであることの存在感を大きく示している。
ラストの10曲目はジェフ・ポーカロとペイチの合作で、全米大ヒットを記録した名曲中の名曲。アフリカン・ビートを大胆に取り入れ、メンバー全員が総力を結集して創り上げた結晶のような曲でもある。
TOTOの中で強力なリーダー・シップをとってきたジェフが亡くなってしまった現在、もう二度とこういった名曲が生まれることはないだろう。そしてこのアルバムは、もはや彼ら自身でも越えることは出来ない奇跡の名盤だ。(HINE)