PAULA COLE ポーラ・コール


現代のミュージシャンズ・ミュージシャン

 ヒットした曲は別として、ポーラが生み出す音楽は決してとっつきやすいものではない。しかしながら、一度その魅力を知ってしまうと彼女の世界へどんどん引きずり込まれてしまう。何にも似ていない独特のポーラ・ワールドがそこには広がっているのだ。
 派手ではないが、持って生まれた個性と、それを表現するために習得した高度な音楽性がバランスよく混じり合い、素朴なのに新しい、実に不思議なサウンドをクリエイトしている。
 なぜこのようなサウンドが生まれるのかを様々な評論家たちが分析しているが、それは彼女の生い立ちに関係しているようだ。
 ポーラは1968年4月5日、アメリカのマサチューセッツ州ロックポートという小さな町で生まれた。両親は学生結婚で若くして2児の親となったため、家計はかなり苦しく、父親は学業を続けるかたわら、パート・タイムの仕事もこなさなくてはならず、自分の才能を生かしてバンドでベースを弾くなど様々な演奏活動をしていた。家では、お金がなかったため、レコードなどは1枚もなく、聞く音楽といえば父親が自前で歌ってくれた古いフォークソングや自作曲。ラジオなども一切聞かなかったという。ただその父といっしょにオリジナル曲を作ったり、父の演奏に合わせて即興で歌うことは大好きだったらしい。
 その後、高校を卒業したポーラはボストンにある音楽の名門校、バークリー・カレッジ・オブ・ミュージックへ入学するのだが、それは例えば、サバンナを駈け回っていたアフリカの原住民が、ルールを勉強してサッカーをやったら?・・・というようなことに似ているかもしれない。ポーラは専攻がジャズ・ヴォーカルながら、初めて様々な音楽に触れ強い衝撃を受けていった。中でも特にアレサ・フランクリン、ティナ・ターナー、マーヴィン・ゲイ、マイルス・デイヴィス、ボブ・マーリー、サラ・ヴォーン、ケイト・ブッシュなどに関心があったようで、それらは後のポーラの音楽にかなりフィード・バックされていることは言うまでもない。
 バークリーでは、最初皆と同じように何とかして名人芸に達しようと、テクニックの追求ばかりをしていたらしいが、しだいに自分が本当にやりたいのはテクニックの追求ではなく、自分の気持ちを正直に歌で表現することだと気づく。それからは曲作りに励み、在学中にきたジャズ・レーベルからの契約話も断ってしまっていた。
 バークレーを卒業後、ポーラはサンフランシスコに移り住み、しばらくパン屋で働きながら音楽活動をする。そして92年、ニューヨークの小さなカフェでポーラが歌っているところへ、イマーゴ・レコードの社長であるテリー・エリスがたまたま客として来ていてポーラの歌に痛く感動した。彼はすぐに契約の話を持ちかけ、レコーディングに関しては一切手を加えずポーラの思うままにさせてくれるという条件で契約を成立させた。
 こうして93年、デビュー・アルバム「ハービンガー」が完成するのだが、直後にイマーゴ・レコードが経営困難に陥ってしまい、発売日は未定のままいつまでたっても決定しないという状態が続いた。この時デビュー・アルバムのプロデューサーであったケヴィン・キレンが、彼女を励まそうと以前プロデュースをしたことがあるピーター・ガブリエルのコンサートへポーラを誘い出し、コンサート後もピーターのバンド・メンバー達を紹介して共に踊りに出かけた。その中の1人でバンドのギタリストがポーラのデビュー・アルバムの話に興味を持ち、後でそれを聞いてみると、すっかり気に入ってしまい、ピーターにも聞かせたという。するとピーターもポーラの歌にすっかり夢中になってしまい、自らポーラに電話して「わたしといっしょにツアーに出てもらえないでしょうか?」と頼み込んだのだという。実は94年、ポーラはピーターのツアー・メンバーとして来日も果たしていたのだ。
 そうこうしているうちに、この年やっと「ハービンガー」はリリースされた。しかしリリース直後、今度はイマーゴ・レコードが親会社のBMGから切られてしまい、プロモーションもしないままこのアルバムは埋もれてしまうことになる。このアルバム、今聞いても古くさいところなどまったくない佳作だ。1曲1曲が本当に丁寧に作られ、聞くほどに深みを増す。すでにアフリカやブラック系のリズムを巧みに取り入れ、ジャズ、フォーク、ロックといったジャンルを超越したポーラ独特のサウンド作りが光っている。歌詞は自分の過去をふり返るようなかなり私的なものが多く、生い立ちやその時の心境など、ポーラの素顔を知ることが出来るアルバムでもある。特に「アイ・アム・ソー・オーディナリー」などは名曲だ。
 95年、映画「ブルー・イン・ザ・フェイス」のサウンド・トラックに1曲「スワニー・ジョー」という曲を提供したポーラは、すでに奇才デイヴィッド・バーン(元トーキング・ヘッズ)やメリッサ・エスレッジサラ・マクラクラン、そして先のピーター・ガブリエル等同業者からの絶賛を浴び、その後、カウンティング・クロウズやサラ・マクラクランの全米ツアーのオープニング・アクトとしても起用されている。
 そしてついに96年セカンド・アルバム「ディス・ファイア」のリリースによって、それまでの苦労が報われることになる。このアルバムは全米で大きな反響をよび、「オール・ザ・カウボーイズ・ゴーン」が見事トップ・テン・ヒットを記録、「アイ・ドント・ウォント・トゥ・ウェイト」も映画「シティ・オブ・エンジェル」のTVコマーシャルに採用されたこともあり日本で大ヒットした(ちなみに映画本編でも「フィーリン・ラヴ」が使われていた)。そしてなんと、97年のグラミー賞では、アルバム・オブ・ジ・イヤー、レコード・オブ・ジ・イヤー、ソング・オブ・ジ・イヤー、ベスト・ポップ・アルバム、ベスト・フィーメール・ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス、プロデューサー・オブ・ジ・イヤー、ベスト・ニュー・アーティストの7部門でノミネートされ、結局ベスト・ニュー・アーティストのみの受賞に終わったものの、特に女性では史上初というプロデューサー部門でのノミネートがたいへんな話題となった。
 このノミネートでも分かるとおり、このセカンド・アルバムは、ポーラ自らがプロデュースにあたり、前作同様のすばらしい楽曲をさらに贅肉をそぎ落としたシンプルなサウンドとエモーショナルなヴォーカルでじっくり聴かせ、リスナーに歌(ポーラの叫び)そのものがダイレクトに伝わるよう作られている。また、ポーラはプレイヤーとしてもキーボード、クラリネットの他、ジャミロクワイがよく使っているオーストラリアの先住民族アボリジニの伝統楽器ディジリドゥーまで吹いている。アルバムのレコーディングにあたっては、ポーラのバークリー時代の学友の他、ベースにキング・クリムゾントニー・レヴィン、ゲスト・ヴォーカルとしてピーター・ガブリエルも1曲のみだが参加している。この成功を受け、ついに日本でも97年にこのセカンドでアルバム・デビュー。その好評ぶりからファースト・アルバムもすぐに発売された。
 アルバムを2枚しかリリースしていないとはいえ、すでにベテランの風格を漂わせていたポーラは、じっくりと時間をかけ、3年ぶりとなるアルバム「アーメン」を99年に発表。これがまたすばらしい!
 この作品から、ポーラ・コール・バンドというバンド名義にはなってはいるが、実質ポーラが全権を握っていることには変わりなく、前作同様プロデュースもポーラ自身が行っている。他のメンバー2人は、いずれもバークリー時代の学友で、
Kevin Barryケヴィン・バリー(g)とJay Belleroseジェイ・ベルローズ(ds)。今回もベースはほとんどの曲でトニー・レヴィンが弾いている。
 このアルバムでは、まず1曲目の大胆なオーケストレーションの導入に驚かされる。透き通るようにきれいな曲で、さっそく日本では何かのテレビCMに使われていた。つづくタイトル曲「アーメン」では、今度はスクラッチを穏やかな曲の中で背景音のように使ってみせる。それまでのほとんどのアーチストの手法では、ディスコティック・サウンドとの組み合わせによって、よりテンションを上げるために使用されていたスクラッチだが、ここでの場合、スクラッチ音を遠くで響いているように使うことで、穏やかな曲にも調和が可能なことを教えてくれる。このセンスには脱帽、まさに天才的だ。
 また、このアルバムはCD時代にはめずらしく10曲しか収録されていないが、このぐらいのボリューム感が飽きのこないちょうどよい。本作ではラップに挑戦してみたり、オーケストラ・アレンジを施してみたりという冒険はあるものの、全体的には前作が情熱的であったとすれば、対照的にとても穏やかな印象を受ける。追記しておくと、このアルバムのために新しく書き下ろされたものは1曲もなく、すべてがストックしてあった時期がバラバラの曲だという。しかし、聴いた印象では統一感があり、とてもそんな風には思えない。まったく恐るべき才能のミュージシャンが現れたものだ。これからもしばらくはポーラから目が離せない。(HINE)2003.3


ハービンガー
Harbinger

1994年 Imago/WEA
ディス・ファイア
This Fire

1996年 Imago/WEA
アーメン(Paula Cole Band)
Amen.


1999年 Imago/WEA