PARIS パリス


ミキシングの妙で聞かせる異色ハードロック・トリオ

Robert Welch ロバート・ウェルチ/ギター、ヴォーカル
Glenn Cornick グレン・コーニック/ベース・ギター、キーボード
Thom Mooney トム・ムーニー/ドラムス

1976年彼らは何の前触れもなく突然現れた。その最初に聞いた「レリジョン」という曲は、とてつもなく混沌としたヘヴィさで度肝を抜かれた。
しかもこれがたった3人からなるバンドだというから、さらに衝撃的だった。
音の隙間がまったく無いほどの多重録音とミキシングの妙が、この異色のヘヴィ・サウンドを作り出していたのだ。
意外なことに彼らのデビューはアメリカからであった。時はちょうどキッスやエアロスミスの出現によってアメリカン・ロックが復権を果たしつつあった頃なので、タイミング的には良かったのだが、彼らのサウンドはあまりにもイギリス的だ。
それもそのはず、メンバーは元フリートウッド・マックのボブ・ウェルチ(改名前)と元ジェスロ・タルのグレン・コーニック、そしてアメリカらしからぬサウンド・クリエイターとして知られる奇才トッド・ラングレンも在籍していた元ナッズのトム・ムーニーからなっていたのだから・・・。
もっともトムはレコーディングのためだけに呼ばれたらしい。実質サウンドのキーマンになっていたのは、他でもないボブ・ウェルチだ。
ウェルチは、60年代後半ヨーロッパの高級ホテルやクラブでミュージシャンをやっていて、地中海を見渡せる高級マンションに住み、何不自由ない生活を送っていたそうだ。しかし、そんな生活に飽きたのかイギリスへ渡ると、71年フリートウッド・マックから誘われるままバンドへ加入。
そこでその才能をいかんなく発揮し、ピーター・グリーン脱退後のマックを立て直すとともに、その後ポップ路線で大ヒットするサウンドの基礎を創った。だが、その大成功を見る前にあっさりバンドを脱退している(74年)。自分のやるべき仕事を果たして満足してしまったのだろうか!? 「脱退理由は特にない、やめてどうするという計画もなかった」と本人は言う。
パリスの構想は、デビュー約1年前からウェルチと彼の旧友でありエンジニアのジミー・ロビンソンとの間で練り上げられていたそうで、ウェルチとはタル時代からの知り合いで、腕の立つベーシストとして知られていたグレンをまず呼び寄せた。そしてレコーディング間際にドラムをトムに決めたという。
彼らは75年ファースト・アルバム「PARIS」でデビューしたが、日本では翌76年にこのアルバムがリリースされている。デビュー直後からかなり話題になり先の「レリジョン」があちらこちらのFMで流れていたが、アルバム全体を聞いてみると、ハード&ヘヴィだけでもない。
ある意味肩すかしを食らったような印象だが、他の曲もけして悪くない・・・と言うより、今聞くと1曲目の「ブラック・ブック」などの方がシンプルな中に隠し味が詰め込まれた、ニュー・ウェーヴの香りも漂う名曲だ。
このレコーディング直後ドラムのトムが脱退。やはりトッド・ラングレンがらみで元トッド・ラングレンズ・ユートピアの
Hunt Salesハント・セールスが後釜としてパリスに加入している。
しかし、実際には、このパリスというバンドはウェルチの気まぐれで、気が向いた時だけ活動していたという話で、サウンドの方も、このファースト・アルバムで、彼の言う「自分で何か面白いことの出来るバンドを作りたかった。ロックンロールのエネルギーに満ちあふれたものをやりたいと思った。」といった構想が達成されてしまうと、76年リリースのセカンド・アルバムでは、プロデュース&エンジニアもBob Hughesに代え、ハード&ヘヴィさが消えてしまい、どちらかというとポップ&ニューウェイヴ路線の方へとシフトしている。
そして、77年ウェルチはまったく違うタイプのAORサウンドでソロ・アルバム「FRENCH KISS」をボブ・ウェルチ名義で突然リリースし、プラチナムのビッグ・ヒットを放った。これによりバンドは休止状態になり、グレンが脱退してパリスは正式に解散した。
グレンはジェスロ・タルのオリジナル・メンバーでありながら全盛期には脱退していて、パリスの前にもワイルド・ターキーというバンドを結成しているが思うような成果は得られなかった。そしてこのパリスもセールス的には今ひとつであったということで疲れ切ったのであろうか、このあと音楽界から完全に身を退いてしまった。
トム・ムーニーは、セッション・プレイヤーとして活躍し現在も活動中。ハント・セールスはイギー・ポップとの仕事を経た後、デビット・ボウイ率いるティン・マシーンに参加したことでも有名だ。
そしてウェルチだが、79年にもAOR路線で「Three Hearts」というソロ・アルバムをリリースし、トップ40ヒットを記録するが、その後80年代は低迷。
90年代もロイヤリティー問題でフルートウッド・マックを相手に裁判を起こす(94年)と98年フルートウッド・マックがロックンロール殿堂入りした時に初期メンバーで1人リストから除外されるなどの、あまりいいニュースは聞こえてこない。才能とセンスにあふれる人なので、また良いアルバムを出して話題になって欲しいものである。
最後に付け加えておくと、今回PARISを調査するにあたり、ファースト・アルバムのプロデューサー&エンジニアの「JIMMY ROBINSON」がディテクティヴをプロデュースした時のジミーペイジの偽名と同じと言うことで、もしかしたら・・・と思ったのだが、実際はJIMMY LEE ROBINSONというリトル・ウォーターなどと共演しているギタリストで全くの別人であった。(HINE)
 2001.7


PARIS/PARIS
パリス・デビュー


1975年Capitol/東芝EMI/Zoom Club

BIG TOWNE,2061/PARIS


1976年Capitol/東芝EMI/Zoom Club