SYD BARRETT シド・バレット

Written by KEN 「KENの生悟り」


 1946年1月6日、ケンブリッジ生まれ。本名ロジャー・キース・バレット。

 ご存知「狂ったダイアモンド」であるシドだが、幼い頃より映像的なものやイメージ的なものに対する関心が強く、逆に楽器はそれほど得意ではなかった。ギターとの出会いも父親を失って3年後の15歳と、他メンバーと比較すると、比較的遅い方である。そのうえ興味深いことには、どうやら彼はコード弾きではなく、独自の単音弾きばかりに没頭していたようだ。コードはアマチュア・バンドを経て、デヴィッド・ギルモアと出会ってから彼に習っている。

 ギターを手にして間もなく、シドは「ジェフ・モット&モットーズ」というバンドに参加し、1年後には「ザ・ホラーリング・ブルース」なるバンドでベースを担当する。その後、画家になるべくしてキャンバーウェルの美術学校に進むが、その前後にロジャーに誘われ、当時は「アブダブス」であったフロイドの原型にてリード・ギターを担当した。これが65年のことであるから、シドは当時19歳である。やがてバンドにありがちな改名にあたってふたりのブルース・マンから「ピンク・フロイド・サウンド」というアイディアを打ち立てたのがシドである、というのは有名な話だが、そのエピソードといい、その前後に録音した“Lucy Leave”及び“King Bee”の音といい、参加していた他のバンドといい……シドの根幹はブルースや、ブルース・ロックにある。そこへロックンロールの破天荒な精神と、幼少の頃より豊かであったイメージ的側面とがぶつかり合い、シドの世界が急速に開けていくのだ。

 そうして、よく「サイケデリックなイメージの具現化である」と言われる『夜明けの口笛吹き』リリース後、初のアメリカ・ツアーに出た先でその精神疲労とドラッグ過多により、次第に、いや、急激にシドの精神は不安定になっていく……というのが定説であるが、実際には「『エミリーはプレイ・ガール』を録音する頃には虚空を眺めるようになっていた」というデイヴの証言や、「ある金曜日にBBCセッションを控えているのに失踪し、翌週の月曜になって別人となって現れた」というリチャード・ライトの話、さらに「67年のアメリカ・ツアーからおかしくなったようだ」というニック・メイスンの意見もある。そのうえでシドはクロムウェル・ロードに住むLSD仲間のパーティーなどにも参加していたというバックグラウンドもあり……整理すると、ロンドンにいる時点で狂気は萌芽を見せ、やがてアメリカ・ツアーで成長、爆発してしまったということになりそうだ。

 それから数々の奇行を繰り返し、バンドとの調和ができなくなったシドは、ソングライターとしてフロイドに残ることになる。これはよくビーチ・ボーイズに於けるブライアン・ウィルソンと喩えられるが、そこまで綺麗な形ではない。単純に、レコード会社がシドを宣伝文句に利用し続けたかっただけのことだ。当時のバンドはシドが中心であったため、どんな形でも彼がいなければ売れっこない、そういう判断による決定だったのだ。だからこそ68年の3月、それも不可能であるという判断がなされ、マネージャーだったピーター・ジェナーは「シド抜きでバンドを続行、リーダーはウォーターズ」という話を聞いた時には笑い転げてしまったのだと言う。これは結果的に間違っていたとジェナー自身も認めているが、それほど、シドの存在は絶対であったということの証にもなる。

 バンドから離れたシドは、世間から隠蔽していたようであったが、しかし実際には多くの曲をピーター・ジェナーのプロデュースのもとにレコーディングしていた。そして翌69年3月、EMIにシドは突然スタジオ・スケジュールを確認する電話を入れる。それに応対し、しばし右往左往したハーヴェスト・レーベルのマネージャー、マルコム・ジョーンズが「ノーマン・スミスにプロデュースを頼もうとしたが彼はフロイドの『ウマグマ』のために担当できない」という旨をシドに伝えると、シドはあの有名なひとことを彼に突き付ける。

“You do it(あんたがやりなよ)”

 そうしてマルコム・ジョーンズの指揮下により、シドはソロ・アルバムを製作していく。当時のソフト・マシーンのメンバーが参加した“Clowns & Jugglers”をもとにした“Octopus”や、ジェリー・シャーリー(DS、元ハンブル・パイ)やジョン・ウィリー・ワトスン(B)とのセッションをこなしていく過程で、シドはクロイドンで行われたフロイドのステージを観に行っている。そこでの再会を機に、ロジャーとデイヴもプロデュースに参加することになり、70年1月にして、バラバラだった楽曲群を奇跡的にまとめあげた『帽子が笑う…無気味に(オリジナル邦題:幽玄の世界)』を発表する。

 シドはデイヴ(B)とジェリー・シャーリー(DS)とでBBCラジオにも出演(88年に“PEEL SESSION”として発表、日本未発売)し、さらにレコーディングを進めたがったが、ロジャーは「もう誰もシドをプロデュースできるものか」と言い残して去り、デイヴが残った。しかしロジャーの言葉通り、デイヴ単独ではプロデュースなどできる筈もない。そこで彼はリックに救いを求め、シドとのセッションを続けていく。しかしシドの精神状態は悪化する一方で、ほぼ力技でセッションを押し進めたあげくに同年11月『その名はバレット(オリジナル邦題:シド・バレット・ウィズ・ピンク・フロイド)』を発表。難産となった。

 有名なエピソード――その収録中にロンドンはオリンピア行われたライヴにて――を聞けば、彼の精神状態が幾らか解るかも知れない。シドはここでもデイヴ、ジェリーと共に演奏したが、4曲が終わると“Oh, great! Thank you very much!”と言い残してステージを去ってしまったというのだ。ひょっとすると、観客の視線から早く逃げたかったのだろうか……?

 その後の方針について、ジェナーはサード・ソロ・アルバムの製作を勧めるが、シドは「医者になる」と言い出してケンブリッジの実家に帰ってしまう。やがてゲイラ・ピニオンと結婚。オックスフォードで中断していた絵画をまた始める。と思いきや、72年になってジャック・モンク(B、元デリヴァリー)と出合ったのをきっかけに、トゥインク(DS、元ピンク・フェアリーズ)を誘いトリオ編成で「スターズ」なるバンドを結成。デモ録音と3回のギグを行った後、またしても精神状態が不安定になり、バンドは空中分解。

 そしてシドは、またも姿を消してしまう。
 今度は、長い沈黙をもってして。

 やがて『炎』収録時の皮肉なエピソード――シドへ捧げるアルバムの録音中に、醜く変貌したシドが現れた――があった後、シドはミュージック・シーンから完全に消えた。82年にフランスの雑誌「アクチュエル」の記者により写真が撮られ、インタビューもされたこともあった。88年には未発表音源で編まれた『オペル(オリジナル邦題:オペル〜ザ・ベスト・コレクション・オブ・シド・バレット)』も発表された。だがそれ以来、一部で熱狂的な盲信や根も葉もない噂が飛び交いつつも、マスコミのトップに扱われるようなことはまるでなくなっていった……。

 誰もが抱えるであろう疑問が、ひとつある。
「その後のシドは何をしていたのか?」ということだ。

 こと「狂人」とされる人間の末路には死亡説から入院説、別天地でまるで違う人間として振る舞っているなどの逸話がまとわりがちだが、そういったものをシドに求めている方は、この先の文章には「夢を壊される」だろうから、ここで読書を中断して頂きたい。
 シドのバンド以降から現在については、私なりにまとめると、こうだ。

 彼は家族のあたたかい保護と理解に恵まれるものの、スキャンダル狙いのカメラに怯える毎日を続ける。そうして彼は、そのため彼は、子供にしか笑いかけなくなってしまった。やがて最大の理解者であった母をも失い、近隣者――姉ローズマリー――に擁護を受けることになる。彼の仕事は「家事手伝い」で、買い物のため街に出かけるのは好きだという。しかし常に、何かに怯えるかのような態度や視線がそこには存在する。精神の病も一時期ほどではなく、平常な生活を営めてはいる。生来の夢であった画家への希望はまだ棄てておらず、今でも、絵を描くことを趣味としている。

 こういったことを考えると、彼は常に「脅迫観念」或いは「脅迫性の妄想」に駆られていたのではないだろうか? 何かに追われ続け、変調をきたした精神。自分の創作につきまとう観客の歓声。それから逃れるべくスターダムからドロップ・アウトしても、追い続ける興味本位。それらが、シドの病を完全には治してくれないのだ。類推するに、シドは重い不安神経症とドラッグ過多でネジを外した時に被った重度の統合失調症とを患っていたのだろう。
 だからこそ、彼を悲劇のヒーローに仕立て上げたり、興味本位で追っている人間には、私はこう言ってやりたい。

「そっとしておいて、くれないか」

 私にできることは、まず彼を原寸大のひとりの人間として扱ったうえで、彼の世界を、彼の創造した世界を膾炙することだけである。決してスキャンダルを追い求める行為ではないことを、ここに言っておきたい。
 そして、シドを語る人間すべてに、それを願いたい……。

 しかし私の祈り虚しく、マスコミは彼を執拗に求め続けた。
 そして2006年7月7日、ロジャー・キース・バレットは糖尿病に起因する合併症のため、60歳でその生涯を安らかに閉じた。謹んでご冥福をお祈りしたい。 (KEN) 2007.2

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