GRAND FUNK RAILROAD グランド・ファンク・レイルロード


アメリカンNo.1ロック・バンド、驚異の暴走列車GFR 「We're an American band〜♪」と自らも唄っていた通り、70年代初頭〜中期にかけて、当時のブリティッシュ・ハード全盛期の中にあって、唯一アメリカで対抗できるハードロック・バンドがGFR(グランド・ファンク・レイルロード)だった。
また、当時はまだ「産業ロック」なる言葉もなかったが、GFRはまさに産業ロック的な売れ方をしたアメリカで初めてのバンドでもある。誤解のないように言っておくと、「産業ロック」とは一部の評論家達が悪意を込めて中傷するために使っていた場合もあるが、ここで言う産業ロック的とは、売るために過大なプロモーション活動をしたり、シングル用にわざと4,5分に収まるポップ調の曲を入れることで、悪意はない。
オリジナルメンバーは、
Mark Farner マーク・ファーナー/ギター・ヴォーカル
Don Brewer ドン・ブリューワー/ドラムス、ヴォーカル
Mel Schacher メル・サッチャー/ベース・ギター

GFRはインディアンの血を引くマーク・ファーナーと同じバンドでプレイしていたドン・ブリューワーが1968年ベースのメル・サッチャーを誘い結成され、翌69年にアトランタ・ポップ・フェスティバルで衝撃デビューを果たした。ノーギャラで出演したとも言われるこのイベントには、12万5千人もの観客が集まり、この3人の大音量でエキサイティングなステージはたちまちのうちに評判になった。
しかし、当時の米ロック界には、レッド・ツェッペリンやディープ・パープル、ブラック・サバス、ユーライア・ヒープなどイギリスのビッグ・ネーム達が次々と上陸し、ブリティッシュ・ハード旋風が吹き荒れていた。国内のバンドにはとても太刀打ちできるような勢いもなく、GFRもまたそういったビッグネーム達の前座にすぎなかった。
ところが、ライブでの彼らのパフォーマンスは、そういったビッグ・ネームと対等以上に渡り合えるパワーを持っていたことから、当時のマネージャーやレコード会社は誇大広告や過大プロモーションを仕掛け、彼らをブリティッシュ勢と並ぶビッグ・ネームに育てようと画策した。
1年の間に3枚ものアルバムを出し、全米ツアーも敢行、宣伝では今度のツアーでは何万人集まった・・・とあおりたて、気が付いてみれば、本当にライブではアメリカ随一のバンドにのし上がっていたのだ。それは、マジソン・スクエア・ガーデンでのコンサート・チケットが、発売後ソールドアウトになるまでの時間で、ビートルズの記録を上回ったということからも明らかだ。
71年には初来日も果たし、豪雨の後楽園球場(現東京ドームにあった屋外型球場)で伝説的なパフォーマンスを見せている。
だが、彼らが本当の意味で名実共に世界で認められるビッグ・バンドとなるのは、72年キーボードに
Craig Frost クレイグ・フロストが加入後、バンド名を「グランド・ファンク」と縮めてからのこと。
クレイグ加入後2枚目(正式にはPhoenixではまだゲスト扱い)、通算8作目となる73年リリースのアルバム「アメリカン・バンド」はプロデューサーに奇才トッド・ラングレンを迎えて全米2位の大ヒットを記録。同タイトルのシングルは、なんとハードロック・バンドとしては異例の全米No.1に輝き、一躍世界のトップスターに仲間入りした。
翌74年には、再びトッド・ラングレンのプロデュースで、「輝くグランド・ファンク」をリリースし、そこからのシングルでオールディーズのカヴァー曲でもあった「ロコモーション」は、なんと全米2週連続1位、トップ40に連続14週とどまるという、とてつもない記録をうち立てた。
その後も彼らは、キッスやエアロスミスの出現により、アメリカンロックが本格的に復権する70年代半ばまでの間、常にアメリカンNo.1バンドとしての地位をキープし続けた。
そして、76年バンド名を再び「グランド・ファンク・レイルロード」に戻して、最後のスマッシュ・ヒット「テイク・ミー」を放ち、その役目を終えたかのように解散した。余談だが、その解散直前に発売されたフランク・ザッパ・プロデュースの「熱い激突」は、実は「驚異の暴走列車」より前に録音されたもので、ザッパが録音後に持ち帰り、半年以上もミックス・ダウンを行っていたため、発売が遅れリリース日程が前後してしまったそうだ。
この「熱い激突」は、GFR最大の魅力であるライヴ感覚を見事にスタジオで引き出した、ザッパの名プロデュースが光る名作だ。もっと早くリリースしていれば、間違いなく大ヒットしていたことだろう。
解散後は、マークはソロに転向、他の3人はフリントというバンドを結成するが、共にパっとせず、81年にマークとドンはベースに
Dennis Bellinger デニス・ベリンジャーを迎えての「グランド・ファンク」名義で2枚のアルバムをリリースした。しかし、これも成功するには至らず、自然消滅してしまった。
1996年には再びベースにメルを引き戻し、オリジナル・メンバーで「グランド・ファンク・レイルロード」として復活、1枚のアルバムをリリースしたが、長くは続かず2年ほどで再びマーク・ファーナーはソロに転向、2003年にマーク自らのバンドN'rG名義のライヴ盤をリリースした。

70年代前半に最も“アメリカ”らしかったバンド

彼らのサウンドを一言で表すならば「豪快」「痛快」「元気」など、いずれもスカッとするような快感サウンドを思い浮かべるだろう。特にドラムを叩きながら唄うドンの図太い声(「アメリカン・バンド」は彼のヴォーカル)や所狭しとステージ上を暴れまくりながらも、確実なテクで名フレーズを生み出すマークのギターが特徴的だった。全体的にはストレートかつパワフルで、陽気で乾いたサウンド、どれをとってもアメリカ的で、そのステージ・パフォーマンスと合わせ、おそらくロック史上最もアメリカ的なバンドだったのではないだろうか。
70年代初頭といえば、ちょうどヒッピー・カルチャーやサイケデリック・ブームが一段落し、それを吸収したブリティッシュ勢達が、ハードロックとプログレッシヴ・ロックに分かれ、大挙してアメリカへ渡ってきた頃だ。アメリカ国内では、一部にサザンロックなどの活躍もあったが、その新鮮なサウンドと派手なパフォーマンスのブリティッシュ勢を前に、彼らはいかにも地味であった。
特にクラシック・ミュージック等と組み合わされた難解なサウンドには、ヨーロッパと伝統が違いすぎるアメリカ人達にとっては、同じ土俵では到底かなわない領域でもあった。
GFRは、それとは全く正反対の分かりやすいストレートさで押すタイプだったが、唯一派手なパフォーマンスではブリティッシュ勢に引けを取らないバンドであった。この彼らの特徴を殺すことなく、うまくブリティッシュ・エッセンスを振りかけながら料理したのが、自らもバンドを率いて活動していた奇才トッド・ラングレンで、彼のプロデュースにより、サウンドが格段に分厚くなり洗練された。その後も、キッスやスリー・ドッグ・ナイトを育てたジミー・イエナーや、これまた奇才のフランク・ザッパなど、次々と名プロデューサーにも恵まれた。しかし、それでも彼ら自身、根底ははまったく変わらなかったことが、良さでもあり、逆に最後には新鮮さを欠き失速していく原因にもなってしまった。
とは言え、70年代前半、孤軍奮闘し、他の若いアメリカン・ロック・アーチスト達へ、成功への秘訣を示した功績はたいへん大きい。この後つづく、売れすぎて「産業ロック」と皮肉られたアーチスト達へ多大な影響を与えたことは間違いない。(HINE)
2003.11更新

協力:shiokaさん




On Time
Capitol/東芝EMI

Grand Funk
Capitol/東芝EMI

Closer To Home
Capitol/東芝EMI

Live Album
Capitol/東芝EMI

Survival
Capitol/東芝EMI

E Pluribus Funk
Capitol/東芝EMI

Phoenix
Capitol/東芝EMI

ディスコ・グラフィー

1969年 On Time(グランド・ファンク・レイルロード登場)*名曲「ハート・ブレイカー」を収録
1970年 Grand Funk(グランド・ファンク)*通称レッド・アルバム。全米11位まであがるヒットを記録した
1970年 Closer To Home(クローサー・トゥ・ホーム)*同タイトルのシングルもスマッシュ・ヒットした
1970年 Live Album(ライブ・アルバム)*2枚組のライブ盤。この年3枚目のというハイペースでのアルバム・リリース
1971年 Survival(サバイバル)
*R・ストーンズの「ギミーシェルター」やデイブ・メイソンの「イッツ・オールライト」のカヴァー・ヴァージョンも収録
1971年 E Pluribus Funk(戦争をやめよう)*5日間でレコーディングしたといわれる、驚異的なスピード・リリース
1972年 Phoenix(不死鳥)
*クレイグ・フロスト(kb)が加入し、サウンドに広がりができた。「ロックンロール・ソウル」がスマッシュ・ヒット
1973年 We're An American Band(アメリカン・バンド)
*記念すべき全米初No.1ヒット「アメリカン・バンド」を含む名盤。トッド・ラングレン・プロデュース
1974年 Shinin On(輝くグランド・ファンク)*「ロコモーション」が全米2週連続1位というビッグ・ヒット。このアルバムもトッド・ラングレンがプロデュース
1975年 All The Girls In The World Beware(ハード・ロック野郎)*プロデュースをジミー・イエナーに代え、さらにポップになった
1975年 Caught In The Act(グランド・ファンク・ツアー'75)*GFRと言えばやはりライブが最高です!2枚組でその迫力も倍増。
1976年 Born To Die(驚異の暴走列車)
*再びジミー・イエナー・プロデュースによる彼らが最後に録音したアルバム。「テイク・ミー」がヒット
1976年 Good Singing,Good Playing(熱い激突)*フランク・ザッパがプロデュースした話題作だったが、発売が遅れ、実質ラストアルバムになってしまった
1981年 Grand Funk Lives(グランド・ファンク復活)*再結成後初のアルバム。Livesとは「生きている」という意味でライヴではない
1983年 Whats Funk(ホワッツ・ファンク)
*再結成後2枚目にして最後のアルバム
1997年 Bosnia(ボスニア)*再び再結成して行ったボスニア救済チャリティコンサートを収録したライブ盤2枚組。ピーター・フランプトン(g)がゲスト出演
1999年 Thirty Years Of Funk 1969-1999(30イヤーズ・オブ・ファンク1969-1999)*3枚組のベスト盤
2002年 Live: The 1971 Tour(1971ライヴ)*突然リリースされたトリオ時代末期のライヴ



We're An American Band
Capitol/東芝EMI

Shinin On
Capitol/東芝EMI

All The Girls In The World Beware
Capitol/東芝EMI

Born To Die
Capitol/東芝EMI

Good Singing,Good Playing
Capitol/東芝EMI

Whats Funk
Full Moon/WEA

Live: The 1971 Tour
Capitol/東芝EMI


☆☆★名盤PICK UP★☆☆

グランド・ファンク・ツアー'75
Caught In The Act

グランド・ファンク
Grand Funk

Capitol/東芝EMI

SIDE-A

1.フットストンピン・ミュージック
 Footstompin' Music

2.ロックン・ロール・ソウル
 Rock & Roll Soul

3.クローサー・トゥ・ホーム
 Closer To Home

SIDE-B

1.ハートブレイカー
 Heartbreaker

2.オー、ワンダフル
 Some Kind Of Wonderful

3.シャイニン・オン
 Shinin' On

4.ロコモーション
 The Loco-Motion

SIDE-C

1.ブラック・リコリス
 
Black Licorice

2.ザ・レイルロード
 
The Railroad

3.アメリカン・バンド
 
We're An American Band

4.T.N.U.C.
 
T.N.U.C.

SIDE-D

1.孤独の叫び
 
Inside Looking Out

2.ギミー・シェルター
 
Gimme Shelter

このアルバムがリリースされた時、すでに71年豪雨の後楽園球場での来日公演が伝説と化していただけに、彼らはどんなにすごいライヴを聞かせてくれるのか大いに期待した。さらに「アメリカン・バンド」「ロコモーション」といった大ヒットを放った後のライヴということで、これはGFRのベストとしても価値あるアルバムに違いないと、リリース直後に急いでレコード店へ向かった記憶がある。
実はこのアルバムを買う以前は、GFRと言えば先の2曲の入ったアルバム「アメリカン・バンド」と「輝くグランド・ファンク」ぐらいしか聞いたことがなかったのだが、どちらのアルバムも名盤という噂のわりには、いまいちピンと来ていなかった。同じ時代のブリティッシュ勢と比べても、どうも音がスカスカで、トッド・ラングレンのプロデュースでさえ、ヒット曲以外ではあまりこのバンドに合っていないような気がしていた。しかし、このライヴ盤を聞いて彼らへの評価がまるっきり変わってしまった。「こりゃ、すごいバンドだ!!」まるで別バンドのよう。見てもいないのに後楽園での伝説ライヴが蘇るようだ。
言うまでもなく、以前70年に出したライヴとはメンバー構成が違っている。トリオ時代のライヴも、荒削りながらそれをノリでカバーするパワフル極まりないものであったが、体調が悪いと少し疲れるような感じもあった。もちろん初期からのファンであれば、「このシンプルで荒削りなサウンドがいいんだよ」と言うのであろうが、キーボードのクレイグ・フロストが加わったことで、音の幅が格段に広がり、本作でのライヴはとても聞きやすく、良い意味で万人受けする内容になっている。またフロストはオルガン系のキーボードを多用しているため、初期の曲でもオリジナルの雰囲気を壊すような違和感もまったくない。
さて、肝心の本作の内容に移ろう。1曲目からもうノリノリだ!A-1は「戦争をやめよう」の1曲目に収められていた曲で、オープニングにふさわしい軽めでポップな曲。そして早くも2曲目からパワーは全開。このアルバム中でも群を抜くすばらしさの2曲目から4曲目の流れ。最高にかっこいい!!R&Bやファンクの影響が色濃く、グランドFUNKという名前がダテではないことを証明すると共に、GFRのすべての魅力を凝縮したような部分でもある。A-2は「不死鳥」、A-3は「クローサー・トゥ・ホーム」、B-1はデビュー・アルバム「グラン・ファンク・レイルロード登場」にそれぞれ収められていた。また、LPではクローサー・トゥ・ホーム〜ハートブレイカーがA面とB面にまたがっていたため、A面の終わりはフェイド・アウトし、B面の頭に再びクローサー・トゥ・ホームの最後の一節「I'm getting closer to my home〜♪」というコーラスを入れ、そのままハートブレイカーへとつないでいた。こうすることで、盛り上がったノリが途切れないように工夫されていたのだ。もちろんCDではA面とB面に区切る必要もないので、ノリノリ状態のまま3曲通して聞けるはずなのだが、なぜかクローサー・トゥ・ホームはフェイド・アウトのまま終わっているのがとても残念だ。とはいえ、続く「ハート・ブレイカー」の演奏は、そんなことも吹っ飛んでしまうほど素晴らしい!
B-2からB-4までは説明不要のヒット曲オンパレード。しかしシャイニン・オンがこんなに良い曲だったとは、このライヴを聞くまで気がつかなかった。スタジオ盤とはノリがまるで違う!
C-1からC-3はアルバム「アメリカン・バンド」からのナンバー。ここでもスタジオ盤とは比較にならない、パワフルでエキサイティングな演奏を聴かせてくれる。あまり目立つことのないフロストのキーボードも、C-1、C-2では主役級だ。C-3も説明不要の全米No.1ソングだが、映画風のSEからドン・ブリューワーのパワフルなドラミングでカッコよく入るイントロはオリジナル以上の感動を与えてくれる。
C-4はデビュー・アルバムからのハイテンポなナンバー。彼らは原点である初期のナンバーに戻ったことで、最後に締めくくられたような気がするが、もう1面カヴァー曲の大作が2曲入っている。LPで聞いていた頃は、この2曲は付け足しのようで、「なんでこんなカヴァー曲が必要だったのだろう?」と疑問に思い、わざわざ盤を裏返して聞くことはほとんがなかったが、CDで聞くとこの2曲もライヴの流れの中でちゃんと存在感を示している。「T.N.U.C.」がバンドの原点だとすれば、この2曲はGFRの音楽ルーツなのだ。原曲はD-1はアニマルズ、D-2はローリング・ストーンズのものだが、R&Bを音楽ルーツにしているという面で共通している。GFRのサウンドもまたR&Bを根底に持っているということを示す意味でも、この2曲を演る必要性があったのだろう。
「歴史に残る名演」とは、まさにこのアルバムでの彼らの演奏のことだ。彼らの熱いロックンロール・ソウル(魂)がきっと届くはずだ。(HINE)