THE DOORS ドアーズ


Written by KEN



メンバー(左から)

ロビー・クリーガー Robbie Krieger ギター
ジム・モリソン Jim Morrison ヴォーカル
レイ・マンザレク Ray Manzarek  キーボード
ジョン・デンズモア John Densmore ドラムス






 ドアーズは、カリフォルニア州ロサンゼルスのUCLA映画科の学生であったジム・モリソン(Vo)とレイ・マンザレク(Key)により結成される。マンザレクは兄と共にリック&ザ・レイヴンズというバンドで活動していたが、モリソンの自作の詩と歌を聴かされ、彼とバンドを組むことを決意した。残るメンバーはロビー・クリーガー(G)とジョン・デンズモア(Ds)。彼らはサイケデリック・レンジャーズというバンドで活動していたが、バンドは短命に終わり、メディテイション・センターを通じて知り合っていたマンザレクの勧誘によってバンドに加わる。こうして不動の4人が揃い、バンドは産声をあげた。それは65年のことだった。バンドはオルダス・ハックスリーが18世紀の詩人ウィリアム・ブレイクの詩の一節から引用した書物の題名、『知覚の扉』をもとに、「ドアーズ」と名乗った。
 初期はマンザレクの兄や知り合いの女性ベーシストなどの協力を必要としていたドアーズは、ライヴをこなしていくと共に4人で活動する方針を固める。それには、マンザレクの弾く超人的なオルガン・プレイ(メロディを右手で、ベース・ラインを左手で弾く)により、ベーシストが不要となったためだった。これにより、ドアーズ最大の音楽的特徴であるオルガン・サウンドが確立する。しかしポップ・ソングが必要とされていた時代にドラッグの歌や退廃的な歌を演奏していたドアーズは、数々のステージからお払い箱となる。しかしそれでもライヴ活動を続け、やがてエレクトラの敏腕プロデューサー、ポール・ロスチャイルドが彼らの魅力を見出す。エレクトラはドアーズに契約を申し出て、バンドは慎重に考慮した末、それを受け入れる。この頃、モリソンは既にステディとなるパメラ・カーソンと出会っていた。

 そうして67年、シングル「ブレイク・オン・スルー」でデビュー。しかし“She gets high”という歌詞がドラッグを連想させるとして、“She gets”にされてしまう。それでもデビュー・アルバム『ハートに火をつけて』も発売され、エレクトラはアルバムのプロモーションのために、ドアーズをロック・バンドとしては初めてサンセット・ストリップの大看板に登場させ、ハイプの歴史の幕を開ける。また「ブレイク・オン・スルー」発売に於いてモリソンとマンザレクはプロモーション・フィルムを監督したが、それはミュージック・プロモーションの重要な布石となった。続け様に放ったシングル「ハートに火をつけて」は全米チャートでナンバー・ワン・ヒットとなり、ドアーズの出発を最高に仕立て上げた。しかしこの曲も“higher”という言葉が含まれており、出演した「エド・サリヴァン・ショウ」ではそれを削るように言われたが、モリソンはそのまま歌い、ポップ・シンガーとしての道を拒否。モリソンはそのルックスと、身体ラインを浮き立たせる革パンツでのステージ・パフォーマンスで当時のポップ界におけるセックス・シンボルのひとりとなった。
 同年にセカンド・アルバム『まぼろしの世界』を放ち、ファーストのサイケデリック・サウンドを深化させた内容は大いに受け入れられる。しかしライヴでは、モリソンが楽屋で知らない人物から催涙スプレーを浴びせられたり、それをステージで卑猥に詳述してショウが中止になり、ステージ上で初めて逮捕されたロック・シンガーになったりもした。それほどにドアーズの、いや、ジム・モリソンの個性と行動は注目を集めていた。
 68年、サード・アルバム『太陽を待ちながら』発売。シングル「ハロー、アイ・ラヴ・ユー」がナンバー・ワン・ヒットとなり、アルバムも全米1位を獲得する。しかし、本来ならばこのアルバムにはデビュー作に於ける「ジ・エンド」、セカンドに於ける「音楽が終わったら」のように、大曲「セレブレイション・オブ・ザ・リザード」が収録される予定だったが、中座し、その断片が個別曲としてアルバムに収録され、かつバンドが嫌うヒット狙いのシングルを収録した中途半端な出来となってしまった。ライヴでは、モリソンが観客を挑発するなどして、何度も暴動が起こった。
 69年、モリソンはフロリダ州マイアミでのコンサートにて、ステージ上で性器を露出したとして逮捕される。モリソンは軽犯罪及び重犯罪容疑で起訴され、軽犯罪容疑での裁判が続いた。そんな中、4作目『ソフト・パレード』がリリースされたが、ブラス隊を大フィーチュアしたり、シングル曲を多く含んでいたりと、方向性を見失っていたバンドの評価は前述の事件もあって、一気に急落する。さらには、モリソンがローリング・ストーンズを観にいく途中の飛行機の中で泥酔して馬鹿騒ぎしたとして、またも逮捕されるなど、バンドの評判は芳しくなかった。
 そうした風評を塗り替えよう、という意気で制作された、70年の『モリソン・ホテル』は、ブルースを下地にした傑作となった。一方でモリソンはカーソンと非公式ながら結婚。だが、モリソンの諸事件の裁判が悪い方向に傾き、ドアーズは悪評高いバンドになってしまう。そうして12月12日、ニューオーリンズのウェアハウスで、モリソン在籍時のドアーズとして最後のライヴを行うことになる。
 71年、モリソンはカーソンと共にパリに発った。その間に実質的なラスト・アルバム『L.A.ウーマン』がリリースされる。だが、モリソンが再びアメリカに戻ってくることはなかった。7月3日にカーソンと一緒に住んでいたパリのアパートの浴槽で、謎の変死を遂げているのを発見されたのだ。一説にはドラッグのオーヴァードーズだと言われているが、事実は現在まで謎のままである。最も有力な説は、カーソンがモリソンに致死量のヘロインを注射したというもので、それはカーソンがヘロインの過剰摂取で死亡する寸前に語ったという。モリソンはパリのペール=ラシェース墓地に埋葬された。
 それでも、残った3人は活動を続けた。当初は新たなヴォーカリストの採用を考えたが、モリソンのカリスマ性を継承できる人物などいる筈もなく、結局はクリーガーとマンザレクがヴォーカルを担当することになった。そうして同年に『アザー・ヴォイセズ』、72年には『フル・サークル』がリリースされたが、セールスも観客動員もふるわなかった。モリソンという偉大なるカリスマを失った彼らは、気の抜けたジャズ・ロックのような演奏しかできなくなっていた。そしてバンドは73年の初めには解散を決意する。
 静まり返ったドアーズ周辺が密かに慌しくなったのは、77年のことだった。70年に録音されていた、モリソンによる詩の朗読テープが発見され、それにドアーズの演奏を加えようという試みがなされたのだ。それは翌78年、ジム・モリソン&ドアーズの名義で『アメリカン・プレイヤー』として発表された。詩の朗読に演奏が重なったものを中心とし、未発表曲や別テイクなどを盛り込んだアルバムは、ドアーズの熱狂的なファンに迎えられた。メンバーは「録音中、ジムが降りてきて、僕達を見詰めている気分だったよ」と語っている。
 そうして、知覚の扉は静かに閉じられた……。

 ドアーズは、時代を経ても評価された。特にファースト・アルバムは名盤とされ、何度も編集盤やライヴ盤がリリースされてきた。91年にはオリバー・ストーン監督による映画『ドアーズ』も公開され、メンバーにそっくりなキャストにファンは驚かされた。と同時に、モリソンが自制の効かない精神病患者のように描かれたことにメンバーは不快感を表した。
 再評価の熱が高まる中、2002年にはマンザレクとクリーガーが「21世紀のドアーズ(The Doors 21st Century)」として活動を始めた。モリソンの代わりのヴォーカリストとして、イギリスのバンド、カルトのイアン・アシュベリーを加え、ベーシストにはクリーガーのバンドでベースを担当したアンジェロ・バルベラが参加した。彼らの最初のコンサートでは、ドラマーのデンズモアが参加しないと発表された。のちに伝えられたところでは、デンズモアは耳鳴りに苦しみ演奏することができなかったとされている。デンズモアの代わりに元ポリスのスチュワート・コープランドが加わったが、コープランドは数回のステージの後バンドを離れ、クリーガーのバンドのドラマー、タイ・デニスが後任となった。この時期のライブは映像ソフトとしても発売されており、賛否両論はあったが、一応の成功を見せた。
 しかしデンズモアは、実際には再結成に参加要請がなされなかったと主張した。2003年にデンズモアはマンザレクとクリーガーに対して「ドアーズ」の名称使用差し止めの裁判を起こす。その訴えは退けられたが、マンザレクはデンズモアのバンド参加への招待を公に繰り返した。デンズモアのバンド名使用差し止めの訴えにはその後モリソンの遺族とパメラ・カーソンの遺族が加わり、そうして2005年7月22日、ロサンゼルス上級地裁はバンド名使用差し止めの決定を下した。
 裁判によりバンド名使用の禁止令が出たことを受け、「21世紀のドアーズ」は「ライダーズ・オン・ザ・ストーム(Riders On The Storm)」へと改名。このバンド名は71年に発表されたアルバム『L.A.ウーマン』に収録されていた曲のタイトルであり、また皮肉にも新生ドアーズに参加していなかったジョン・デンズモアの自伝のタイトルでもあった。

 今後も、モリソンを失った「ドアーズのその後」が続くのか?
 それはメンバーと、ファン次第である。

(KEN) 2008.3 「KENの生悟り



DISCOGRAPHY

1967年 The Doors(ハートに火をつけて)
1967年 Strange Days(まぼろしの世界)
1968年 Waiting for the Sun(太陽を待ちながら)
1969年 The Soft Parade(ソフト・パレード)
1970年 Absolutely Live
1970年 Morrison Hotel(モリソン・ホテル)
1970年 13
1971年 L.A. Woman(L.A.ウーマン)
1971年 Other Voices
1972年 Full Circle
1972年 Weird Scenes Inside the Gold Mine
1973年 The Best of the Doors
1978年 An American Prayer
1980年 The Greatest Hits
1983年 Alive, She Cried
1985年 Classics
1988年 Light My Fire
1990年 Live in Europe
1991年 In Concert
1991年 Greatest Hits, Vol. 2
1995年 Greatest Hits
*日本限定
1997年 The Doors Box Set
1999年 The Complete Studio Recordings
2000年 Essential Rarities
2000年 The Best of the Doors 
*2枚組
2000年 Bright Midnight Records Sampler 
*ライヴ
2001年 Live in Detroit 
*1970年8月5日Cobo Hallでのライヴ
2001年 The Very Best of the Doors
2001年 Live in Hollywood: Highlights from the Aquarius Theater Performances
2002年 Backstage and Dangerous: The Private Rehearsal
2002年 Bright Midnight: Live in America
2003年 Legacy: The Absolute Best
2003年 Alabama Song
2003年 Boot Yer Butt 
*ライヴ
2004年 Love Me Two Times
2006年 Live in Philadelphia
2006年 Perception
2007年 The Very Best of the Doors 
*2 CD+DVD
2007年 Live in Boston '70
2008年 Live in Pittsburgh 1970


ALBUM GUIDE



1967年 Electra/WEA

『ハートに火をつけて』
The Doors

ドアーズの幕開けを飾った、ロック史上に残る名盤。冒頭の「ブレイク・オン・スルー」からしてドラッグ万歳、サイケ万歳、な時代背景を背負っている。目玉は何といっても6分以上の「ハートに火をつけて」で、ここでの流麗なマンザレクのオルガンはバンドの方向性を決定付けた。ラストを飾る、ここでは10分超の「ジ・エンド」はライヴでは即興演奏や即興詩が加えられ、20分もの激しいナンバーとなった。文学ロックのひとつの到達地点。のちに「ブレイク・オン・スルー」に“High”というフレーズが加わるなどしたリマスター盤もリリースされた。(KEN)





1967年 Electra/WEA

『まぼろしの世界』
Strange Days


前作の流れを引き継ぎ、オルガン全開のセカンド。「ジ・エンド」と並ぶ大曲「音楽が終わったら」で締められるなど、構成も似ている。しかし前作が完璧なライヴを聴いているような錯覚を受けさせるものだったのに対し、本作はドアーズの不気味な世界を垣間見せてくれる。活気にあふれ、心を掻き乱す奇妙な世界観。そこにあるのは醜い顔、小さなモンスター、迷える少女、海の中に突っ込んで終わる月光のドライヴだ。(KEN)





1968年 Electra/WEA

『太陽を待ちながら』
Waiting for the Sun

シングル「ハロー、アイ・ラヴ・ユー」がナンバー・ワン・ヒットとなり、アルバムも全米1位を獲得する。しかし、本来ならばこのアルバムにはデビュー作に於ける「ジ・エンド」、セカンドに於ける「音楽が終わったら」のように、大曲「セレブレイション・オブ・ザ・リザード」が収録される予定だったが、中座し、その断片が個別曲としてアルバムに収録され、かつバンドが嫌うヒット狙いのシングルを収録した中途半端な出来となってしまった。(KEN)





1969年 Electra/WEA

『ソフト・パレード』
The Soft Parade


ブラス隊を大フィーチュアし、シングルを多発したドアーズ史上最大の問題作。曲によってはオーヴァー・プロデュース気味の洗練された作品に仕上がっており、ドアーズ特有の荒削りなスタイルが失われている。しかしそのポップネスは現在の目で見ると評価すべきものもあり、特に「タッチ・ミー」は傑作曲であり、ライヴの定番となった。最も好き嫌いが分かれるアルバムだが、筆者はドアーズのアルバムでは本作を最もよく聴く。(KEN)





1970年 Electra/WEA

『モリソン・ホテル』
Morrison Hotel


原点回帰を目指し、ブルースを根底にした作品。ドアーズは暗闇から抜け出てハイウェイに乗った。本作はその旅路の記録、ロックンロール版のアメリカ測量図だ。再びひとつにまとまったドアーズは、まだまだ驚異的なサウンドを生み出せることを本作で証明した。モリソンが「ロードハウス・ブルース」で描いた暗い宿命論は、迫力のあるリフによってパワーを与えられ、ドアーズの楽曲中、最もハードでヘヴィなロックのアンセムとなった。(KEN)





1971年 Electra/WEA

『L.A.ウーマン』
L.A.Woman

モリソン在籍時のラスト・アルバム。プロデューサーは今までのポール・ロスチャイルドではなく、長年エンジニアを務めてきたブルース・ボトニック。アルバム全体がまるでこの世への別れを告げているような、自伝的な歌が多い。それでいてブルースを根底にしたサウンドが根付いており、しかも、7分を超える曲が2曲も収録されている。そうしてモリソンは「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」のサウンドと共に、風のように去っていくのだ……。(KEN)