SHERYL CROW シェリル・クロウ


したたかさを秘めた大人のミュージシャン

 「したたかな女」などと言うとマイナス・イメージにとられてしまうかもしれないが、そうではない。彼女の場合は長い下積み生活での経験から「したたかさ」と「精神的な強さ」を身につけた大人のミュージシャンとして、デビュー当時からマイ・ペースな活動を続けてきた。
 唄が上手いだけでも、曲が良いだけでも売れないし、例え何かのチャンスに恵まれ売れたとしても長続きはしない。彼女はそれをよく悟っていて、例えチャンスが訪れてもそれに浮かれ溺れることなく、自分の才能を小出しにする。しかも、知り合った人たちとの人脈を大切にし、それらの人たちから受けた影響で自分の才能を昇華させる術も持っている。それが彼女がデビュー以来今までずっと売れつづけてきた秘訣だろう。
 しかし、彼女の最終目的は「売れること」ではなく、「心に残る名曲を作り、唄い、残す」ことなのだ。それを達成するためには、自由に自分の思い通りの活動ができる環境が不可欠だ。そして、「売れつづける」ことだけがそれを可能にする。
 彼女はそのため、「したたかに」歩み続ける。ミュージック・ビジネスの中で自由に羽ばたき続けるために・・・。

遅咲きミュージシャン、Sheryl Crowの誕生

 1962年2月11日、米ミズーリ州ケネットで生まれたシェリル・クロウ(本名:Sheryl Suzanne Crow)は、トランペッターの父とシンガー兼ピアノ教師の母のもと、5歳の頃からピアノやオルガンを習い始め、13歳で初めてオリジナル・ソングを作曲したという。ケネット高校卒業後ミズーリ大学へ入学したシェリルは、そこでクラシック・ピアノと音楽理論を専攻し、「カシミア」というカヴァー・バンドでキーボードも担当していた。このバンドでは、主にストーンズやツェッペリンのコピーを演奏していたらしい。
 大学卒業後は、セント・ルイスで2年間小学校の音楽講師なども務める一方、夜はP.M.というカヴァー・バンドで唄ったりしていた。そしてついに1986年(当時24歳)、ミュージシャンを目指し、愛犬と共にL.A.へ移住する。
 1987年最初のビッグなチャンスが訪れる。それはマイケル・ジャクソンの「BADツアー」にバック・ヴォーカルとして起用されたことだった。そのツアー中、マイケルの曲「I Just Can't Stop Loving You」をデュエットで熱唱する姿を写真に撮られ、「マイケルの恋人か!?」などとタブロイド判で騒がれたのが幸いして徐々に顔が売れ出した。また、このツアーでは来日も果たし、3ヶ月も日本に滞在していたということだ。18ヶ月におよぶBADツアーの後、シェリルはレコード会社との契約を模索するが、レコード会社側は彼女をダンス・ポップのシンガーに仕立てようとしていることが分かり断念。その後またセッション・ヴォーカリストの仕事を続け、スティング、ドン・ヘンリー、ジョー・コッカー、ロッド・スチュワート、スティーヴィー・ワンダー、シニード・オコナー、フォリナーなどのバック・ヴォーカルへ参加。ドン・ヘンリーの89年のアルバム「エンド・オブ・イノセンス」では、バック・ヴォーカリストとしてしっかり名前もクレジットされている。またこの頃から作曲家としての才能も開花させ、エリック・クラプトン、セリーヌ・デュオン、ワイノナ・ジャド(カントリー・シンガー)へ曲提供もしている。そして90年、やっとのことでA&Mとの契約にまでこぎ着けるのだが、ここからアルバム・デビューまでに、また3年の歳月を要することになる。

成功と引き替えの試練

 セッション・ミュージシャンをしている中でコネクションを付けたプロデューサー、Hugh Padgham(代表作:ポリスの「シンクロニシティ」など)の計らいでA&Mとの契約を取り付けたシェリルは、91年さっそくHughと共にファースト・アルバムのレコーディングに入る。しかし、シェリルの曲はポップでないため売れないとの判断から、このアルバムはリリース前にお蔵入りしてしまう。やっとつかんだチャンスをみすみす棒に振るわけにはいかなかったが、自分らしい音楽をどうしても表現したかったシェリルは、それから1年半もの間思い悩みすっかりやる気をなくしていた。
 それを救ったのが、シェリルの当時の恋人Kevin Gilbert ケヴィン・ギルバートだった。ケヴィンはすでに80年半ばから活躍するマルチ・プレイヤー&エンジニア&プロデューサーで、エディー・マネーのアルバムにキーボードで参加したり、マドンナの曲をプロデュースしたり、彼の在籍していたバンド「トイ・マチネー」のアルバムにはジュリアン・レノン(ジョン・レノンの息子)がゲスト参加したりするほどのカリスマ・スタジオ・ミュージシャンだった。(後にキース・エマーソン、マイケル・ジャクソン、ティナ・ターナーのアルバムでもプレイヤー、エンジニア、コンポーザーとして活躍している)
 ケヴィンはシェリルのこのお蔵入りしたアルバムをリミックスし、なんとか彼女の希望を損なうことなく会社側の要求も入れ仕上げようと努力した。また、彼のミュージシャン仲間であるBill Bottell ビル・ボットレルDavid Baerwald デヴィッド・ベアウォルドDavid Ricketts デヴィッド・リケッツBrian MacLeod ブライアン・マクラウドDan Schwartz ダン・シュワルツを誘い、ビルの所有するスタジオに毎週火曜日の夜に集まっては、シェリルと共にみんなで飲みながらジャム・セッションを楽しむようになった。
 これで再び創作意欲を取り戻したシェリルは、新たにこのジャム・セッションから生まれた曲なども織り交ぜ、ビルといっしょにまったく新しいアルバムを完成させた。そしてついに93年、そのアルバム「チューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブ」でデビューする。もちろん、このアルバムタイトルはビルのスタジオでのジャム・セッションの事を意味している。
 このアルバムからのファースト・シングルは「ラン・ベイビー・ラン」、続くセカンド・シングルが「さらばラスベガス(Leaving Las Vegas)」だったが、ここまでは評判は良かったものの、目立ったチャート・アクションは起こらなかった。そして、A&Mとしては最後の切り札のつもりで、サード・シングル「オール・アイ・ワナ・ドゥ」をリリース。すると、94年になってこのシングルがチャートをジリジリ上がりだし、最終的に全米2位を記録する大ヒットとなった。この影響でアルバムの方も突然売れ始め、結果こちらも全米3位の特大ヒットを記録した。その後さらに「さらばラスベガス」が再びチャート・インして全米60位、「ストロング・イナフ」が全米5位、95年に入っても「キャント・クライ・エニーモア」が全米36位、「オール・アイ・ワナ・ドゥ」「ストロング・イナフ」が再びチャートを上昇するなど、なかりのロングラン・ヒット作となった。
 ファースト・アルバムは最終的に全米だけで400万枚、全世界で700万枚を超えるセールスを記録。シェリル・クロウの名も一気に世界中に轟くと共に、ロック界での女性アーティスト優勢時代(90年代、ポップス界ではホイットニー・ヒューストン、マライア・キャリー、セリーヌ・デュオンの3大歌姫によってすでに女性時代へ突入していた)の先駆けともなった。
 また、この間シェリルは94年に開催されたウッド・ストック94へ出演。95年の第37回グラミー賞で最優秀新人賞、年間最優秀レコード、最優秀女性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンスの3部門を受賞。4月には初来日公演も果たし順風満帆に見えた。しかし、インタビューなどに答えるシェリルのコメントから思いもかけず、仲間との亀裂を生じることとなる。シェリルとチューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブ(以下TNMクラブ)の面々とには、先のアルバム制作の貢献度に対し、かなり意識の隔たりがあった。仲間たちとのジャム・セッションを通じて良い曲はできたが、最終的に仕上げたのは自分とビルだというシェリルの考えに対し、自分達がいたからこそ、あの素晴らしいアルバムが完成したのだと自負するTNMクラブの面々。
 そもそも、あるインタビューで「さらばラスベガス」は自伝的な歌ですか?と聞かれたところ、シェリルは「そうです」と即座に答えたのが発端となり、シェリルとTNMクラブ・メンバーたちとの溝が深まりはじめたらしい。この曲の詞は、実際はデヴィッド・ベアウォルドが彼の友人John O'Brienジョン・オブライエンの本を元に書いたものだったからだ。また、94年そのオブライエンが自殺してしまったため(実際はシェリルの件とは無関係らしい)、ベアウォルドの被害者意識は特に高まり、他のクラブ・メンバーたちも「シェリルはアルバム作りに少ししか関わっていない」などと言い出した。そして、売れない時代からシェリルをずっと支え続けてきた恋人ケヴィンまでも、この件で失うことになる。
 さらに、96年3月にはその元恋人ケヴィンが事故で窒息死(自己発情窒息)してしまう。ケヴィンの死もシェリルとは直接無関係なのだが、周囲の目は冷たくシェリルに当たった。

新たなる出発

 96年汚名返上に燃えるシェリルは、自らの手でプロデュースし、各楽器もこなし、単独でかいた曲も4曲(うち1曲はボーナストラックだが)収録し、メイクや衣裳もロックっぽく一新したセカンド・アルバム「シェリル・クロウ」を発表。タイトルからも分かるとおり、これがシェリル・クロウの本当の姿だとでも言いたげな、挑戦的な内容だった。レコーディングにも、TNMクラブからはブライアン・マクラウド以外参加していない。(ビル・ボットレルが共作している3曲はストックされていた曲らしい)
 このアルバムからは、シングル「イフ・イット・メイクス・ユー・ハッピー」が全米10位、「エヴリデイ・イズ・ア・ワインディング・ロード」が全米11位となる大ヒットを生み、アルバム自体は全米6位、翌97年の第39回グラミー賞では、またしても最優秀ロックアルバム、最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンスの2冠に輝くなど、まずは面目躍如といったところだった。しかしながら、よくみると今作もJeff Trott ジェフ・トロットという才人(ティアーズ・フォー・フィアーズのツアー・メンバーなどをしていた経歴を持つ)をどこからか見つけ出し、アルバム中、半分以上の曲で共作するなど(ヒット曲の2曲ともジェフとの共作)他力本願的な印象を拭うまでには至らなかった。また、97年映画007シリーズの第18作「Tomorrow Never Dies」で主題歌をミッチェル・フルームと共作したのも話題となり、5月には2度目の来日公演も行っている。
 そして98年、ついにシェリルは「自分の音楽」を確立することに成功する。サード・アルバム「グローブ・セッション」(全米5位)のリリースだ。前作のような力みもなく、自然に自分自身を表現できた、実質シェリル・クロウのソロ・デビューといってもよい出来映えの好作品だ。シェリル自らプロデュースし、7曲を単独でソング・ライティング、TNMクラブの力は一切借りずに仕上げたこのアルバムは、オーヴァー・プロデュース的なところもなく、ライヴ感覚あふれるソリッド・サウンドだった。ここからシングル・ヒットした曲のうち「マイ・フェイヴァリット・ミステイク」(全米20位)こそジェフとの共作だが、シェリルが単独で作った「エニシング・バッド・ダウン」も全米49位のスマッシュ・ヒットを記録し、その他の曲も全体的にシェリル主導で作られているのが明らかに分かる内容だった。余談だが、96年頃からシェリルとエリック・クラプトンの熱愛関係が噂になっていたことから、それもシェリルの音楽にとっては良い方へ作用していたのではないだろうか。
 このアルバムで再び99年、第41回グラミー賞最優秀ロック・アルバムも受賞。もう誰もシェリルの才能を疑問視する人も非難する人もいない。それはシェリル自身が自分の手でつかみ取った栄誉だろう。
 これで何か吹っ切れた感のある彼女は、その後積極的にたくさんのアーティスト達と共演し、どんどんその成果を吸収してゆくようになる。元々それが彼女のスタイルでもあったのだが、自己の才能を証明してみせたことで、気兼ねなくまたできるようになったわけだ。
 この年、ニューヨークのセントラル・パークでシェリル主催のベネフィット・コンサート(エイズの子供たちのためのチャリティ)も開かれ、その模様が「ライヴ・フロム・セントラル・パーク」として発表されたが、シェリルの呼びかけに答えて集まったその時のメンバーには驚くべきものがある。エリック・クラプトン、キース・リチャーズ、クリッシー・ハインド(プリテンダーズ/vo)、スティーヴィー・ニックス、サラ・マクラクラン、ディクシー・チックスといった蒼々たる面々だ。また、この直後3度目の来日、プリンスの「Rave Un2 the Joy Fantastic」の中の1曲「Baby Knows」にゲスト参加するなど精力的な活動をつづけている。

 2000年に映画「ビッグ・ダディ」のサントラ用に提供したガンズ・アンド・ローゼズのカヴァー曲「スウィート・チャイルド・オー・マイン」(99年発表、「グローブ・セッション」のボーナス・トラックにも収録)で第42回グラミー賞最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンスを受賞、2001年にはシングル「ネイバーフッド There Goes The Neighborhood」で43回グラミー賞最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンスを受賞と、もはやシェリルはグラミー賞の常連としても有名になるに至った。
 そして2002年、シェリルの幅広い人脈を生かした4thアルバム「カモン・カモン」をリリース。リズ・フェア、レニー・クラヴィッツ、スティーヴィー・ニックス、ドン・ヘンリー、ナタリー・メインズ(ディクシー・チックス)など豪華ゲストを迎えての70年代アメリカン・ロック風アルバムだった。ここからの先行シングル「ソーク・アップ・ザ・サン」は全米17位まであがるヒットとなり、つづくセカンド・シングル「スティーヴ・マックィーン」も全米88位、アルバムは自身最高位の全米2位を記録した。そして、その記録以上にすごいことは、シングル以外の曲やヒットしなかった曲でも素晴らしい曲が目立ち、シェリルのソング・ライターとしての著しい成長がみられたことである。チャートインこそしなかったものの、3曲目のシングルとなった、姉キャサリン・クロウと共作し、ドン・ヘンリーとデュエットした「イッツ・ソー・イージー」などは、なぜ真っ先にシングル・カットしなかったのだろうと首をかしげたくなるほどの名曲だ。
 また、この年2月に行われた武道館での来日公演の模様を翌年日本のみでリリースし、親日的なところも覗かせている。
 2003年の第45回グラミー賞では、その年の最多6部門でノミネートされ、「スティーヴ・マックィーン」が最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンスを受賞するなど、今やアメリカを代表する、いやロック界を代表する女性シンガーとして頂点を極めたシェリルだが、自身の中ではまだ当初の目標である「心に残る名曲を作り、唄い、残す」ということを忘れてはいなかった。
 思えば長い道のりだったが、ポップス界の中で確固たる地位と名声を得て、今やっとシェリル自身のやりたかったことを実現できる環境が整った。そしてついにその目標を次のアルバムで達成することになる。

 当初はポップなアルバムとアーティスティックなアルバムを2枚同時にリリースしようと、2枚分の曲をかいてレコーディングしていたという新作は、2005年その内のアーティスティックな方だけを1枚のアルバムに収め「ワイルドフワラー」としてリリースした。その理由としては、もし同時リリースすると、アーティスティックな方を聞いてもらえなくなるとの懸念からだった。そして、ポップ・アルバムの方は1年後にリリースすると報じられた。
 この「ワイルドフワラー」は、彼女の言葉通り、シングル・ヒットなどは二の次の名曲がビッチリ詰まったアルバムで、ボーナス・トラックを除く11曲にはまったくスキのない構成となっていた。とは言っても、しっかり「グッド・イズ・グッド」(全米64位)、「オルウェイズ・オン・ユア・サイド」(全米33位)のシングル・ヒットも放っているが…。
 良いアルバムを作れば結果も自ずとついてくるもので、このアルバムは2005年に1度全米2位を記録した後、ロングラン・ヒットをつづけ、2006年に再び全米2位まで上昇するという快挙を成し遂げている。予定では2006年リリースだった次作も、この影響から発売が遅れているようだ。聞けば聞くほど味の出る名作だということだろう。また、このアルバムに収められていた「オルウェイズ・オン・ユア・サイド」の別ヴァージョンとして、スティングとデュエットした曲がiTunes Storeのみ(今のところ)のダウンロード販売で売られているが、これがまた素晴らしい!ぜひYou Tubeでチェックしていただきたい。
(HINE)2007.4


Always On Your Side/Sheryl Crow & Sting (YouTubeより)




Tuesday Night Music Club
A&M/ユニバーサル

Sheryl Crow
A&M/ユニバーサル

The Globe Sessions
A&M/ユニバーサル

Live from Central Park
A&M/ユニバーサル

C'mon, C'mon
A&M/ユニバーサル

ディスコ・グラフィー

1993年 Tuesday Night Music Club(チューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブ)*気のあった仲間と作り上げたデビュー作にして名盤
1996年 Sheryl Crow(シェリル・クロウ)*プロデュースも自ら手がけ、自力で歩み出そうとした力作。「イフ・イット・メイクス・ユー・ハッピー」収録
1998年 The Globe Sessions(グローブ・セッションズ)*ライヴ感覚を生かしたソリッド・サウンド。「マイ・フェイヴァリット・ミステイク」収録
1999年 Sheryl Crow And Friends : Live from Central Park(シェリル・クロウ・アンド・フレンズ・ライヴ・フロム・セントラル・パーク)*シェリルの呼びかけで集まった蒼々たる面々によるライヴ
2002年 C'mon, C'mon(カモン・カモン)
*多くの豪華ゲストを迎えて作った大ヒット・アルバム。全米2位
2002年 カモン・カモン スペシャルJAPANツアー・エディション
*未発表ヴァージョンやPVを収録した別ディスクが付録する日本限定盤
2003年 Sheryl Crow : Live at Budokan(LIVE at 武道館) *日本のファンだけのために発表した、日本公演を収めたライヴ・アルバム
2003年 The Very Best of Sheryl Crow(ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ)*新曲2曲と未発表ヴァージョンも含むシェリル初のベスト・アルバム
2005年 Wildflower(ワイルドフラワー)
*カナダでは初のNo.1、全米でも2位を2回記録したロング・ヒット・アルバムにして彼女の最高傑作



◆◆◆名盤PICK UP◆◆◆

ワイルドフラワー
Wildflower

シェリル・クロウ
Sheryl Crow


2005年 A&M/ユニバーサル

1. アイ・ノウ・ホワイ I Know Why
2. パーフェクト・ライ Perfect Lie
3. グッド・イズ・グッド Good Is Good
4. チャンセズ・アー Chances Are
5. ワイルドフラワー Wildflower
6. ライフタイムス Lifetimes
7. レター・トゥ・ゴッド Letter to God
8. リヴ・イット・アップ Live It Up
9. アイ・ドント・ウォナ・ノウ I Don't Wanna Know
10.オルウェイズ・オン・ユア・サイド Always on Your Side
11.ホエア・ハズ・オール・ザ・ラヴ・ゴーン Where Has All the Love Gone

<日本盤Bonus Track>
12. ワイルドフラワー(アコースティック・ヴァージョン)
13. ホエア・ハズ・オール・ザ・ラヴ・ゴーン(アコースティック・ヴァージョン)
14. レター・トゥ・ゴッド(アコースティック・ヴァージョン)

 シェリル・クロウはこれまで数々の大ヒット曲を放ち、グラミー賞の常連とまで呼ばれるほど業界内での信任も厚いアーティストだが、こと彼女の「アルバム」となると、チューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブの力を借りたファースト以外どうも名盤と呼べるものはなかった気がする。セカンド、サード・アルバムあたりは実験的な曲も多く、前作「カモン・カモン」では捨て曲とは言わないまでも地味な曲が後半に集中し、アルバム前半だけがヘヴィーローテーションで聞かれるアルバムになってしまった。これには曲順のまずさもあったかもしれない。ノリの良い曲と地味な曲をいっしょにすると、どうしてもノリの良い方に耳が傾いて、地味な曲は聴かなくなるからだ。しかしながら、地味な曲にも名曲があり、むしろ永遠に歌い継がれる名曲というのは、心に染み入るような地味な曲だったりする。
 シェリル自身もそういったことを感じ取っていたのだろう。今回の「ワイルドフラワー」では、一聴しただけでは地味とも受け取られかねない曲ばかりが並ぶ。唯一のアップ・テンポ・ナンバー「リヴ・イット・アップ」も、トップにもってくることなく、後半8曲目に収められているのは意図的に「聴かせるアルバム」を意識してのことだろう。
 アルバムのヒット性だけを考えれば、当然前作のように前半に集中してノリの良い曲をもってくるはずだが、今回はあえてそうしていないようだ。シェリル自身の言葉を借りれば、「昔(60〜70年代)の偉大なアーティストたちが残したようなアルバムを作りたかった」と言うように、今回は自分自身で名盤作りにチャレンジしている。
 それにしてもなんという自信だろう。アルバム発売間隔の長いシェリルのような場合、1作ハズせば忘れ去られ、一線から退いててしまうのは必至。名盤をつくるぞ!と宣言して本当に作ってしまうなど、今のシェリルにしかできない芸当だ。

 それでは各曲を簡単に順を追ってみていこう。まず1曲目だが、フォークっぽいアコースティック・ギターで始まり、シェリルが気だるそうな声で静かに歌い出す。地味だがポップなメロディーも持っていて覚えやすい曲でもある。途中にはクリーム時代のエリック・クラプトンを想わせるような激しくブルースっぽいギター・ソロが感動的に入り最高にかっこいい!これは意識してのものだろうか。
 2曲目もギターの音色はそのままに、サウンド的には1曲目の後半からの延長線上にあるような曲で、スローだが激しく訴えかけてくる。
 3曲目は冒頭からジョージ・ハリスン風のスライド・ギターが入り、思わずニヤリとさせられる。シェリルの言っている「昔の偉大なアーティスト」とは、ボブ・ディランやジョージ・ハリスン、エリック・クラプトンといったような人を指しているのだと確信できたからだ。リズム・カッティング用のギターもレズリー・スピーカー(回転しながら音のトレモロ効果やビブラート効果を出す60年代に流行ったスピーカー)風のエフェクターを通してレトロ風味満点。この曲はファースト・シングルにも選ばれているが、なんでこんな地味な曲が・・・という感じは否めない。当然全米64位止まり。
 4曲目、なにやらインドの打楽器のような音で始まり、そのままドラムが入らずアコースティック・ギターとシンセサイザーによる効果音だけのシンプルなサウンドで構成されている。インド風の打楽器もどうやらプログラミングによるもののようだ。アラニス・モリセットなどもよくこういったサウンドを好んでやっているが、それを真似たわけではなく、ジョージ・ハリスンからの影響が強いのだろう。
 次の5曲目は、アルバム・タイトルにもなっている通り、シェリルが一番気に入っている曲らしい。「世の中にうんざりして拗ねるのではなく、野生の草花のように純真でいて希望を持たなければならないのよ」とシェリルが語るように、誰もが心の中に持つ一輪の花のような、純真できれいなものの事を歌った曲。囁くように歌うシェリルのヴォーカルも印象的。
 6曲目、やっといつものシェリルとジェフ・トロットのコンビらしいポップで軽快なナンバーが入る。もはやこの手のサウンドはお手のもので、サウンド・アレンジにもまったくスキがない。
 7曲目は宗教や神について歌っている曲で、サウンドもそれに合わせて少し重苦しい。注目はストリングスの大胆な導入で、このすばらしいアレンジは、あの「ベック」の父親であるデイヴィッド・キャンベルによるものだ。
 中だるみしそうな8曲目、ここで初めてアップ・テンポなナンバーが、前の曲と音を重ねながらメドレー風に入ってくる。この入り方はかなりカッコイイ!メロディーもキャッチーで、シングルにしてもおかしくない曲だが、今作のアルバムの中ではアクセントとして考えているのだろう。
 そして、最初にこのアルバムを聞いて一番名曲だと思ったのが次の9曲目だ。地味なバラードながらも綺麗なメロディーで、サビの部分は一度聞いたら忘れない。厳しい世間の現実に対し「知りたくない」と悲痛の声で叫ぶシェリルの声がなんとも印象的だ。実際この曲は、アルバム発売当初、ラジオなどでよくかかっていたほど皆が名曲だと認める曲なのだが、シングル・カットはしていない。
 その曲よりもっと地味な次の10曲目「オールウェイズ・オン・ユア・サイド」が2曲目のシングル・カットとなっているが、全米チャートでは33位までしか上昇していない。かなり地味な曲なので、シングル向きではないのだが、あえてシェリルがこの曲をと希望したのだろうか!?
彼女はこの曲に特に思い入れがあるようで、翌年になってからスティングとのデュエットで、もう1度レコーディングし直している。僕自身、それを聞いてやっと「あ〜、これは確かにすごい名曲だ!」と改めて分かったしだいだ。そのスティングとのデュエット・ヴァージョンの効果があったのか、アルバム自体は発売当初の2005年に全米2位を記録したあと、2006年にもう1度全米2位を記録するほどのロングラン・ヒットとなっている。
 アルバム・ラストを飾るのは、これまた地味なピアノ弾き語りから始まる静かな曲。カントリー風なスライド・ギターとアコースティック・ギターのアルペジオが美しい。後半はデイヴィッド・キャンベルによるストリングス・アレンジ冴えわたり、余韻を残しつつ静かに終わってゆく。完璧だ。
 この後、ボーナストラックが3曲分収録されているが、いずれもどうでもいいアコースティック・ヴァージョン。本来なら彼女としては入れたくなかったに違いないが、おそらくレコード会社の要望から入れざるを得なかったのだろう。
 曲の良さ、演奏力、アレンジ、曲順、11曲という収録曲の数・・・すべてが完璧で文句のつけようがない。現代まれに見る名盤だ。
 (HINE)