BRYAN ADAMS ブライアン・アダムス

Written by 太陽スミス


  僕は2005年現在、19歳の青年である。当然ではあるが、HINEさんのHPに投稿されている方と違って、70年代や80年代、更には90年代さえも僕にとってはリアルタイムではない。従って、そういう昔からのアーティストを語るとき、どうしても僕は負い目を感じてしまう。各々の時代の世相をミュージシャンは表現しており、それは同時代人にしか理解し得ないものであるからだ。いくら普遍的な名盤・名曲であっても、「時代」という壁を完全に消し去れるものは無いと僕は考えている。
 例えば?端的な例だが?クイーンの「バイシクル・レース」という曲がある。この歌は単純明快、「世間のくだらない流行より、チャリンコに乗りたい!」という内容である。そのコンセプト自体はまぁ理解できるのだが、その「くだらない」事の対象がスターウォーズだったり、ジョーズだったり、果てはベトナム、ウォーターゲートだったりする。これは2005年の極東に住む少年にとっては全くリアリティを欠いた事象であるが、当時の少年少女には大きく響いたのであろう(多くの日本人にとって洋楽の歌詞がどうでもいいと思われているのはさておき)。
 ちょっと極端過ぎる例ではあったが、つまり、僕の言いたい事は過去の作品を聴く際はどうしても「古さ」が耳についてしまうという事だ。現在の若者が過去の音楽を尊厳しようとしない1番の理由はこれであろう。当時を知らない、だからこの音楽をどう聞けばいいのか…しかし、そんな感情を吹き飛ばすほどの素晴らしい音楽を作ってきた人も当然たくさんいるのである。
 ブライアン・アダムス?彼は80年代を代表するロッカーであり、現在まで一線で活躍している稀有な存在である。そして彼はまた、時代を見事に表現してきた存在でもある。彼の作品はどれも僕達の心をどこかホッとさせる。僕は彼の音楽に心酔すらしている。彼の音楽には「古臭い」では済まない何かが潜んでいる…

 1959年11月5日、カナダのオンタリオ州でブライアン・アダムスはこの世に生を受けた。父は大使館の移民局に勤めていた関係もあり、ブライアンは父の転勤先(イギリス、ポルトガル、イスラエル、オーストラリアなど)を転々とする少年期を送っている。ちなみに彼がギターを始めたのは10歳の頃、彼がイギリスに住んでいた時期である。そして12歳の時に両親は離婚し、彼は母親側に引き取られ、母・弟と共に15歳で生まれ故郷のカナダに戻ってきている。
 ここまでの経緯でわかるように、ブライアン少年は多感な時期に多くの苦難を経験している。移住が多かった為、友人が出来ず、性格もかなり暗かったらしい。後の彼からは想像も出来ない話ではある。
 カナダに戻ったブライアンは、やがて友人とバンドを結成し、自主制作盤も何枚か出すようになる。そして17歳の時、ブライアンはとあるレコード・ショップで運命的な出会いを果たした。後の共同ソングライターとなり、ブライアンの80年代を支えたジム・ヴァランス(後にエアロスミスやジョン・ウェットンとも仕事をしている)との出会いである。彼らはすぐに意気投合し、二人で曲を作るようになる。そしてジムの紹介もあって、ブライアンはカナダのA&Mの系列会社とソングライターの契約を結び、バックマン・ターナー・オーヴァードライブやラヴァーボーイ等に曲を提供するようになった。またA&Mは、ブライアンのハスキーな声にもシンガーとしての資質を見出し、1979年にミュージシャンとしても契約を結ぶ。かくして遂にシンガーソングライター、ブライアン・アダムスが世に出ることになる。ブライアン20歳の夏であった。

 「Let Me Take You Dancing」でデビューしたブライアンは、この曲がいきなりカナダのシングルチャートのトップを飾ることになる。そして翌年、ジム・ヴァランスがプロデューサーを務めた1stアルバム「Give Me Your Love」をリリースする。これはカナダのみのヒットで終わってしまうが、翌年に出した2nd「You Want It You Got It(邦題『ジェラシー』)」は全米チャートにも食い込み、1stシングル「Lonely Nights」も全米84位のスマッシュ・ヒットとなった。この頃からブライアンはフォーリナー、キンクス、ラヴァーボーイ、ホール&オーツ、など様々な大物バンドの全米ツアーの前座を務めるようになり、その活きの良いロックン・ロールや端正なルックスが注目を集め始めた。ちなみに82年に、ブライアンは意外な形で日本に初来日している。あの円広志がグランプリを獲った事で有名(?)なYAMAHA主催の「世界歌謡祭」に出場するためである。しかし結果は予選落ち…これが彼のプライドを傷つけた…なんて事は全く無く(笑)、むしろ初めての日本にブライアンは大いにインスピレーションされたとの事である。

 帰国後、ますます制作意欲盛んなブライアンは、3rdアルバム「Cuts Like A Knife」を1983年1月にリリースする。プロデューサーはブルース・スプリングスティーンの「Hungry Heart」のエンジニアを務め、ミート・ローフやデヴィッド・ボウイ、プリテンダーズ、甲斐バンド(笑)、更にはローリングストーンズの「The Tatoo Man」をも手掛けた80年代の仕掛人、ボブ・クリアマウンテンが共同で務めている(共同とは言っても、明らかにボブの功績は大きいだろう)。この作品も最初はそこまで注目されず、ブライアンは本国カナダでヘッドライナーツアーを行った後、ジャーニーと共に全米ツアーを始める。しかし1stシングルのバラード「Straight From The Heart」はゆっくりとチャートを駆け上り、5月には全米10位を記録する大ヒットとなる。これと連動してアルバムも急上昇、全米8位を記録し、ダブルプラチナムの大ヒットを叩き出す。文字通り大出世作となったこのアルバムからは他にも、軽快なミドルチューン「Cuts Like A Knife」(全米15位)、爽やかなポップロック「This Time」(全米24位)がシングル・ヒットを記録している。その勢いのままに、ブライアンは初の欧州ツアー、そして日本ツアーを行い、これも大成功を記録している。更にはカナダのジュノー賞で最優秀ヴォーカリストを受賞。83年はブライアンにとって大飛躍の年となった。

 ポリスとのオセアニアツアーを経て、しばし充電後の翌84年11月、約1年のインターバルでブライアンは4thアルバム「RECKLESS」をリリースする。「向こう見ずな」という意味のタイトルと、こちら側を睨みつけるブライアンの顔をモノクロトーンで彩どったジャケットのこのアルバムは、驚異的なメガヒットを記録する。まず、1stシングル「Run To You」が全米6位を記録し、続けざまに「Somebody」(全米11位)、そして感動的なバラード「Heaven」がブライアンにとって初の全米No.1ヒットになる。その影響でアルバムも全米1位を獲得し、伝説的イベント「Live Aid」にも参加、文字通り大スターの仲間入りを果たした。更に走り出した勢いは留まる事を知らず、感傷的青春ナンバー「Summer Of '69」は全米11位、せつないラブソング「One Night Love Affair」は全米13位、そしてティナ・ターナーとのデュエット「It's Only Love」は全米15位…つまり、1枚のアルバムから6曲ものTOP20ヒットを飛ばしたのである。これはマイケル・ジャクソンの「Thriller」、ブルース・スプリングスティーンの「Born In The USA」、デフ・レパードの「Hysteria」と並ぶ歴代最多記録となっている。無論、アルバムの方も、全米だけで500万枚、全世界では1000万枚を超える特大ヒットとなった。その間にも、4年連続となるジュノー賞受賞、「Billboard」の選ぶ男性シングル・アーティスト第1位、グラミー賞ノミネート、MTV大賞ベスト・パフォーマンス賞受賞等々、数多くの勲章をブライアンは得る。20代半ばの若者にしては出来すぎたサクセス・ストーリーであり、ブライアン自身「青春野郎」と見られる事に嫌気を感じていたようである。その思いは、次作に早くも影響を及ぼすことになる。

 87年3月、2年半振りのブライアンの新作「Into The Fire」がリリースされた。前作「Reckless」と同じメンバーで製作されたこのアルバムであるが、音がかなり渋く、時には暗くさえ感じる作風になっていて、歌詞もクソ真面目な文章がやたらに増えている。当時のファンは結構面食らったのではないだろうか。それを証明するかのように、1stシングルの「Heat Of The Night」は全米6位の大ヒットとなるが、以下「Hearts On Fire」(全米26位)、「Victim Of Love」(全米32位)と、大したヒットは出ず、アルバム自体も最高7位、売上は150万枚がやっとという程度であり(無論、150万枚でも十分ヒットなんだけど…)、前作とは程遠い結果に終わってしまった。しかし、日本での人気は全く衰えることは無く、この頃から「ブライアン・アダムス」と言えば、シンディ・ローパーと並ぶくらい日本で人気のシンガーと認知されるようになる。とは言ってもブライアンのショックは大きく、この頃から盟友ジム・ヴァランスとの不和や、曲作りの遅れなどが取り沙汰されていく。ベルリンの壁が崩壊し、世界が大きく変わろうとしても、ブライアンはチャリティ等のライブ以外は沈黙することになる。

 1991年の夏、1本の映画が公開された。「ロビン・フッド」、12世紀後半のイギリスはノッティンガムを舞台とした大スペクタクルである。主演は、当時無敵の勢いを誇っていたケビン・コスナー。この映画にブライアンは「(Everything I Do)I Do It For You」というバラード曲を提供する。この曲が映画のヒットと伴って、アメリカでは7週連続、そしてイギリスでは前代未聞の16週(!)連続シングルチャート1位を記録する。アメリカはともかく、シングル売上枚数がチャート基準のイギリスにおいて、4ヶ月も売れ続けるのは異常な状況である。この大記録は現在もギネスブックに乗っており、また最終的には全世界で1300万枚を売り上げ、ブライアンは復活の狼煙を挙げた。ちなみに、この曲でピアノを弾いているのは元リトルフィートの名セッション・ピアニスト、ビル・ペインである。そして9月にはこの曲を収録した(どうやら先行シングル扱いのようだ)6thアルバム「Waking Up The Neighbours」という実に元気の良い(笑)タイトルの新作を発表した。前作とは違い、歌詞も曲調も実にポジティブなものとなっていて、まさしく「目の覚める」傑作である。この変化には、勿論ブライアンの事情もあったが、それ以上に1人の男の力によるところがかなり大きい。AC/DCの「Back In Black」、The Carsの「Heartbreak City」、Foreignerの「4」、そしてDef Leppardの「Pyromania」「Hysteria」…80年代の特大ヒットアルバムを次々に手掛けた怪物プロデューサー、ジョン・マット・ラングがプロデューサーを務め、あの独特のサウンド・ミックスをブライアンの曲に導入したのだ。シングルの方も、「Can't Stop This Thing We Started」(全米2位)、「There Will Never Be Another Tonight」(全米31位)、「Thought I'd Died And Gone To Heaven」(全米13位)、「Do I Have To Say The Words?」(全米11位)と、やたらタイトルの長いもの(笑)がカットされ、どれもヒットを記録している。最終的に、アルバムは全米6位、アメリカだけで400万枚を売り上げた。そして93年に初のベストアルバム「So Far So Good」をリリース。新曲の「Please Forgive Me」はこれまた全米7位の大ヒット。30代も半ばに入り、ブライアンは再び音楽シーンのトップへと見事に返り咲きを果たす。

 ここまでは良かったのだが…「I Do It For You」の大ヒット以降、本人の意向かどうかはわからないが、サントラや映画主題歌の製作が増え、良識派(と自称する)ロックファンから「サントラ職人」と陰口を叩かれるようになる。代表的なところでは、チャーリー・シーンなどの若手俳優が集った「三銃士」の主題歌「All For Love」(ロッド・ステュアート、スティングとのデュエット)が3週連続全米1位。若き日のジョニー・デップが名優マーロン・ブランド、フェイ・ダナウェイと共演した「ドンファン」の主題歌「Have You Ever Really Loved A Woman?」は5週連続全米1位。中年女性と、女性不信の教授の恋を描いた「マンハッタン・ラプソディ」の主題歌「I Finally Found Someone」は全米8位…その他にも多くの映画主題歌に彼の曲は使われた。筆者は、それ自体が悪いとは思わないが、曲がどれもバラードなのが残念である。元来ロックン・ローラーであるブライアンには、彼本来の熱いロックをやって欲しいのだが…そして次第にブライアンはアメリカ市場から飽きられ、逆にヨーロッパで人気が集まるようになる。

 96年、ブライアンは「18 Till I Die」という、これまた熱いタイトルのニューアルバムをリリースする。しかしタイトルの割には、そして引き続きマット・ランジがプロデュースした割には、かなり地味な作品となり、バラードの比率もかなり多くなった。「The Only Thing That Looks Good On Me」(全米52位)、「Let's Make A Night To Remember」(全米24位)と、チャートを然程賑やかす事もなく、しかしアルバム売上は何とかプラチナムに届いた。ちなみに、上記の曲はむしろイギリスでトップ10のヒットとなっており、またこの曲以降ブライアンは全米チャートに顔を出してはいない。苦悩のブライアンは、エリック・クラプトンやロッド.スチュアートを再生させた「MTV Unplugged」に出演した結果、ますます静かな曲を書くようになる(これが当時の彼の限界だったのかもしれないが…)傷心のブライアンはこの頃イギリスへ移住している。これはトップ・ミュージシャンにしては珍しい行動であり、普通は税金の高いイギリスから逃げるミュージシャンが多い。まぁ、当時のブライアンには落ち着いた空気のイギリスが肌に合ったのだろう。

 そして98年には7th「On A Day Like Today」をリリース。イギリス移住の影響か、UKロック的な音作りも感じられる作品である。このアルバムに至っては、アメリカのTOP100にも登場しないセールス的惨敗を喫している。イギリスでヒットしたのも、メラニー・C(スパイス・ガールズ…)とデュエットした「When You're Gone」(全英3位)くらいであり、完全に「商売人」としての面目は潰れた結果となる。しかし、前作が中途半端な作風であったのに対し、こちらは地味ではあってもブライアン自身のやりたい事が垣間見える、安っぽい言葉ながら「自分を見つけた」アルバムではなかろうか?
 90年代に以降、ブライアンの楽曲は「Waking…」に象徴されるように、ビッグ・プロダクションで、そして時には冗長とさえ感じるものが多かった。しかし今作では大袈裟なイントロを無くしたシンプルな楽曲が多く、実に聴き易い。しかし、「ヒット曲ってのは、バック・ストリート・ボーイズみたいな連中がやればいいのさ」といった負け惜しみ(?)は、個人的には凄く残念ではあるが…。

 そしてその年から、ブライアンは自らの考えを実行に移す。それが「3ピース・ツアー」である。これは文字通り、ブライアンがベース、そして長年のパートナー、キース・スコットがギター、ミッキー・カリーがドラム、の3ピース・バンドとしてのツアーである。当然、無駄な、そして今までのブライアンのライブには必要だった音まで削ぎ落とすことになるので、ファンの間では賛否両論が渦巻くことになったが、ブライアン自身はとても楽しかったと語っている。結果として3ピース・ツアーは2003年まで続き、好況を博した。(ちなみにこのツアーでの武道館公演はライブDVDにもなっている)
 そのツアー中の2002年以降のヨーロッパ・ツアーから、訪れた各国のホテルの部屋でブライアン一行は曲作りと録音を行い(「Into The Fire」と過程は似ている)、その集大成として昨年9th「Room Service」をリリースした。プロデューサーは初めてブライアンのみが務めている(但し最終ミキシングはお馴染みのボブ・クリアマウンテン)。
 この作品は前作と同様、80年代ほどの元気良さも、90年代前半ほどの派手さも無いが、「今」のブライアンを表出させた好盤である。もう、ヒットメイカーとしてのプライドも捨て去った、飾りの無い1人のロック・シンガーとして、彼は再びファンの前に現れたのだ。そしてこのアルバムは、発売週にヨーロッパチャートで1位を記録する意外なヒットとなっている。

 最初に書いたが、彼は80年代、90年代、そして00年代と、様々な時代を、自分の心情と混ぜつつ曲で表現してきている。僕は「80年代」という言葉を聞いて、まずは「Reckless」を思い浮かべる。日本はバブルで浮かれ、アメリカは強い自国を取り戻すのに躍起になっている。社会主義体制は悲鳴を上げ、南北問題は深刻になった。ロック・ミュージックも商業性を強め、「ライブ・エイド」によってそれは確証される事になる。そんな激動の時代を、僕は知らない。
 あの時代、僕と同じ年代(つまりいま40歳前後)の人がどんな空気を吸っていたかなんて、知る由もない。しかし、あの「Reckless」に詰まっている、儚くも、しかし力強い空気こそが80年代なのではないかと僕はにらんでいる。何故なら、このようなアルバムは現在では多分誰も作り得ないだろう傑作だからだ。実際、近年でこういう作風は全く見ない。ブライアン自身も作れないだろう。
 それは時代遅れだからとか、そういうことではなく、80年代と言う空気が生み出した作品であるからだ…かなり抽象的で、何言ってんだお前みたいな意見ではあるけど、音楽ってそんなモンだと僕は捉えている。しかし、これが21世紀の青年を興奮させたりするのだから・・・つくづく、ロック(音楽)はわからないものである。
  僕の父親もよく言う。「少年の頃、大人になったらロックを攻略して、もうジャズとかふんぞり返って聴いてると思っていた。けど、まだまだ抜け出せへんのやなぁ…」
 これから何十年と言う時間の流れの中で、世界は揺れ動いて行くだろうが、その時代毎のロックを僕は聞き続けたいと思っている。「最近のロックはてんで駄目だな、ったく、俺らが学生の時分にゃあ…」とは死んでも言わないつもりだ。
(太陽スミス)2005.8


DISCOGRAPHY

1980年 Bryan Adams(ギヴ・ミー・ユア・ラヴ)
1981年 You Want It, You Got It(ジェラシー)
1983年 Cuts Like a Knife(カッツ・ライク・ア・ナイフ)
1984年 Reckless(レックレス)
1987年 Into the Fire(イントゥ・ザ・ファイアー)
1989年 Live ! Live ! Live ! (Live ! Live ! Live ! )
1991年 Waking up the Neighbours(ウェイキング・アップ・ザ・ネイバーズ)
1993年 So Far So Good(ソー・ファー・ソー・グッド)
1996年 18 Til I Die(18 Til I Die)
1997年 MTV Unplugged(MTV アンプラグド)
1998年 On a Day Like Today(デイ・ライク・トゥデイ)
1999年 The Best Of Me(ベスト・オブ・ミー/ブライアン・アダムス・ベスト2)
2002年 Spirit: Stallion of the Cimarron(スピリット〜オリジナル・サウンドトラック)
2003年 Live at the Budokan
2004年 Room Service(ルーム・サービス)