ABC (エー・ビー・シー)


 「大人のためのダンス・ミュージック」。彼らの音楽を初めて聞いた印象はそんな感じだった。彼らが出現した当時(80年代初頭)ポピュラー・ミュージック・シーンで流行っていたのは、ポップでキャッチーなメロディーをダンス・ビートにのせることで、ニュー・ウェイヴやR&Bの連中は、この手法で次から次へとヒット・シングルを生み出していた。そしてついには、ロック界の大物たちまでもがその渦に巻き込まれ、ダンス・ビートでお手軽なヒット狙いをするに至っていた。その結果、ロック界全体がシングル向きの曲作りをするようになり、名盤の出現などは極端に少なくなっていた。
 そういった中で、シングル・ヒットを次から次へと放つABCの存在は極めつけとも思われたが、デビュー・アルバムを手にしてみて、あまりの完成度の高さに驚かされた。いや、圧倒されたという表現の方がよいかもしれない。ポップでキャッチーなメロディーを持ちながらも、どこかオシャレてハイセンス。ダンス・ビートを使っていながらも開放的な明るさはなく、どこか翳りのあるイギリスっぽさがプンプンしているのだ。しかも、アルバム全体はメドレーのようにつながり、1つのストーリー的に組み立てられている。細かいサウンド演出の妙は、プロデューサーであったトレヴァー・ホーン(元バグルズ〜イエス)の力も大きいが、それにも増して、ヴォーカルのマーティンの唄いっぷりやメロディー・センスがこのアルバムの中でひときわ輝いている。
 そして、セカンド・アルバムを聞いたとき、彼らへの「ポップ・グループ」という認識も新たにしなければならなかった。

 ABCの軌跡はマーティン・フライの軌跡でもある。英マンチェスター生まれのマーティンは、シェフィールド大学を中退し、雑誌のインタビュアーをしていたが、70年代末、地元のヴァイス・ヴァーサというバンドへインタビューしに行った時、メンバー達と意気投合。そのままバンドと行動を共にするようになり、いつしかステージではマーティンがヴォーカルをとっていたという。その後マーティンはフュージョンをベースにしたエキサイティングなダンス・ミュージックをやろうと決意し、1980年にABCが結成された。マーティンが影響を受けたアーチストは、初期のロキシー・ミュージックやデヴィッド・ボウイ、セックス・ピストルズ、U2、アレサ・フランクリンなど、ニュー・ウェイヴやパンク、モータウン・サウンドにファンク、ディスコ・ミュージックなど幅広いジャンルに渡る。これらを吸収したマーティンから湧き出るメロディーは、ただのポップスでもダンス・ミュージックでもない。ハイセンスでパッションを持った大人向けの音楽だった。
 ABC結成当初のメンバーは、
Martin Fry マーティン・フライ/ヴォーカル
Mark White マーク・ホワイト/ギター&キーボード
David Robinson デイヴィッド・ロビンソン/ドラムス、パーカッション
Stephen Singleton ステファン・シングルトン/アルト&テナー・サックス
Mark Lickley マーク・リックレイ/ベース・ギター

 
結成から1年後の81年、シングル「涙まだまだ(Tears are not enough)」でレコード・デビュー。この曲は全英19位のスマッシュヒットとなり、まずまずの好スタートを切った。82年には早くもメンバーチェンジがあり、ドラムをDavid Palmerデイヴィッド・パーマーに替えて、シングル「ポイズン・アロウ」と「ルック・オブ・ラヴ」を立て続けにリリースした。すると、どちらも全英でトップ10に入る大ヒットを記録し、一躍注目を浴びることとなる。
 この後タイミング良く、すぐにデビュー・アルバム「ルック・オブ・ラヴ(The Lexicon of Love)」をリリースすると、全英チャートでなんと初登場1位をマークしてしまう。その勢いはアメリカ(全米25位)や日本へも飛び火し、当時流行していたディスコでは、連日彼らの曲がかからない日はないほどだった。
 尚、このアルバムからは、「我が心のすべてを(All of my heart)」までが全英トップ10入りした他、全曲シングル・カットしてもおかしくないほどの名曲が揃った上、トレヴァー・ホーンのプロデュースによる、ドラマティックでプログレっぽいサウンド・アレンジや、緻密な音の処理など、今聞いても恐ろしいくらいの完璧さも備えていた。強いて言えば、時代の特徴である、デジタル・リバーブ処理(風呂の中で聞いているような感じ)が派手に施されているのが耳に付くくらいだ。
 ABCのメンバーチェンジは激しく、デビュー・アルバムのレコーディング直後にベースのマーク・リックレイが脱退、83年にはドラムのデイヴィッド・パーマーも脱退し、一時はトリオ編成になる。しかし、そのまま日本を含むワールド・ツアーを慣行し、同年中にはレコーディングも終え、セカンド・アルバム「ビューティ・スタッブ」もリリースした。
 このセカンド・アルバムがまたすばらしい!ひと言で言えば、ファースト・アルバムと対局をなすような、ワイルドでハードなロック・テイストをもったダンス・ミュージック。彼らの全アルバムの中でも、今聞いて一番かっこいいと思うのはこのアルバムだ。ジャケットも、ファースト・アルバムが映画のワン・シーンのような洗練された都会的センスを持っていたのに対し、このセカンドでは、荒々しい闘牛の絵とラフなタッチのタイトル・ロゴで構成されたラスティック(粗野)な印象のものだ。プロデュースには前作と変わり、ABCのメンバーたち自らとゲイリー・ランガンが共同で当たっている。後々の話では、当初よりマーティン・フライがトレヴァー・ホーンのやり方に不満を持っており、喧嘩別れしたということだ。そういう意味でも、このセカンドのサウンドこそが、マーティンたちが本当にやりたかった先進のサウンドであったと言えるだろう。
 だが、時は早すぎた・・・。1曲しかシングル・カットをしなかったということもあり、このアルバムに対する反応は鈍く、アルバムは全英12位/全米69位どまり、シングルの「そして今は・・・(That was then but this is now)」も全英18位/全米89位どまりと、かなり伸び悩んだ。前作のサウンドとかけ離れた音楽性にファンが戸惑ったということもあろうが、こういったハードなダンス・ミュージックが理解されるには、85〜86年に活躍する、ランDMCやビースティー・ボーイズのビッグ・ヒットを待たなくてはならなかったのだ。
 この後、彼らはニュー・アルバムのレコーディングのためアメリカへ渡るが、ステファン・シングルトンは離脱し、すぐにイギリスへ戻ってしまう。マーティンとホワイトはアメリカに残り、スタジオ・ミュージシャンを起用しながらニュー・アルバムをレコーディング。その後、現地で見つけた新メンバー
David YarrituEden(Fiona Russell-Powell)をバンドへ迎え入れるのだが、この2人はプレイヤーというよりは(演奏はできるようだが)、どうもビジュアル的な面で必要と考え、加入させたようだ(冒頭の写真はこのメンバー時のもの)。
 サード・アルバム「
ハウ・トゥ・ビー・ア・ジィリオネアー」は84年に英で先行リリース、翌85年に米でもリリースした。アメリカ市場を意識した、このアルバムのテーマはずばり「ポップ」。今まで以上にポップさを全面に出し、軽快で明るいサウンドに仕上げている。また、こういった曲の雰囲気と連動して、アルバム・ジャケットやインナー・スリーブもPOPなデザインで統一し、彼ら自身のルックスまでも髪型から服装までポップなイメージに徹している。新メンバー2人もこのイメージにピッタリのルックスを持ち、いっしょにいるだけで楽しくなるような存在感がある。このアルバムは全米で30位まであがるヒットを記録し、シングル「ビー・ニア・ミー」は、彼らのもくろみ通り全米9位(ダンス/クラブ・チャートでは1位)のビッグ・ヒットとなった。だが、全英ではアルバムは30位、「ビー・ニア・ミー」も26位どまりと今ひとつパッとせず、世界制覇の難しさを味わうことになる。
 イギリスへ戻ったマーティンとホワイトは、再び2人だけでレコーディングを開始。そして、87年に「アルファベット・シティ」を完成させる。その内容は、これまでの3枚のアルバムの要素をすべて兼ね備えた集大成的なもので、全英では7位まであがるヒットとなり、シングル「ホエン・スモーキー・シングス」も全英11位/全米5位の大ヒットを記録した。
 ところが彼らは、もはや変化することが使命のように、89年まったくタイプの違うハウス・ミュージック系サウンド・アルバム「UP」をリリースした。イギリスでは「The Real Thing」と「One Better World」がマイナー・ヒットしたらしいが、アメリカや日本では低迷し、このあたりから彼らの話題は日本へもまったく伝わってこなくなった。
 その後、彼らはポリグラムからパーロフォンへ移籍。91年にはアルバム「アブラカダブラ」をリリースするが、ますますマニアックなテクノ&アンビエント系サウンドへと移行し、もはや彼らについてくる初期からのファンはいなくなった。デジタルチックでパターン化されたサウンドは、マーティン&ホワイトが生み出す、ポップでエモーショナルな長所を殺し、はっきり言って眠くなる退屈な音楽になってしまった。彼ら自身もまた、しだいにやる気をなくし、この後長い休養に入ってしまう。
 1997年、沈黙を破って再びABCがミュージック・シーンへカンバックした時、すでにマーク・ホワイトの姿はなく、マーティンが1人でセッション・ミュージシャンを従えたソロ・プロジェクト的なものとなっていた。しかし、復帰第一弾アルバム「スカイスクレイピング」はまさしくABCそのもの。最初はインストゥルメンタルだったというこのアルバム、それだけに曲がみんな良い。初期の頃のダンサブルなポップさに少々パンクやオルタナ系サウンドのエッセンスを加味し、ところどころにはテクノ系の効果音やハードなギターが入る。そう、これまでやってきた様々なサウンドをすべて消化・吸収した極上のポップ・サウンド、これこそがファン達待っていた本来のABCサウンドだ。特に個人的にうれしいのは、セカンド・アルバムでみせたようなハードなギター・リフがかっこいい2曲目、5曲目、9曲目など。
 この年マーティンはABCとして全英ツアーも行い、その模様は99年にライヴ・アルバム「Lexicon of Live」としてもリリースされた。デビュー当時と同じ、金ラメのスーツ姿でステージにのぞんだマーティンは、いくぶん音域が狭まり、高音が出ない場面もあるものの、往年のヒット曲に新作もからめながら、ノリでそれをカバーしていた。翌年には、同年代に大活躍したカルチャー・クラブやヒューマン・リーグと共に、またUKツアーに出るなど精力的な活動を展開。その後もゴーウエストや元スパンダ・バレエのトニー・ハドリー(vo)ら第二次ブリティッシュ・インヴェイジョンの原動力となったアーチストたちと行動を共にしているようだ。
 また、2004年11月にはABCのデビュー・アルバムである「The Lexicon Of Love」が、デラックス・エディションとして、未発表テイクや82年のライヴなどを加えた2枚組として再発売される予定だ。この名盤がリマスターで蘇れば、今後再注目されることは間違いない。
(HINE)2004.10



The Lexicon Of Love
Mercury/ポリグラム

Beauty Stab
Mercury/ポリグラム

How To Be A...Zillionaire!
Mercury/ポリグラム

Alphabet City
Mercury/日本フォノグラム

Up
Mercury/日本フォノグラム

DISCOGRAPHY

1982年 The Lexicon Of Love(ルック・オブ・ラヴ)*デビュー・アルバムにしてダンサブル・プログレ(?)な超名盤
1983年 Beauty Stab(ビューティ・スタッブ)
*最もロック色が強いセカンド。今聞くとかなりかっこいい!
1985年 How To Be A...Zillionaire!(ハウ・トゥ・ビー・ア・ジィリオネアー)
*「ビー・ニア・ミー」が全米大ヒット
1987年 Alphabet City(アルファベット・シティ)
*メンバーが2人になってしまったが、内容はこれまでの集大成的
1989年 Up(UP)
*ハウス・ミュージックに急接近した新たな方向性をみせたアルバム
1990年 Absolutely ABC : The Best of ABC(アブソルートリー・ベスト・オブABC)
*初のベスト盤
1991年 Abracadabra(アブラカダブラ)
*テクノやトランスにもチャレンジ
1997年 Skyscraping(スカイスクレイピング)
*マーティン1人で再結成?あのポップ・フィールあふれるABCが帰ってきた
1999年 Lexicon Of Live 
*時を超え、あの名曲達がライヴで蘇る。1997年ロンドンでのライブを収録
2001年 Look Of Love : The Very Best of ABC 



Absolutely ABC : The Best of ABC
Polydor/ユニヴァーサル

Abracadabra
Parlophone/MCA

Skyscraping
BGMジャパン

Lexicon Of Live
Blatant/Koch

Look Of Love : The Very Best of ABC
Universal