第9章 ニュー・ウェイヴ〜ニュー・ロマンティックスへ

1.ロンドン・パンクの後始末
 
イギリスでのパンクは、国内の社会情勢(不況)を背景に、うさばらしのはけ口にもなり、他のロックを一掃してしまうぐらいの大ブームを巻き起こした。それはアメリカでのパンクとは比較にならないほどの影響力を持ち、英国内では、ファッション、アート、映画、ライフ・スタイルなどに至るまで、すべてを変えつくした。
 しかし、その実体は初期衝動的な破壊と叫びしかなく、自らそれを悟った元セックス・ピストルズのジョン・ライドン(ジョニー・ロットンから改名)は、PIL(パブリック・イメージ・リミテッド)を結成し、新たな実験的サウンド・スタイルを全面に打ち出した。そのスタイルとは、知的で観念的な詩、レゲエやダブの導入、リズムの重視など、ニュー・ウェイヴの特徴ともなるものであった。(右ジャケットはPILのメタル・ボックス)

2.ニュー・ウェイヴの台頭
 
70年代末期、イギリスではパンク以外のロックは時代遅れの産物として迫害を受け、多くのハードロックやプログレ・バンド達は、オールド・ウェイヴの刻印を押され解散に追い込まれた。そんな中、逆にこのパンク・ブームを利用してのし上がろうとする知的集団も現れた。
 78年にデビューしたポリス(左写真)も、当初はパンク・バンドだと思われていた3人組。実はこの3人、ジャズやプログレ界に精通した、知力とテクニックを兼ね備えたベテラン・ミュージシャンなのだが、イギリスのこの状況をいち早くキャッチし、わざと自らの技術をひけらかさず、シンプルな音の中に凝縮またはさりげなくチラつかせ、高度なサウンドを構築した。その結果評論家達にも絶賛され、79年にはセカンド・アルバム「白いレガッタ」が見事全英No.1に輝き、その後「シンクロニシティ」で全米までも制覇してしまう(全米17週連続1位)。一躍ニュー・ウェイヴの代表的グループとなったことは言うまでもない。
 一方、アメリカへ渡り、パンク・ブーム勃発以前からニューヨークのアンダーグラウンドに目を付けていたデヴィッド・ボウイや、彼を取り巻く周辺ミュージシャンも、既にニュー・ウェイヴ的アプローチを完成させており、この前後に連携をとりながら大活躍した。ブライアン・イーノ(右写真)、ロキシー・ミュージックイギー・ポップルー・リードなどがその一派だ。ボウイ自身も76年「ステイション・トゥ・ステイション」(全英5位/全米3位)、77年イーノとイギーも参加した「ロウ」(全英2位/全米11位)、同年「英雄夢語り〜ヒーローズ」(全英3位)、79年「ロジャー〜間借人」(全英4位)、80年「スケアリー・モンスターズ」(全英1位/全米12位)とニュー・ウェイヴ・サウンドのアルバムを連続で大ヒットさせ、第2の黄金期を迎えている。

3.アメリカ版ニュー・ウェイヴ
 
ニューヨーク・パンクは、もとからニュー・ウェイヴ的要素が強かったため、パンク・バンドが時代の経過と共にニュー・ウェイヴと呼ばれることも多かった。中でもデビュー当初はパンクの代名詞だったトーキング・ヘッズブロンディは、しだいにファンク色を強めニュー・ウェイヴ・バンドとして大成功する。トーキング・ヘッズは、ブライアン・イーノをプロデューサーに迎え、80年にアフロ・リズムを大胆に取り入れた傑作「リメイン・イン・ライト」を発表し、ニュー・ウェイヴとしての方向性を鮮明にした。またリーダーのデヴィッド・バーンはソロでも活躍、他のメンバー達も別プロジェクトでトム・トム・クラブを結成し、スマッシュ・ヒットを放った。
 一方、ブロンディ(左写真)は、シングル3枚連続全米No.1という偉業をやってのけ、ヴォーカルのデボラ・ハリーはソロでも人気が爆発。そのセクシーな容姿から、雑誌のグラビアなどにも引っ張りだこだっ た。一時はその唇に多額の保険をかけ話題になったこともある。このデボラ(通称デビー)の出現は、女性ロッカーの新しいスタイル(男勝りではなくセクシーさを強調)を確立したという点でも見逃せない。
 また、クイーンの仕事などで知られる名プロデューサー、ロイ・トーマス・ベイカーを起用していたニュー・ウェイヴ・バンド、カーズ(右写真)は、デビュー当初からハードロック・ファンとパンク・ファン双方から受け入れられた珍しいタイプのバンドで、70年代の終わりから全米大ヒットを連発。プロデューサーをAC/DCやデフ・レパードの仕事で有名なジョン"マット"ラングに替えた84年の「ハート・ビート・シティ」では、2曲のトップ10ヒットと、2曲のトップ20ヒットを生み大成功した。

4.ニュー・ウェイヴの大衆化
 イギリスを中心としたヨーロッパでは、80年代に入りニュー・ウェイヴが定着すると、その中からさらにテクノやノイズ・ミュージックなどが派生していった。日本からも坂本龍一らによるYMOが日本人としては初の全世界的な成功を収め、世界中でテクノ・ポップ・ブームが巻き起こった。それと同時に、ニュー・ウェイヴ界にもグラムと結びついたファッショナブルなバンドが登場し、アイドル的な人気を獲得してゆくようになる。
 ジャパンウルトラヴォックスは、その筆頭であったが、まだ音楽的には芸術運動っぽさを引きずった実験的な要素があった。しかし、しだいにエスカレートすると、最初からテクノやファンキー、レゲエなどを適当にちりばめ、ポップなサウンドで売れ線を狙うニュー・ウェイヴ系アイドルも現れた。カルチャー・クラブデュラン・デュランスパンダー・バレエカジャ・グー・グー(右写真)などがその代表で、彼らの音楽スタイルは、ニュー・ロマンティックスと呼ばれた。しかし、これらのサウンドはポップスとの境があいまいなため、しだいにポップス系アーチスト達に吸収され、ロック衰退を助長することになってしまう。(左上の写真はカルチャー・クラブのボーイ・ジョージ/vo)