第7章 パンク

1.爆音系とパンクのつながり
 60年代末〜70年代初頭にかけて、アンダーグラウンドで活動をつづけていたアメリカのガレージ・バンド達の影響を受け、70年代半ばには、ニューヨークを中心に独自の音楽文化が育っていた。特に政治過激派集団「ホワイト・パンサー」の広告塔的な側面を持っていた爆音系ガレージ・バンドMC5の影響力は絶大で、そのメンバーであった、ギタリストのフレッド "ソニック" スミスは、後にパンクの女王パティ・スミス(右写真)と結婚。オルタナティブ系バンドのソニック・ユースの「ソニック」もフレッドのニックネームに由来している。

2.グラム・ロック〜パンクへ
 ニューヨーク・パンクの音楽ルーツの1つには、やはりガレージ・バンドとして60年代に活動していたヴェルヴェッド・アンダーグラウンドを挙げずにはいられないだろう。「あまりの下手さに"俺にも出来る"と勇気が出たよ」とは、後にパンク&ニューウェイヴ界に多大な影響を与えるイギー・ポップ(vo)の言葉だ。そのイギー自身も、ストゥージズを結成し60年代末〜70年代初頭に活動するが、まったく成功することなくレコード会社との契約も切られてしまう。そこへ救いの手をさしのべたのが、早くからヴェルヴェッド・アンダーグラウンドのルー・リードやイギーの才能に気づいていたデヴィッド・ボウイだった。ボウイはイギーを自分の所属事務所に入れ、レコード会社との契約まで取りつけた。しかしながら、イギーはボウイのアレンジを嫌って飛び出し、ドラッグに溺れ引退状態となる。だが、この後またボウイに拾われ再起し、時代も彼に追いつき成功を収めてゆくことになる。こういった状況を目の当たりにしていたニューヨークのロッカー達には、この状況自体が衝撃的で、何か未知の新しいパワーを感じ取っていたはずだ。(写真は左からデヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、ルー・リード)
 こういったグラムからパンク時代へ移行する過渡期に現れた象徴が、73年に奇才トッド・ラングレン(ロックの神童と呼ばれた米天才マルチ・プレイヤー)のプロデュースでデビューしたニューヨーク・ドールズ(右写真)であり、ケバケバ・メイクに、シンプルでストレートなロック・サウンドという、グラムとパンク両方の特徴を兼ね備えていた。

3.パンクの女王
 パンクが最初に大きく注目され出したのは、ニューヨークで起きていたこういった状況を、すべて間近で体験していた元MC5のフレッド・スミスの夫人で、女流詩人でもあるパティ・スミスがデビューしてからのことだった。
 小さい頃から虚弱体質だったパティは、毎日本を読んで暮らす生活を送っていたが、その後ニューヨークの書店で働くうちに、若き日の有名写真家ロバート・メイプルソープと出逢い同棲生活を始める。メイプルソープは多くの芸術家と交流があり、ヴェルヴェド・アンダーグラウンドのプロデューサーであった画家のアンディ・ウォーホール、脚本家のサム・シェパード(写真左)や、ブルー・オイスター・カルトアラン・レイニアー(key)、トッド・ラングレンなど、さまざまなアーチスト達とこの時期に親しくなる。それと同時に、自らも自作の詩にバック・ミュージックを付け、人前で朗読するようになり、74年ついにはバック・バンドを従えシングル・デビューを果たす。このシングルには、当時恋人であったテレヴィジョントム・ヴァーレイン(vo,g)も参加していた。75年にはアルバム・デビューも果たすのだが、元ヴェルヴェッド・アンダーグラウンドのジョン・ケール(b,key,vo)をプロデュサーに迎え、トム・ヴァーレインやアラン・レイニアーも参加。加えてジャケットはメイプルソープによるポートレイトという、すごい陣容のアルバムである。これら全ての要素がいっぱい詰まったこの「ホーセズ」は全米47位まであがるヒットとなり、パンク時代の到来を告げた。

4.ニューヨーク・パンク
 パンク発祥の地であるニューヨーク周辺からは、同時期にテレヴィジョントーキング・ヘッズ(右写真)、ラモーンズブロンディなどが続々と注目されはじめ、その知的でシンプルで破壊的なサウンドとみすぼらしいファッションは、しだいにパンクと呼ばれるようになっていった。
 パンク=PUNKとは直訳すると「若い浮浪者」「よたもの」「不健康な」という意味があるが、ニューヨークのパンクはどこか芸術運動のような側面も持ち合わせ、イギリスで広まったパンクとは少し趣を異にしていた。

5.ロンドン・パンク
 イギリスでアートスクールに通っていた、マルコム・マクラレンは、アメリカへ渡り、ニューヨーク・ドールズのマネージャー兼準メンバーとして活動した後、テレヴィジョンを脱退したばかりのリチャード・ヘル(b,vo)を誘い、イギリスでバンドを組ませようと画策した。しかし、リチャードはこの誘いに乗らなかったため、マルコムがロンドンで経営する、アートスクール時代の仲間、ヴィヴィアン・ウエストウッド(女性ファッション・デザイナー)のブティック「SEX」に出入りしていた街のチンピラ達を集め、リチャードのファッション(破れたシャツ、逆立てた短髪、安全ピン・ルックなど)を真似て、75年セックス・ピストルズとして結成させた。彼らはろくに演奏もできなかったが、そのファッションと傍若無人な振る舞い、暴言がすぐにイギリス中の大きな話題となった。
 その後、それを見て影響されたクラッシュザ・ジャムストラングラーズなども現れ、ロンドン・パンクはニューヨーク・パンク以上の話題を集めることになる。しかし、こういったスタイルだけのロンドン・パンク・ブームは短命で終わり、以降高度な音楽性を持ったニュー・ウェイヴ系のアーチスト達によって、表面上のスタイルだけが受け継がれてゆくことになる。
ピストルズのリード・シンガーであったジョニー・ロットン(左写真)自身も早々にバンドを脱退し、ジョン・ライドンと名前を変え、ニューウェイヴ路線へ転向する。