第13章 オルタナティブとグランジ(80年代末期〜90年代前半)

1.デジタル機器の普及とインディーズ
 80年代半ばから急激に普及したデジタル機器(デジタル・サンプラーやシーケンサーなど)は、ロックよりむしろヒップ・ホップで多用され発展してきた。そして80年代後期にはヒップ・ホップがポップス界の主流に位置するほどのブームとなっていった。ロック界で唯一この勢力に対抗できたのは、早くからこういったデジタル機器を使いこなし、すでにほとんど1人でアルバムを作ってしまっていたプリンスぐらいで、ポップス界全体において、ロックのマーケットは少数派になるほど追いつめられていたと言ってもいいだろう。しかし、楽器を使いこなせなくてもプログラミングを覚えるだけで音楽を作れるこういった環境は、誰にでもセンスさえあればミュージシャンになれるというチャンスを与えることにもなった。こうして地下シーンではさまざまな新しい形態の音楽が生まれることになる。これに対応するように、レコード会社のあり方も、これまでのものとは異なり、インディーズ・レーベルと呼ばれる、小さい規模の地域密着型または一部のジャンルのコアなファン向けのレーベルが勢いをつけ、メジャーな動きとは別のマーケットを形成するようになっていった。(右上はプリンスがほとんど1人で作った、映画「バットマン」のサントラ。89年全米6週間No.1を記録した)

2.オルタナティブ・ロック
 80年代前半からインディーズで地道な活動を続けていた音楽マニア集団的バンドのソニック・ユースが、89年にメジャーのゲフィン・レコードと契約し大成功を収めたことがきっかけとなり、オルタナティブ・ロックがクローズ・アップされるようになる。デビュー当初は即興のギター・ノイズを大音量で演奏するだけであった彼らは、しだいにレゲエ、現代音楽、パンクなどを吸収し、実験を繰り返しながらアルバムを発表しつづけた。その先の成長というセールス主義の考え方より、実験そのものが彼らにとって重要だという点が他と違っていたのだ。彼らはメジャー・レーベルと契約後も一般市場をまったく無視したソロ活動などを自由に行えるような形態をとり、他のインディーズ系アーチストからも手本として崇められている。
 その後もR.EM.ナイン・インチ・ネイルズなど続々とインディーズ出身のバンドが頭角を現し、94年ベック(左写真)の出現でオルタナティブ全盛期を迎える。すべての音楽の断片を手当たり次第張り合わせていく、ベックのジャンク・アート的手法は、情報が洪水のごとくあふれる現代社会を投影し、ルーズでメリハリのないサウンドは「脱力系」と呼ばれ、社会が成熟しきって目新しいものがなくなってしまったことによる、現代人のやる気のなさを象徴していた。

3.シアトルから発生したグランジ・ロック
 オルタナティブ・ロックの中には、パンクの精神を受け継ぎ、華美な衣装に身を包み豪華なステージを披露するヘヴィ・メタルには批判的な連中も多かった。アメリカ西海岸では特にパンク・ロックが根強い人気を保ち、ロス、サンフランシスコ、シアトルといった大都市ではローカルなパンク・シーンでインディーズ・バンド達がたくさん活躍していた。またシアトルはジミ・ヘンドリックスの故郷でもあり、60年代や70年代初頭のハード・ロックが自然に聞こえてくる町でもあったため、パンクとハード・ロックが混じり合うこともあたりまえなことであった。そのシアトルから出現したオルタナティブ・バンドのニルヴァーナは、ビートルズのメロディー・センスとブラック・サバスのヘヴィネスさを併せ持ったパンク・サウンドで、91年にアルバム「ネヴァー・マインド」を発表し驚異的な大ヒットを記録する。同時期に同じシアトル出身のパール・ジャムも大活躍したこともあって、一躍シアトル周辺のバンド達に注目が集まり、彼らのことをシアトル・ロックと呼ぶようになった。その後このヘヴィ・メタルに対抗する勢力にパンク・バンドも加わり、アメリカのパンク・ブームとも言うべき「グランジ・ロック」の一大ブームが全米規模で沸き起こる。
 また、ニルヴァーナの中心人物であったカート・コバーン(vo)の、擦り切れたカーディガンに穴の開いたスニーカーといったボロボロな服装がグランジ・ファッションとしてもてはやされ、ストリートはもちろん、パリ・コレクション、ニューヨーク・コレクションといった世界的なファッション・ショーにまで影響を及ぼした。(右写真は93年春夏ニューヨーク・コレクションに登場したPerry Eellisのグランジ・ルック。
写真提供:日本流行色協会)

4.メタル・ブームの終焉とプログレ・メタルの登場
 過去にもイギリスでパンクがハード・ロックを一掃したごとく、90年代に入るとアメリカではグランジ勢によってヘヴィ・メタル勢は、ほぼ壊滅状態にまで追いやられた。わずかに残る優秀なメロディック・メタル・バンドでさえ、日本やヨーロッパを避難場所として細々と活動をつづけるしかなかった。
 しかしその状況下、ヘヴィ・メタルとプログレッシヴ・ロックを組み合わせ、独自のサウンドを構築する新たなる動きが起きていた。88年に初のトータル・コンセプト・アルバム「オペレーション・マインド・クライム」を発表するクイーンズ・ライチや、89年に登場するドリーム・シアター(左写真)達がその代表だ。
 デビュー直後には決して順風満帆ではなかった彼らは、その後も地道に活動を続け、プログレ・メタルという新しいサブ・ジャンルを切り開くにいたった。そして、90年代半ば頃までにはやっと一般の評価も高まり、次々と大ヒット作を生み出してゆく。その後、彼らのフォロワーも続々と登場し、それと同時に、プログレッシヴ・ロックという音楽自体にも再び注目が集まっている。

5.イギリスのオルタナティブ
 80年代にアメリカからイギリスへ渡ったハウス・ミュージックは、独自の進化を遂げ、レイヴ・カルチャーにまで発展したが、このレイヴの雰囲気を取り入れたインディーズ系バンドのストーン・ローゼズプライマル・スクリームが90年代には、イギリス・ロック・シーンをリードするほどのオルタナティブ・バンドに成長する。90年代初頭アメリカでグランジがブームになっている頃、イギリスではダンス・ミュージックがポップス・チャートを独占し、クラブ・カルチャーがたいへんな盛り上がりを見せていたため、インディーズ系バンド達もパンクよりむしろ、レイヴやアシッド・ジャズなどの影響を受けている方が一般的だった。ちなみに一方のアシッド・ジャズ系から出たスーパー・スターとしては、93年メジャー・デビューのジャミロクワイがいる。彼らもまた小さなアシッド・ジャズ・レーベル出身だったが、SONYからメジャー・デビューし大ブレイク。エレクトロ・ファンク・ロックという独自のサウンドを確立した。(右の写真はジャミロクワイのフロント・マン、ジェイ・ケイ)