第12章 メロディック・メタルとミクスチャー・ロック

1.スーパー・ギタリストの出現
 エドワード・ヴァンヘイレン以降、ロック・ギタリストのスーパースターは出現せず、ヘヴィ・ロック・バンドにおいても、そのほとんどがヴォーカル中心のバンドと化していた。ところが、元ブラック・サバスのオジー・オズボーン(vo)が80年にソロデビューし、ランディ・ローズ(元クワイエット・ライオット)、ジェイク・E・リーザック・ワイルドなど、スゴ腕のギタリストを次々と発掘し登用するようになってから、様相はしだいに変わり始める。そして、アルカトラスで名を上げたスーパー・ギタリスト、イングヴェイ・マルムスティーン(右写真)が84年にソロ・デビューを果たしたのを契機に、第2次ギタリスト花形時代とも言うべきスーパー・ギタリスト・ブームが勃発。
 その後、アルカトラスでイングヴェイの後釜に起用されたスティーヴ・ヴァイや、そのオーディションで惜しくも破れたクリス・インペリテリ、イングヴェイの亜流という批判も浴びたネオ・クラシカル・タイプのヴィニー・ムーア、ヴァイにギターを教えた師匠ジョー・サトリアーニ、再結成カンサススティーヴ・モーズ、再結成UFOアトミック・トミーMなど、次々とスーパー・プレイヤーが出現した。
 彼らはみな70年代のスーパー・ギタリストとは違い、常に前面に出過ぎるようなことはなく、バンドの1員として、あるときはバックに徹し、あるときはスーパー・プレイを披露する。また、どんなジャンルの音楽でも弾きこなし、ライト・ハンド奏法は当たり前のように取得していたのが特徴だ。

2.メロディック・メタル・バンドの台頭
 80年代半ば、ヘヴィ・メタル・ブームが本格化し、同じようなタイプのバンドが音楽マーケット上でひしめき合うようになると、しだいにメロディのよい、ある程度ポップでキャッチーなサウンドのヘヴィメタ・バンドがヒットチャートを賑わすようになる。
 アメリカでは日本で一足先に大人気となっていたボン・ジョヴィ(左写真)が本国でも認められ、86年アルバム「ワイルド・イン・ザ・ストリーツ」は全米9週連続No.1、800万枚というとてつもないセールスを記録。イギリスのデフ・レパードも、87年アルバム「ヒステリア」で全米1位、600万枚というビッグ・セールスを記録した。両バンドとも、風貌はヘヴィメタ・バンド風なのだが、サウンドはポップでキャッチー、悪い言い方をすると、ヘヴィメタ版産業ロックとも言えるものであった。
 しかし、この2つのバンドの大成功によって、ヒットチャート上でもロックが復権したことは確かであり、後続のバンド達にも大きな影響を与えた。そして80年代後期には、彼らを追うメロディアス系のヘヴィメタ・バンドが次々と登場し、ポイズンスキッド・ロウなど、ヘヴィメタ・アイドルまでが出現。90年代初頭までメロディック・メタルの一大ブームを引き起こすのであった。

3.スラッシュ・メタルとデス・メタル
 
メロディアス・ハードやメロディック・メタルの連中までも含んだヘヴィメタル・ブームが盛り上がる中、逆に純粋なメタルの特徴であるタテノリ・ビートを誇張したスピード感あふれるバンドも、マニアの間で人気を呼んだ。80年代半ば、ざくざくと切り立ったリフとタテノリ・リズムのエッジの鋭さを持つ、メタリカ(右写真)、スレイヤー、メガデス、アンスラックスといったバンドの出現で、これらの純粋培養メタルは一気に火がつき、スラッシュ・メタルと呼ばれ他のHM/HRバンド達と差別化された。Slash(スラッシュ)とは、「鞭打つような速いビート」という意味が込められている。
 また、80年代後半になると、スラッシュ・メタル勢の中でも特にスレイヤーの持っていた「速い、うるさい、怖い」という特徴を誇張し、さらに激烈なギターリフとブラスト・ビート(爆音)、激しく割れ歪んだヴォーカルを前面に押し出した、デス・メタルというサブ・ジャンルまで登場した。中でもセパルトゥラデスオビチュアリーディーサイドなどが80年代後半〜90年代初期にかけて注目を浴びた 。

4.ヒップ・ホップ・カルチャーとロックとの結びつき
 70年代初頭、ジャマイカから持ち込まれた巨大PAを導入したニューヨークのディスコあたりから「黒人のロック」とも言うべきヒップ・ホップ・ミュージックの歴史は始まった。いつしかディスコでは、黒人DJ達が選曲を競い合うようになり、スクラッチ(レコード盤を手動でリズムに合わせて引っ掻くように回す)やラップ(曲に合わせてしゃべる)、ブレイク・ダンス(アクロバティックなダンス)、派手なペインティング(左写真)などが流行。しだいに大きなムーヴメントとなり全米中へと広がっていった。こういった近年の黒人が生みだした独特の文化全体を指しヒップ・ホップ・カルチャーと呼ぶ。
 音楽の分野でも、ファンクの発展系として、ポリ・リズム(アフリカやラテンの国々で伝統的に用いられてきた手法で、同時に複数のリズムを演奏するもの)やラップを大胆に導入した、ヒップ・ホップ・ミュージックが注目され、80年代頃からたびたび全米のポップス・チャートにも顔を見せるまでになっていた。また、メジャー・シーンではマイケル・ジャクソンプリンスの出現により黒人音楽とハードロックが急接近しつつあった。そんな頃登場したのがヒップ・ホップにハードロックを導入したランDMCだった。86年彼らはエアロスミスの往年のヒット曲「ウォーク・ディス・ウェイ」をカヴァーし、全米のみならず世界中で大ヒット。その後白人のヒップ・ホップ・バンドであるビースティ・ボーイズもハードロックからの引用を効かせたヒット曲を連発し、ヒップ・ホップの人気は音楽全体規模で急速に高まっていった。

5.ミクスチュア・ロック
 
80年代末期になるとさすがにロック界でもヒップ・ホップは無視できないほど大きな影響力をもつに至り、ロッカー達自身さえラップやファンキー・サウンドを聞いて育った世代が活躍する年代にさしかかっていた。しかし、一般的には白人文化の象徴であるタテノリのロックをさらに凝縮したヘヴィ・ロックと、黒人文化でヨコノリであるヒップ・ホップが交わることは永遠にないだろうと思われていた。ヘヴィ・メタルとラップ・ミュージックではまさに水と油の関係に近いからだ。
 だが、その常識をうち破るサウンドが80年代半ばにアメリカの西海岸から誕生してきた。もともと西海岸では、スライ&ザ・ファミリー・ストーンタワー・オブ・パワーといったロックと関わりの深い黒人バンドを輩出した実績もあり、白人音楽と黒人音楽の壁を破る複合サウンドにはまったく抵抗が無かったようだ。特に85年に現れた、ファンク、レゲエ、スカとロックンロールの複合サウンドを具現化した黒人バンド、フィッシュ・ボーンやハードコア/パンク・バンドとしてデビューしながら、しだいにファンキーな面を強めてゆくレッド・ホット・チリ・ペッパーズ(右写真)らが西海岸のスケーター(スケートボード乗り)を中心にブレイクしはじめ、それがしだいに全米中へ飛び火、彼らの生み出す複合サウンドはいつしかミクスチュア・ロック(ミクスチャー・ロック)と呼ばれ、世界中から注目される存在となっていた。

6.ハウス・ミュージック
 70年代末期〜80年代初頭に流行していたテクノ・ポップは、メジャー音楽シーンではファンキー・サウンドなどに押され姿を消してゆくが、アンダーグラウンドでは「テクノ」や「ノイズ・ミュージック」として脈々と息づき、80年代後期になっても「ハウス」と呼ばれクラブ・シーンで人気を得ていた。一方、80年代半ばからシカゴを中心に流行したブラック系のリミックスを主体とするサウンドもシカゴハウスと呼ばれいっしょくたにされていたが、しだいに整理され、ヴォーカルや生演奏などを排除した純粋な音響志向ハウスをトランス、さらにその内ダンサブルでないものをアンビエントと呼ぶようになっていった。
 これらのハウス・ミュージック愛好家達は、80年代半ば頃から倉庫などでパーティーを開き自由な形で踊り狂うようになり、しだいに様々な思想、テクノロジー、薬物などが入り乱れ、かつてのヒッピーと近似した精神性を持つに至った。さらに90年代初頭にはこうした動きがエスカレートして、1万人規模に達する屋外パーティーまで開かれるようになり、1つの社会現象としてレイヴ・カルチャーとも呼ばれた。そんな中、ロック界からもサイケデリックの生き残りとして細々と活動を続けてきたホークウインドが、再び脚光を浴び久々のヒット作を放った。
 これらのハウス・ミュージックは、ロックとは切り離され、その後も細分化しながら独自の進化をつづけているが、その起源が70年代のジャーマン・ロックブライアン・イーノが創造した実験音楽あたりにあることは明白で、ロックの副産物と言えなくもない。(左のジャケットはレイヴ・カルチャーの中で注目され、突然ヒットしたホークウインドの90年作「スペース・バンディッツ」)