第10章 第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンとその影響(80年代初期〜中期)

1.第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン
 70年代後期にイギリスでわき起こったニュー・ウェイヴの大ブームは、ロック界のみならず、すべてのポップ・ミュージックに影響を及ぼしていった。そこには、技術革新によって簡単に操作できるようになった電子楽器の普及や、レコーディング技術の進歩なども大きく関係していた。また、ロック・アーチスト達も、高い演奏技術を持たずとも、曲やセンス、ルックスの良さによって成功するチャンスを掴むことができるようになったことが大きい。だが、その反面、唄や演奏技術の低下、単調なリズム・パターンの横行を招くことになる。
 70年代末期〜80年代初頭に入ると、それがいっそう顕著になり、テクノ系からのユーロ・ビートと呼ばれる独特の単調リズムや、レゲエのリズムなど、ノリの良いリズムにのせて、ポップでキャッチーなメロディーを付ける手法が大流行し、ビッグ・アーチストであるKISSクイーン達までもが、このビートを導入してヒットを狙い、コアなファン達をがっかりさせた。また、エレ・ポップと呼ばれる電子楽器を使った軽いポップスも、イギリスのハワード・ジョーンズ(key,vo)の成功によって急速に広まり、先のビートとともにブームとなって、あっという間にアメリカでも猛威を奮うようになった。80年〜83年頃までは、これらのサウンドの火付け役となったイギリスを中心としたアーチストによって、全米チャートが独占されることになる。この現象を第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンと呼ぶ。
 こういった現象は、60年代初頭にも起きているが、その時はイギリスのアーチストだけでチャートを独占していたのに対し、この80年代に起きた現象は、イギリスの他、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパ諸国なども含む、アメリカ以外のポップ(もちろんロックも含まれる)アーチスト達によるアメリカン・チャート独占であった。この時期に活躍した主なロック系アーチストは、イギリスではニュー・ウェイヴやニュー・ロマンティックス系の他、ハワード・ジョーンズやポール・ヤングと共にブリティッシュの若手ホープ御三家と騒がれたニック・カーショウ、イギリスよりアメリカで先に火がついたダイアー・ストレイツ、さらにフィル・コリンズスーパ・トランプなどのベテラン、カナダからはブライアン・アダムス(左写真)、コリー・ハートラヴァー・ボーイ等、オーストラリアからはリック・スプリングフィールド(右写真)、メン・アット・ワークイン・エクセス、その他アイルランドのU2やドイツのニナ・ハーゲンなども活躍した。

2.プログレ系アーチスト達の末路
 70年代の後半、ポップ化に失敗した多くのプログレ系バンド達は、解散もしくは分裂し、完全勢いを失っていたが、元キング・クリムゾンのイアン・マクドナルド(g,key)等が結成したポップ・ロック・バンド、フォリナー(左写真)の大成功は、他のプログレ系アーチスト達に、今後音楽市場で生き残ってゆくための指針を示したとも言える。80年代に入る頃には同様なポップ・サウンドを目指す、元プログレ・バンド出身者が次々と第一線に復帰した。フォリナー自身もイアン・マクドナルドは脱退後であったものの、80年の「4」で初の全米No.1を記録。その他、元イエスのスティーヴ・ハウ(g)とジェフ・ダウンズ(key)、元EL&Pのカール・パーマー(ds)、元キング・クリムゾンのジョン・ウェットン(b,vo)が結成したスーパー・グループ、エイジアも82年にデビューし大ヒットを放った。
 また、イエスジェネシスといった大御所も、ブランド名だけを残す完全なポップ・ロック・バンドと化し、シングルのビッグ・ヒットを放ってゆくが、これらはみな一過性のものでしかなく、しだいに本来のファン達も離れてしまい、長続きはしなかった。


3.アメリカ音楽界の不況
 第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンはもとより、FMエア・チェック(レコードを買わずにFMからカセット・テープなどに録音して済ませる)の増加やレコード価格の値上げ、さらには70年代のスーパースター達の衰退などが原因となり、80年代になるとアメリカのレコード業界は慢性的な不況に陥いっていた。これを打破するために目を付けたのは、契約料が安いわりに実力はある、売れないベテラン勢であった。彼らは曲やプロデュースのまずさなどが原因でいまひとつ売れずにいただけだったので、大物プロデューサーを付け、専門の作曲家に1,2曲頼んでポップな曲を書いて貰えば、すぐに大ヒットを記録した。もともとある程度の知名度もあるため、宣伝費もかからず、一から教え込まなくてもすぐに大規模なライヴもこなせる実力を持っているというメリットもある。
 こうして出てきたバンドには、REOスピードワゴンハートチープ・トリック(右写真)、スターシップフリートウッド・マックシカゴJ・ガイルズ・バンドスティーヴ・ミラー・バンドなどがいる。
 またその後、売れないベテラン実力派ロック・シンガー達にも注目し、同じ手法で売り出された。その筆頭であるジョン・ウェイトビリー・アイドルロバート・パーマーピーター・ガブリエルスティーヴ・ウィンウッドなどは次々と大きなシングル・大ヒットを放った。(左のジャケットは元ジェネレーションXのビリー・アイドルが放った大ヒット・シングル「アイズ」を収録したアルバム「反逆のアイドル」)

4.R&Bの革命児マイケル・ジャクソンとアメリカンロックの救世主プリンス
 
アメリカン・ロックがパッとしなかった80年代初頭、その間を縫うようにR&B系のアーチストが台頭し始め、中でもビッグ・スターのマイケル・ジャクソンと大物プロデュサーのクインシー・ジョーンズの大活躍により、R&Bはポップス・チャートにおいて一挙にロックとの力関係を逆転させることになる。マイケルとクインシーは、ロック系のミュージシャンも積極的に起用するなど、R&Bを誰もが聞きやすいサウンドに仕上げ、それまで一部の人のための特殊マーケットであったブラック・ミュージックを、広く一般的なものとして世界中に浸透させた。特に当時最も象徴的なロック・ミュージシャンであったエディ・ヴァン・ヘイレンを起用しての大ヒット(マイケル・ジャクソン/今夜はビート・イット)は、これまで相容れなかった黒人文化(R&B)と白人文化(ロック)の融合を音楽で成功させたものとして、たいへん意義深いものがあった。
 その直後、このR&Bおよびダンス・ビート・ブームを巧みに利用し、頭角を現した黒人天才ミュージシャン、プリンス(右写真)が登場する。元々はジミ・ヘンの再来と騒がれたロック・ギタリストであったプリンスは、R&Bシンガーとしてソロ・デビューし、しだいにダンス・ビート(ファンキー・ビート)を導入してディスコ・チャートを中心に人気を得ていった。そして、マイケル・ジャクソンがブレイクした直後の84年、ハードなロック・サウンドに強力なダンス・ビートを導入したアルバム「パープル・レイン」で、1000万枚以上のビッグ・セールスと全米チャート24週間No.1という驚異的な成功を収め、ロック界に大きな衝撃を与えた。以降、プリンスは次々と音楽スタイルを変えながら、ハイペースで完成度の高いアルバムを連発。アメリカン・ロックの進むべき道を指し示した。

5.映画のサウンドトラック・ブーム
 古くは1969年の映画「イージー・ライダー」から、ステッペン・ウルフの「ワイルドで行こう!」が大ヒットしたり、73年にポール・マッカートニーが007シリーズの主題歌「死ぬのは奴らだ」を手がけ、ヒットしたという例はあるが、これまであまり映画のサウンド・トラックにロックを持ってくることは何故かあまりなかった。
しかし、84年のロック系ダンス映画「フット・ルース」の大ブレイクによって様相は一変する。ケニー・ロギンス、マイク・レノ(ラヴァー・ボーイ)&アン・ウィルソン(ハート)、ボニー・タイラー、サミー・ヘイガーといったロック系シンガーを起用したこの映画のサントラ盤は、映画自体より大ヒットし、その後、こうしたロック&ポップスやR&Bシンガーによる映画のサウンド・トラックは急増した。
 この時期作られた映画サウンド・トラックで他に有名なものには、84年「カリブの熱い夜」(フィル・コリンズ、ピーター・ガブリエル、マイク・ラザフォード、スティヴィー・ニックス)、85年「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(ヒューイ・ルイス&ニューズ、エリック・クラプトン)、86年「トップ・ガン」(ケニー・ロギンス、チープ・トリック、ベルリン、ラヴァー・ボーイ)、87年「ダーティ・ダンシング」(エリック・カルメン、トム・ジョンストン)、88年「カクテル」(ビーチ・ボーイズ、スターシップ、メレンキャンプ&ジョン・クーガー)などがある。(左上はフットルースのサントラ・アルバム、右はトップ・ガン)