(あまりに幼すぎて本人の記憶にはありませんが)母に手を引かれ1964年の東京オリンピックのマラソンを、家の近くの国道まで見に行ったという世代です。
国立音大のサックス科に通うことになる姉の影響で、幼い頃よりジャズとクラッシックのサウンドに浸かって育ちましたが、中学に入学して間もない頃、パープルのライブ・イン・ジャパンに出会い、そのあまりのカッコ良さに衝撃を受け、パープルファミリー中心に、ロックを聴くようになります。そして、中学3年の時、キッスのデトロイト・ロック・シティーを聴き、ロックバンドを組む事を決意します。
高校に入ると、ボーカリストとして念願のハードロック・バンドを始めますが、高校3年の時、U.K.を聴いてしまったのをきっかけに、プログレッシブ・ロックの魔性の迷路に入りこんでしまい、その後、ピンク・フロイド、EL&P、キング・クリムゾン等の過去の大物プログレ・バンドのサウンドを聴きあさり、その影響で高校生活も残りわずかという頃、プログレ系のバンドを組み、活動を始めます。
大学時代に、現ケンソーのキーボディストの小口健一君と運命の出会いをはたし、プロ指向のバンドを結成し、学園祭等を中心にライブ活動をこなしていきます。その頃はテクニックの向上と、音楽的視野を広げる為、フュージョンや、各国民族音楽等も聴いていました。
その後小口君が、ケンソーに加入し、そのコネでケンソーのキング・レコードよりのメジャー・デビュー・アルバムにヴォイスとして参加し、その頃、難波弘之氏や、無名時代の葉加瀬太郎氏と出会います。
その当時、ケンソーで小口君と共に、キーボードを務めていて、後に東京ディズニーランドの音楽プロデューサーとなり、あの『光のパレード』を作曲した、私の尊敬する佐橋俊彦氏が、ケンソーでの私の歌に対し、「素晴らしいボーカルをありがとう。」と言ってくれた事が、今日までの私の人生においての励みとなっています。
音楽だけでは食っていけないので、とりあえず就職しますが、そちらが忙しくなり、音楽活動を10年以上中断していました。ごく最近、昔の音楽仲間にコンタクトを取り、ハードロック・バ ンド復活に向け始動し、2005年早々にライブを予定しています。 ボーカルの他には、本能的に体が求めるドラムを少々叩きます。作品もドラムが自分好みの物を選んで聴く傾向があります。浅く広く聴いてきたつもりでしたが、無意識のうちに、自分のバ ンドに良き影響を及ぼすであろうサウンドばかりをむさぼっていたようで、かなり、片寄った好みになってしまっておりました。 そして、好みのバンドやアーティストを語ると、そうとうな独断と偏見が加わってしまうようです。(ぴー)