東京とは名ばかりで、まだまだ田舎だった練馬から川崎市の端っこへ転校した中学1年の冬のある日、たまたま通りかかったレコード屋から聴こえて来たCCRの「雨を見たかい」によって、私は洋楽リスナーの道へ足を踏み入れる事になります。特に音楽と接点があるという家庭環境でもなく、家にはポータブル・プレーヤーがあっただけでしたが、後日改めて買いに走った「雨を見たかい」を、それはそれは擦り切れんばかりに聴いたものでした。慣れない土地での友達も次第に増え、ラジオのヒット・チャート番組を聴いてはそれぞれが決して多くはない小遣いをはたいて、お互いカブらない様にレコードを買い、貸し借りをし、時には交換をして自分の好みの音楽を形作り、その幅を広げて行くという生活を当時はしていました。チャートではスリー・ドッグ・ナイト、シカゴ、ビージーズ、グラス・ルーツ、ソロ活動を始めたビートルズ達といった辺りが常連で、エルビス・プレスリー、トム・ジョーンズ、エンゲルベルト・フンパーディンクなんかもチャート・インしていた頃のお話です。
そんな友人達の中から、御多聞に漏れずロック小僧が出現します。ギターを始める者、ドラム・セットを買って貰う者、或るいは学芸会で下手な演奏を披露する者なんかが、雨後の筍の様に出て来たのです。勿論私にも、「何か演奏出来たら・・・」という気持ちが無かった訳ではありません。が然し、そこで私にもう一歩足を踏み出させなかったモノは、小学校時代の音楽の授業の記憶でした。4年生の時に、課題だった「『白鳥の湖』を縦笛で吹く」をクリア出来なかった私は、やはり同様に出だしの「半音のシ」を綺麗に出せないヤツ等と共に、放課後の音楽室に残されます。そこで私達デキの悪い男子3人を指導する事になったのはクラスの中で最も笛の上手な、然し可愛い気のカケラも無い、女子でした。先生から云われるのならともかく、同じクラスの女子に見下される屈辱は後々まで尾を引く事となり、その後幾つかのターニング・ポイントとなる出来事を経て、私の「(演奏をする事で)プレーヤーの立場を理解してしまうと、純粋にリスナーとして『作品』を評価する事は適わない」という姿勢が形成されて行くのです。今から考えれば楽器演奏をしない事によって、文字通り「音を楽しむ」という要素を半減させてしまう事になる訳で、つまらない決心をしたモノだと思いますが、その頃は結構意義深い事だと信じていた様に思います。
洋楽を聴く、と云っても初めの頃はヒット・チャートで知る事の出来る音楽ばかりでしたので、所謂ポップスと、Deep PurpleやLed Zeppelin等を中心とした幾許かのHRをカジる程度でした。それが中学の終わり頃から頻繁に聴く様になったPink Floyd やEL&P、Free等の影響で、次第にプログレとHRにシフトする様になります。と同時に、「甘い音」や「軽いノリ」を遠ざけるという悪い癖もこの頃形成されたと思われ、この事は現在、このサイトで皆さんとお話する際に「弊害」となっているのは御承知の通りです(笑)。私の「ダーク&ヘヴィー」指向は、子供の頃からの「プロ野球在阪球団贔屓」の裏返しではないか、と指摘する向きもありますが・・・・。
けれどもこの時点でのプログレは、俗に云う「四天王」を中心とした、「普通のニュース・ソースで知る事の出来る」「普通にレコード屋で入手出来る」モノという範疇を出てはいませんでした。せいぜいPFMやFocus、プラス国内組の四人囃子、コスモス・ファクトリーといった所まででしょうか。それが妙に(或るいはもっと)捻くれて来たのは十数年前に、目白のWorld Disqueの存在を知ってからの事です。30代も半ばに差し掛かろうという時期にダーク&ヘヴィーの宝庫に出遭ってしまった訳で、それまでその存在を知らずにいた、非常にクオリティの高い演奏をするバンドとの出遭いはとても新鮮でした。Il Balleto Di Bronzo 、Semiramis 、Heldon 、Shylock 、その後ディスク・ユニオンが担ぐ事になるAnekdoten 、日本勢のArsnova 、Mongol 、Happy Family 等・・・、月に1度の目白詣では楽しみでした。近頃は諸般の都合により、そう頻繁に出かけて行く事が出来なくなってしまったのは大変残念です。
然しその代わりという訳ではないんですが、現在は別の事に情熱を注ぐ様になりました。齢40代も後半になって「やっぱり楽器を演奏したい!」との思いを抑え切れず、気の置けない仲間と月に1〜2度スタジオ入りし、ベースで遊んでいるのです。エラく遠回りをしたモンです。Police 、Nirvana 、村八分 、Cream そして「雨を見たかい」なんかを演ってますが……、目指すはMel Schacher !って、先祖がえりでしょうか。(鷹&虎)